第一話 人間をやめた日
今朝の目覚めは最悪の悪夢だった。よりによって今日という日にだ。決して話を盛っているわけじゃない。「試験で赤点を取った」なんて生ぬるい悪夢なんかではなく、文字通りの現実的な悪夢である。
腹の上に巨大な隕石が激突し、肺腑を押し潰されて呼吸すらままならない――そんな重圧感だった。
そして、その「隕石」の正体こそ、僕の底抜けに元気な妹――神崎シエルだった。僕と同じ学園に通う十四歳、中等部の一年生。表向きは純真無垢な美少女を演じているが、その本質は折り紙付きのトラブルメーカーである。
いまも、僕に対する優位を確信したときに浮かべる、例の生意気な小悪魔のドヤ顔を全開にしていた。あろうことか、僕の胸の上を専用の玉座とばかりに見立てて陣取っている。まるで一国を支配下に収めた女王様気取りだ。
「おはよう、我が忠実なる下僕よ。愛らしい女王たるこの私自ら、尊い御姿をお見せしてあげたのよ。せいぜい光栄に思いなさい。こんな幸運に恵まれる人間なんて、そうそういないんだからね〜」
その声を聞くだけで、恥ずかしさで穴があったら入りたくなる。ご覧の通り、この生意気さは筋金入りだ。僕を完全に下民扱いし、僕の肉体は彼女のお尻を乗せるための玉座くらいにしか思っていないらしい。まったく、皮肉な話だ。
「はいはい、女王陛下様。その尊いお尻を僕の胸からどけてくれないかな。酸欠で窒息死する前にさ!」
残された酸素を必死に絞り出して抗議したものの、その言葉はかえって妹のプライドを煽っただけだった。肺にかかる圧力が一段と増す。酸欠どころか、僕の肋骨を全部へし折って悶絶させるまで気が済まないつもりらしい。
「ふんっ! まだ息があるなんて、期待外れね。私のような超絶美少女に窒息死させてもらえるんだから、もっと感謝してもいいんじゃない〜?」
「超絶美少女? まさか自分のこと言ってんじゃないだろうね……?」
口は災いの元とはこのことだ。黙っていればよかったのに、つい本音が喉から滑り落ちてしまった。気づいたときには手遅れだった。たった一言のからかいが命取りになる。先ほどまでの優雅な女王様は、一瞬にして冷徹無比な破壊神へと変貌を遂げていた。
「へえ〜? 我が美貌がそこまでお気に召さないのかしら、ちっぽけな下僕さん? なら、内臓がすべて無事なままで謝罪できるか、試してみようじゃない!」
その声には猛毒が宿っていた。巣を脅かされた毒蛇が獲物を絞め殺すかのようだ。次の瞬間、彼女はベッドの上ですっくと立ち上がった。もはや言葉はいらない。ギシッとベッドの軋む音だけが静寂を切り裂く。
シエルはスプリングを利かせてベッドから高く跳躍すると、まさに「神罰」と呼ぶにふさわしい一撃を叩き落としてきた。中一の華奢な足とは思えない全体重を乗せたストンピングが、僕の肺門へ直撃する。
無数の隕石が地表に降り注いだような衝撃。肺に残っていた空気が一滴残らず吹き飛び、パキッと骨が悲鳴を上げた気がした。
こうして僕は、十四歳の妹の手によって一度死亡した。
それだけでは拷問は終わらなかった。黒タイツに包まれた足の裏を僕の喉元へぐいぐいと押し当て、冷たい眼差しで見下ろしてくる。その瞳には紛れもない「殺意」が宿っていた。心に誓おう。二度とこいつの容姿を揶揄うのはやめようと。玉座扱いだろうが何だろうが、自分の命は惜しい。
シエルは足をどけるどころか、裾に白いラインの入ったプリーツスカートを優雅に整え、再び僕の肋骨の上へと腰を下ろした。喉に足を添えたまま。それ以上の余計な口答えを封じる警告の構えだ。
「よくお聞き、底辺の下僕。今すぐ一階の台所へ降りて、私の朝食を用意しなさい。メニューはチーズ入り、ふわふわの極上オムレツ三つよ」
「当然、我が食卓へは膝まずいて運ぶこと。例外は認めないわ。もし一つでも焦がしたり、またあんな悪趣味なケチャップアートを描いたりしたら……」
「この家で二度と安眠できないようにしてあげる。毎朝、毎昼、毎晩、あなたの胸の上に居座り続けて、その肺に本来の役割を叩き込んであげるわ。分かったかしら〜?」
「りょ、了解……はぁっ……了解でございます、女王陛下……」
「よろしい。物分かりの良い子は好きよ〜」
こうして僕は妹によって下僕の烙印を押された。妹に尻に敷かれる兄なんて滑稽極まりない。だが、やられっぱなしで終わる僕ではない。彼女が女王を気取るなら、僕は災厄の疫病になってやろう。茶番劇はここでおしまいだ。
僕は息を吸い込み、昼メロの難病ドラマで主人公が余命宣告を受ける時のような、哀れで痛々しい咳払いを披露した。
「ゴホッ……! ゲホッ、ぐっ……!」
咳き込む迫真の演技。シエルの身体が一瞬ビクッと強張る。胸と喉にかかる重みがすっと緩んだ。
「……な、何よその変な咳?」
毒気の八割が抜け落ちた。僕は言葉ではなく熱演で応じる。左手で胸を強く掻きむしり、大げさに顔を背けた。アカデミー賞主演男優賞ものの演技力だ。
「ゴホッ……うそだ……なぜ今になって……!」
「えっ? 何が嘘なの? ちょっと、モラックス! 勝手に死なないでよ! 私の世話や家事は一体誰がやるのよーっ!?」
(不器用な僕だけど、家政婦代わりに使われていた事実のほうが物理的ダメージより痛いよ! 薄情者め!)
内心でほくそ笑む。十四歳のメスガキアーマーが音を立てて崩れていく。妹に悲劇のヒロインの瞳を向けて、弱々しく囁いた。
「シエル……とうとう、かかってしまったみたいだ……不治の病に……ゴホッ!」
「や、病気!? なんの病気なの、お兄ちゃん!?」
「その名は……チクル……チクルメント症候群(くすぐり病)……」
「チクル……何それ?」
「恐ろしい不治の感染症さ……数日前に感染してしまったらしく……」
「そんな病気、聞いたことないわよ!」
「医師の話では、半径五十キロ以内の可愛い妹にだけ特異的に感染する強毒性ウイルスらしい……! シエル、僕に構わず逃げてくれ……!」
彼女の脳内で危機管理アラートが鳴り響いた。
「うぎゃああああっ! 近寄らないでぇぇぇ! そんな気色悪い病気、うつさないでよーっ!」
足元にゴキブリが出現したかのように、シエルは僕の胸から跳び退いた。塞がれていた気道に、新鮮な空気が一気に流れ込んでくる。
振り返りもせず、黒タイツの脚を回転させて部屋から脱兎のごとく逃げ出していく。廊下にバタバタと響く足音とともに、
「消毒! 消毒しなきゃあぁぁぁ!」
と悲鳴を轟かせながら。
「ああ、感染が広がっていく……僕の人生はここで終わるのかぁぁ!」
居間の方まで響くように最後まで役になりきり、足音が遠ざかると芝居を打ち切った。肋骨はまだ痛むが、作戦は大成功だ。
深呼吸して両腕を伸ばし、自由の空気を満喫する。ベッドを整え、意気揚々とシャワーを浴びに向かった。誰にも急かされない、至福の朝風呂タイムである。
十分後、すっかり身ぎれいになって茶髪をタオルで拭きながら部屋を出た。アイロンの利いた制服に袖を通し、トレードマークの丸眼鏡を掛ける。
階へ降りると、妹の潜伏場所を探す手間すらかからなかった。すすり泣きのような小さな声が居間から漏れていたからだ。
リビングのソファの影に、金髪のポニーテールを揺らしながら小さく丸まっているシエルの姿があった。プリーツスカートを膝下に巻き込み、両手で身を固めて、まるでヒマワリの種を警戒するハムスターのようだ。本人はそこが地球上で最も安全なシェルターだと信じ込んでいるらしい。
(わかりやすすぎるだろ、まったく)
僕はスリッパを脱ぎ捨て、音もなく背後へ回り込んだ。獲物を確実に仕留める熟練の狩人のように。気配を断つことにかけては、昔からちょっとした自信がある。
「……あいつが近寄ってきたら、絶対に血筋ごと根絶やしにしてやるんだから……」
ぶつぶつと物騒な呪詛を呟く妹の耳元に、そっと囁きかけた。
「みーっけ」
「きゃあああああっ!? お兄ちゃんっ!?」
怖がりなシエルは目玉が飛び出そうなほど目を見開いた。逃げ出そうとする肩をそっと制圧し、冷たいフローリングの上へ押し倒す。
今度はこちらの番だ。兄特製――「神罰」の時間である。
容赦のない、くすぐり攻撃の開始だ。
「あははははっ! やだ、やめてぇぇっ! 嘘つき! 不治の病って言ったくせにぃ!」
「嘘なんてついてないよ。ボーイスカウトの誓いに賭けて、全部真実さ〜」
「嘘ばっかりぃぃ! あははははっ!」
脇腹から首筋へ、弱点めがけて執拗なくすぐり攻勢を畳み掛ける。シエルの顔はあっという間に熟したトマトのように真っ赤に染まった。
「ごめんなさい! 下僕なんて呼んでごめんなさいぃぃっ! お願いだから可愛い妹を許してぇ!」
「『お兄ちゃんは宇宙一優しくて偉大な兄です』って言ってみろ!」
「お兄ちゃんは全多元宇宙で一番優しくて偉大ですぅぅ! 降伏! 全面降伏するから、女王をお許しくださぁぁい!」
かくして女王の圧政はここに打ち倒された。完全なる勝利である。
「謝罪を受理しまーす!」
手を離すと、シエルのポニーテールは無惨に乱れ、息を切らしながら肩を震わせていた。僕の肺門はこうして仇を討たれたのだ。
立ち上がったシエルは、制服の上から自らの胸元をきつく抱きかかえて僕を睨みつけてくる。
「これでおあいこだね?」
「おあいこなわけないでしょ! くすぐり倒しておいて!」
「君だって朝食ごときで僕を窒息死させようとしたじゃないか」
「だって……あんた、私の……そ、その……む、胸に……!」
顔から火が出るほどの羞恥心に悶絶する妹。ただ脇をくすぐられただけなのに、からかい甲斐のある反応を見せてくれる。僕はすっとぼけた顔で尋ねた。
「僕が何に触りそうになったって?」
「私の胸よ、このド変態エロ兄貴ーーっ!」
「ああ、それなら触ってないから安心していいよ。……たぶんね」
「たぶんって何よぉぉぉ!」
逆上したシエルは通学カバンを全力で投げつけてきた。直撃を受けた僕の丸眼鏡は無残にもフレームが歪んで飛んでいった。
シエルは腕を組んでぷいと横を向いた。
「オムレツ三つ。これは絶対妥協しないから。ふん!」
僕はため息をつき、デコピンを一発食らわせた。
パチン!
「痛っ! 何すんのよバカ!」
「手間をかけさせたお仕置き。女王様、髪を直してきなよ。疫病から逃げ惑ったせいでボサボサだ」
「誰のせいだと思ってんのよ!」
「早くしないとオムレツ抜きだぞ」
「ぐぬぬ……! すぐに用意しなさいよね!」
台所でエプロンを締め、卵をボウルに割り入れて手早く溶き、フライパンを熱する。
数分後、髪を整えてまだ頬を赤らめたシエルが戻ってきた。
「女王の再臨よ! ひれ伏しなさい!」
「はいはい陛下、貢ぎ物をお納めください。チーズ入りふわふわオムレツ三兄弟。焦げ目なし、ケチャップアートなしの特注品です」
「いただきっ!」
皿を奪い取るように受け取ると、彼女は美味しそうに頬張り、隙を見て僕の皿のおかずまで横取りしてきた。まったく抜け目のない妹だ。
朝食を平らげた僕たちはカバンを手に玄関を出た。
いつも通りの穏やかな朝。街を行き交う生徒たちは皆、同じ濃紺のブレザーを身に纏っている。合格率上位一パーセントを誇る超難関校の制服だ。
私立 黎明天地学園。
東京に聳え立つ、最高峰の教育環境を誇るエリート校。ここに集う生徒は厳格に三つの階層に分かれている。
第一階層:『富裕層の御曹司・令嬢』
財閥や大手系列企業の後継者、大物政治家や著名人の子女たち。破格の学費を納め、丘の上の豪華な特別寮に暮らす特権階級。
第二階層:『帰国子女・留学生』
アメリカ、欧州、中国などから集まったマルチリンガルのエリートたち。国際クラブに所属し、手厚い支援を受けている。
第三階層:『特待生』
貧困層出身ながら、突出した学力や類稀なる才能、スポーツや芸術の功績を見込まれて特別枠で入学を許された生徒たち。
そして僕は、言うまでもなくこの「特待生」枠の人間だった。学内では富裕層の連中から「裏口の貧乏人」と見下され、陰湿な嫌がらせや侮蔑の視線を受ける日常。だが、そんな雑音など僕の心には微塵も響かない。
親の七光りと人脈だけを誇らしげに振りかざす甘ったれた温室育ちの子供たちに、構っている暇などないのだから。
校門をくぐり、敷地内に入ったところでシエルと別れた。妹はなぜか怯えたような様子を見せていた。
もちろん、その理由はすぐに察しがついた。下駄箱から顔を上げるまでもない。磨き上げられた廊下に響く、あの不快な高価なローファーの軋み音で誰が近づいてきたか分かるからだ。
北条和也。
僕と同じクラスの二年生。2年A組、窓際最前列の席の主だ。日本屈指の物流巨大企業『北条ロジスティクス』の御曹司。僕たち特待生に支給される無償の学食弁当を運んでいるトラックの持ち主、そのものの一族だ。まったく、虫唾が走る。
和也は僕の背後にピタリと止まると、例の尊大な声で話しかけてきた。
「おいおい、誰かと思えば特待生の貧乏人じゃねえか。まだ僕たちと同じ空気を吸う度胸があるとは感心だな」
僕は下駄箱に手を置いたまま、侮蔑の言葉を聞き流した。
「……何の用だ、和也」
「施し主に対する口の利き方がなってないな。生意気な態度の前に、感謝の意を示すべきだろう?」
僕は小さく息を吐いてロッカーに向き直った。
「そこをどいてくれないか。荷物を出したいんだ」
和也は下品な笑みを唇に貼り付けたまま、あろうことか僕のロッカーの扉に体重をかけて塞いできた。至近距離から、鼻をつくような高級香水の匂いが漂ってくる。控えめに言って吐き気がするほど鬱陶しい。
顔いっぱいに浮かべたドヤ顔がすべてを物語っていた。クラスの女子たちからも愛想を尽かされている、典型的で薄っぺらな成金野郎。底なしの財布を持つことしか能のない人間のクズだ。金に物を言わせて好き勝手に生きられるのだから、気楽なものだろう。
「聞いたぜ? 2年B組のサクラにまたフラれたんだってな。これで今月三度目か? 裏口入学の貧乏人じゃなく、もっとマシな家柄なら少しは相手にしてもらえたかもな。笑わせるぜ」
取り巻きの二人が打ち合わせ通りに下品な笑い声を上げる。
「……まるで自分は女子にフラれたことがないような言い草だな」
僕が小さく呟くと、聞き取れなかったのか和也が顔を寄せてきた。
「あァ? 何言った? もっとデカい声で言ってみろよ、裏口」
僕は初めて奴の顔を正面から見据えた。完璧にセットされた髪、完璧に結ばれたネクタイ。その身に纏うすべてが、一族の財力によって買い与えられたものだ。奴が僕を憎むのは、僕が何も持たないにもかかわらず誰からも蔑まれてはいないからだ(もっとも、僕自身が誰かに告白したことなど一度もないのだが)。奴は単に、自分がフラれた鬱憤を僕に転嫁したいだけなのだ。
「別に何でもないよ。ただ、君はやけに失恋の痛みに詳しそうだなと思っただけさ」
和也の貼り付けたような笑みが凍りついた。しまった、黙っておけばよかったと自覚したときにはもう遅い。
「……調子に乗るなよ、施し物のクズが」
職員室の教師たちに届かないよう、和也は低く濁った声で耳元に囁いた。その目は本気で怒り狂っていた。
「僕の一族なら、お前の特待生枠など買い取って灰にすることだってできるんだぞ。お前みたいな貧乏人がここにいられるのは、うちの親父が『寛大な名家』に見せるための慈善事業に過ぎない。分を弁えろ、寄生虫が」
嘲笑の言葉とともに、和也は僕の胸ぐらを鷲掴みにした。ロッカーに背中を激しく叩きつけられ、前腕を僕の気道へ強く押し当ててくる。肺から空気が押し出される。この学園を実質的に支配しているのは自分の一族なのだと、暴力で誇示するかのように。
暴力が限界に達しようとしたその時――背後から、氷のように冷徹な声が響いた。
「和也」
その凛とした一言に、和也と取り巻き二人の動きがピタリと硬直した。現れたのは他でもない、奴の実の姉――北条美優だった。
背中に流れる艶やかな黒髪。気品と威厳に満ちた佇まい。同じ高級な制服を纏いながらも、どこか俗世の退屈を纏うような冷淡な美しさ。三年生にして、名門『茶道部』の副部長を務める才媛だ。彼女は僕に視線を向けることはなく、まるで足元のゴミでも見るかのような冷たい瞳で和也を見下ろしていた。噂によれば、北条家の中で父親から最も寵愛を受け、絶大な信頼を寄せられているのは彼女だという。
「父上から、一族の名に泥を塗るなとあれほど言われているでしょう。耳障りよ」
「で、でも姉さん、こいつが――!」
「この生徒が誰であろうと、あなたにどんな言い分があろうと関係ありません。廊下を塞いでいます。今すぐ退きなさい。さもなくば父上に報告します」
美優は北条家の正当な次期当主最有力候補と目されている。学年トップクラスの頭脳と教養を兼ね備え、無能な弟など足元にも及ばない。父親が彼女を偏愛するのも当然であり、和也の暴力は単なるコンプレックスの裏返しに過ぎないのだ。
美優は涼しげな足取りで僕たちの横を通り過ぎた。僕を見ることはなかったが、すれ違いざまにハンドバッグを軽く揺らし、和也の胸板にわざと当てて突き飛ばした。
不意を突かれた和也の腕が僕の喉から離れ、僕の肺にようやく空気が戻る。
その拍子に、彼女のバッグから小さなキャンディが一つ零れ落ち、コロコロと転がって僕の靴の横に止まった。
学園の片隅の駄菓子屋で売られている、ごくありふれた安物のキャンディ。うちのハイテンションな妹が、買っていかないと部屋を滅茶苦茶にすると脅してくる、あのお馴染みの飴玉だった。
「それから和也。自分の出したゴミは自分で片付けなさい」
言い残して美優は去り、実の姉に完膚なきまでに面目を潰された和也はその場に取り残された。表向きは一族の規律を理由にしていたが、結果として僕をあの窮地から救ってくれたのは美優だった。立場上、公に情けをかけることはできないが、彼女なりの助け舟だったのだろう。
騒動が収まると生徒たちは各々の教室へ戻り、授業が始まった。授業中、和也は終始僕を殺意の籠もった視線で睨みつけていた。顔面に無数のナイフを突き刺されているかのような視線だったが、僕は一切気に留めなかった。
昼休み、妹のシエルは新しくできたクラスの友人たちと賑やかに弁当を囲んでいたが、僕はいつものように一人屋上へ向かった。シエルのあの底抜けの明るさは、我が辞書において危険度『レベルSS+』の感染力を持つ。あいつのコミュ力には限界がない。
屋上といえば――奇妙なことに、僕がいつも腰掛ける定位置には、毎日丁寧に包まれた弁当箱が置かれているのだ。一体誰が、何のために置いているのか。
考えを巡らせるたび、行き着く先はたった一人の人物なのだが、なぜそんなことをするのか確信が持てないでいた。憐れみなのか、それとも何か別の意図があるのか。僕には分からなかった。
放課後、いつもなら教室へ押し掛けてくるシエルに、今日は先に帰るよう伝えた。妹は急な提案に目を白黒させ、どうせ誰かとデートでもするのだろうとからかいの視線を向けてきたが、ただの失礼な邪推である。
妹と別れた僕は、近所のスーパーへ直行した。西の空が赤く染まり、夜の帳が降りようとしている。この界隈は陽が落ちると治安がよろしくない。
僕は学生カバンを持ち直し、スーパーの自動ドアをくぐった。ガラス扉が静かに左右へ開き、馴染みある店内の匂いと店員の威勢のいい声に出迎えられる。
「いらっしゃいませー!」
買い物カゴを手に取り、まずは精肉コーナーへ。今夜は鶏肉の照り焼きを作る予定だったので、新鮮な鶏むね肉を選び出す。続いて青果コーナーへ回り、彩り豊かな野菜――ピーマン、人参、ブロッコリー、玉ねぎ、それに瑞々しいトマトをカゴへ入れた。照り焼きのタレと必要な調味料も忘れない。
夕方の店内には、大人十四人と生徒が六人ほど。会計を済ませ、両手にレジ袋を提げて店を出た。
だが、店を一歩踏み出した瞬間。
周囲の空気が一変した。
一見するといつもの見慣れた街並み。しかし、何かが決定的に異常だった。異様な静けさ、肌を刺すような冷気、日常の皮を被った「異界」の気配。
僕は首を振り、買い出しの荷物を持ち直して歩き出した。家では、今朝僕を窒息させかけ、オムレツを三つ平らげた怪獣が夕食を待っているはずだ。毎日の食費を考えると頭が痛くなるが、残さず平らげてくれる相手がいるのは悪くない。
そんな雑念に浸りながら薄暗い夜道を歩いていると、ふと背筋に冷たい悪寒が走った。
誰かが――あるいは「何か」が、僕の背後を執拗に尾行している。
ただの帰り道が重なっているだけなのか、それとも路地裏の暴漢か。あるいは――それ以上の存在なのか。
確かなことは、一つも分からないままだった。
(第一話 完)
あとがき
第001話をお読みいただき、ありがとうございます!
ここがケンとCielの物語の第一歩です。冒頭の朝のシーンで、すべてが壊れる前に少しでも笑ってもらえていたら嬉しいです。
次回、第002話『俺の中で、何かが目覚めた』。
もし楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をいただけると大変励みになります。それでは、次のお話でお会いしましょう!




