第02章 --- 私の中に何かが目覚めた。そしてそれは飢えているようだ。
「人はいつ、人間であることをやめるのだろうか」
薄暗く不気味な夜道を進むにつれ、胃の腑を締め付けるような吐き気が酷くなっていった。体調を崩したわけではない。病気の類いではないことくらい、本能で察しがつく。
これは――警戒信号だ。
さらに僕の神経を削ったのは、背後から追随してくる足音だった。規則正しすぎる。夜道で誰かを追うにしては、あまりにも一定のリズムを刻んでいた。
僕の被害妄想なのか、それとも単なる通行人なのか。だが、人通りの途絶えた夜道で、息遣い一つ立てずに尾行してくる人間などいるはずもない。この界隈のことだ、カツアゲ目的の不良集団という線も考えた。
けれど、何かが決定的に違っていた。この足音は「人間」のそれではない。
尾行を確信した僕は、両手に提げたスーパーのレジ袋を強く握り締め、歩幅を広げた。早歩きになるにつれ、食材の入ったビニール袋がパタパタと両脚を激しく叩く。
曲がり角を利用して視界を切り、路地の影へと滑り込んだ。レンガ塀の窪み、巨大な鉄製ゴミ箱の背後へ身を沈める。
角の向こうから、あの異様な足音が近づいてきた。それだけではない。一歩踏み出すごとに、地を這うような重苦しい唸り声が響いている。深夜に妹のシエルと無理やり観させられた、B級ホラー映画の怪物の鳴き声そのものだった。僕はホラーなど大嫌いなのだが、あいつはいつだって強引に僕を巻き込むのだ。
街灯の鈍い光の下に現れたのは――長く、禍々しい漆黒の鉤爪だった。剃刀のように研ぎ澄まされた爪が、レンガの壁をガリガリと削りながら角を曲がってくる。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに乱れ打ち、耳の奥で早鐘のようにドラムを叩く。息を殺し、全身の血が凍りつくのを感じながら、僕はゴミ箱の陰で息を潜めた。
そして、奴が姿を現した。
話を盛っているわけではない。むしろ悪い冗談であってほしかった。
現れたのは、闇そのものから生まれ落ちたような異形の化け物だった。頭の両脇からは不気味に捻じ曲がった二本の角が生え、闇に溶け込む漆黒の皮膚。剥き出しの紅蓮の瞳が爛々と輝き、口元からは骨まで噛み砕かんばかりの鋭利な牙が覗いている。
僕は自分の知る世界で、正真正銘の『獲物』になり果てていた。
化け物は立ち止まり、やがて興味を失ったかのように足音を立てて後退していった。遠ざかる足音。諦めてくれたのか?
僕は小さく息を吐き出し、張り詰めた肩の力を抜いた。レジ袋を持ち直し、そろそろと路地へ出ようとした――その時。
ポタリ。
額に、温かく粘り気のある液体が滴り落ちた。
唾液だ。
直後、頭上至近距離からあの地を揺らすような唸り声が響いた。ゆっくりと首を上げると――レンガ塀の頂上から僕を見下ろす、二つの紅蓮の瞳と目が合った。
騙されたのだ。獲物を油断させて弄ぶ、捕食者の悪辣な罠に。
全身の毛穴が開き、生存本能が僕の身体を突き動かした。
脱兎のごとく地を蹴った。振り返る余裕など微塵もない。肺が悲鳴を上げ、脚の筋肉が引き千切れそうになろうとも、足を止めれば即座に肉片へと変えられる。
だが、二メートルを超える巨体でありながら、奴の速度は陸上のオリンピック選手すら児戯に見えるほど圧倒的だった。
曲がり角を幾重に曲がっても、距離は瞬く間に縮まっていく。
僕の身体に疲労の色が見えた瞬間――夜気を切り裂く跳躍とともに、怪物の巨大な腕が振り下ろされた。
ドガァッ!
左側頭部を鉄鎚で殴打されたような衝撃。頭蓋骨が砕け散る感覚とともに、僕の身体は宙を舞い、レンガ塀へと叩きつけられた。
手からレジ袋が滑り落ち、丸眼鏡が弾け飛ぶ。ゴミ箱へ崩れ落ちた僕の口から、大量の鮮血が吐き出された。
白い制服のシャツが赤黒く染まっていく。茶道部副部長・北条美優から手配された、あの清潔な制服が。
視界が血で滲み、意識の輪郭が急速に失われていく。
怪物は歪んだ笑みを浮かべ、無防備な僕を見下ろしていた。
そして、容赦のない解体が始まった。
まず、僕の左腕が根元から引き千切られ、奴の顎の中で骨ごと咀嚼された。僕自身の血が怪物の口元を汚す。
間髪容れず、右腕が奪われた。続いて両脚が、雑草でも引き抜くかのような容易さで引き裂かれる。
四肢を喪失した肉体から、夥しい量の血が石畳へ流れ出し、巨大な血溜まりを作っていく。
(……ああ、ここで死ぬのか。こんな路地裏の片隅で、四肢をもがれた肉塊になって……なんて無様なんだろう……)
走馬灯が脳裏を駆け巡る。
僕の胸を玉座にして勝ち誇っていた、あの憎たらしくも無邪気なシエルの笑顔。
家事を押し付け合って口を尖らせていた日常。
(……今夜の照り焼きチキン、楽しみにしてたのになぁ……)
人が死の淵に立つとき大切な者を思い出すというのは、どうやら本当らしい。
だが、認めるものか。
誰がこんな場所で、ただの餌として終わってたまるか。僕の命は、僕のものだ。誰に奪わせる筋合いもない。
僕には、帰りを待っている奴がいるんだ。
「死んで……たまるかよ……」
残された気管から、呪詛のような掠れ声を絞り出す。獲物の断末魔を聞き届けようと、怪物は嘲笑を浮かべて顔を近づけてきた。
その瞬間――四肢を失った肉体に、灼熱のアドレナリンが奔流となって駆け巡った。
腕も脚もない。だが、僕にはまだ『牙』がある。
渾身の力で顎を開き、肉塊と化した身体を這わせて怪物の喉元へ食らいついた。
肉を食い破り、頸動脈と気管を噛み砕く。
夜空を引き裂く怪物の咆哮。狂乱して暴れ回る巨躯に対し、僕は顎の力を一層強め、喉奥から溢れ出す黒い血を貪り飲んだ。
殺るか、殺られるかだ。僕の腕と脚を奪った代償を、利子をつけて払ってもらう。
暴れる怪物の力は次第に抜け、血の九割を飲み干された巨躯は力なく膝をつき、冷たい石畳の上へと崩れ落ちた。
怪物が完全に動かなくなったのを見届け、僕はようやく血まみれの口を離した。
内臓が裏返るほど悍ましい味。だが吐き出す間もなく、飲み干した怪物の血は僕の血管の中へと雪崩れ込み、全身の細胞を書き換えていく。
体内深くに潜んでいた『何か』が、凶悪な産声を上げた。
そしてそれは; 底知れぬ飢餓感を訴えていた。
(第二話 完)




