9. 女の泣き声
森の奥から、バンシーの声がもう一度響いた。
イリアはその声を追って歩き出す。
「ちょ、本当に行くんですか?」
後ろからカイルがついてくる。
「其方は来なくてもよいぞ」
「そう言われても、イリアさんひとりで行かせたなんて村長に知られたら、俺が怒られますよ」
「それは大変だな」
「なんで他人事なんですか!」
村を離れ、森へ入る。泣き声は途切れがちになりながらも、細い糸のように続いていた。
さほど奥へ進まないうちに、木々のあいだに白い影が見えてくる。
長い髪を垂らした女が、宙に浮かんでいた。足は地を離れ、薄い身体の向こうに、木の幹が透けて見える。女は両手で顔を覆い、幾度も泣き声を絞り出していた。
カイルが足を止める。イリアは気にも留めず、そのまま近づいていった。
「イリアさん、待ってください」
「案ずるな。心配のしすぎだ」
「俺には、全然大丈夫に見えないんですが……」
バンシーが顔を上げた。黒く落ち窪んだ瞳が、イリアを捉える。
「ア……アァァ……」
泣き声が、わずかに乱れた。イリアは歩みを緩めず、その姿を見つめる。
「……やはり、夜の民か」
「え?」
カイルが声を上げるあいだにも、二人の距離は縮まっていく。バンシーは逃げなかった。何かを思い出そうとするように、ただイリアを見つめている。
「アァ……ア……」
やがて、泣き声が止んだ。俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。
「……王……?」
イリアも足を止めた。
「久しいな」
「我ガ……王……」
バンシーの身体が震える。
「オ戻リニ……ナラレタノデスカ……?」
「ああ。つい先日な」
その言葉に、バンシーはその場で深く頭を垂れた。虚ろだった瞳には、少しずつ意識の色が戻りはじめている。
カイルが、イリアの後ろからおそるおそる覗き込んだ。
「……このバンシーも、墓地のスケルトンと同じなんですか?」
「そうだな」
イリアはバンシーに向き直る。
「もう話せるか」
「ハイ……」
「ならば聞こう。誰の死を感じた」
「え、それはどういう……」
カイルがイリアを見たが、答えは返ってこない。代わりに、バンシーが森の向こうへ顔を向けた。
リエル村の方角だった。
「生ケル者ノ命ガ……消エカケテオリマス」
「場所は分かるか」
「勿論デゴザイマス」
バンシーがゆっくりと動き出す。
「行くぞ」
「え、ちょっと待ってください。このままリエル村に戻るんですか?」
「そうなるな」
「でも、このままだと村の人間がバンシーに殺されて……」
「何を言っておる。この者たちは、人を殺めたりはせぬ」
カイルが目を見開いた。
「誰よりも早く、人の死の際に気づくことができる。そしてそれを周りに伝えるのが、この者たちの務めだ」
「じゃあ、バンシーが人を殺すんじゃなくて……死にそうな人のところに、現れるだけ……?」
「そういうことになるな」
イリアは駆けだしながら告げる。
「急がねば間に合わぬぞ。走れるか」
「……はい、もちろんです」
二人は急ぎ足で村へ引き返した。バンシーは木々のあいだを、滑るように進んでいく。村に近づくにつれ、その喉から、また小さな泣き声がこぼれはじめた。
村へ戻るころには、家から顔を出す者が増えていた。
「また聞こえるぞ」
「こっちに近づいてないか?」
バンシーの姿を見つけた途端、何人かが家の中へ引っ込む。
「バンシーだ!」
「なんで村の中に……!」
「待ってくれ!」
カイルが声を張り上げた。
「バンシーに何もするな!」
「何言ってんだ、カイル! そいつが来たってことは――」
「……だから、待てって!」
カイルの横を、バンシーが通り過ぎる。向かう先は、村はずれの小さな家だった。扉の前で止まり、再びすすり泣きはじめる。
「ここか」
「ハイ……コノ中デス」
カイルが家を見上げた。
「ここって……グラン爺さんの家じゃないですか」
「ひとりで住んでおるのか」
「はい、確か……」
カイルが扉を叩く。
「グラン爺さん!」
返事はない。もう一度、強く叩く。
「爺さん! いるんだろ!」
やはり、何も聞こえなかった。カイルの顔つきが変わる。
「入りますよ!」
扉に手をかけると、鍵はかかっていなかった。二人が中へ踏み込むと、すぐに人影が目に入る。
老人が、床に倒れていた。
「爺さん!」
カイルが駆け寄る。イリアもそばにしゃがみ込んだ。胸が、かすかに上下している。
「まだ生きておる」
「エマさんを呼んできます!」
カイルは家を飛び出していった。
イリアは老人の胸元に手を置く。命は、まだそこにあった。弱く、今にも途切れそうではあるが、消えてはいない。外では、バンシーが泣き続けている。
ほどなくして、足音が近づいてきた。
「どいて!」
エマが家に飛び込んでくる。後ろには、カイルと何人かの村人がいた。エマは老人のそばに膝をつき、すぐに容態を確かめはじめる。
「グランさん、聞こえますか?」
反応はない。胸元に手を当て、呼吸を確かめる。そのまま治癒の魔法をかけながら、エマが振り返った。
「カイル、誰かに担架を持ってこさせて! ここに寝かせておけないわ」
「分かった!」
カイルがすぐに外へ駆け出していく。イリアは少し離れた場所から、その様子を見守った。老人の命は、先ほどよりわずかに安定している。
エマが何度も名を呼びながら治療を続けるうち、やがて老人の指先が、かすかに動いた。
「……グランさん?」
目は開かない。それでも、呼吸は少しずつ落ち着いてきた。エマが小さく息を吐く。
「……間に合った」
外から聞こえていた泣き声が、ふっと途切れた。バンシーは扉の外に浮かんだまま、静かに家の中を見つめている。
しばらくして、カイルたちが担架を持って戻ってきた。数人がかりで老人の身体を持ち上げ、慎重に担架へ移す。
「このまま私のところへ運びます。今夜は様子を見ないと」
村人たちがうなずき、担架を持ち上げた。バンシーは、その様子をじっと見つめている。カイルもそれに気づいたのか、老人とバンシーを交互に見た。
「……泣き止んでる」
「ああ」
その声に、周囲の村人たちもバンシーへ目を向ける。
誰も近づこうとはしない。それでも、先ほどまで家に逃げ込んでいた者たちが、その場に踏みとどまっていた。
イリアはバンシーに向き直る。
「正気を失ってからは、上手く伝えられなかったのだろう」
バンシーがうなずく。
「死ヲ感ジル度ニ……伝エネバト思ッテオリマシタ。デスガ、声ガ……出セズ……」
「我を忘れて、泣くことしかできなかったか」
カイルが頬を掻いた。
「それで毎回、死にそうな人の近くで泣いてたのか……」
バンシーがカイルを見る。
「怖ガラセテシマッタノデアレバ、申シ訳ナカッタ」
「いや……俺たちも、勝手に勘違いしてたわけだし」
少しあとで、エマが戻ってきた。
「イリア様」
「どうだ」
「まだ安心はできませんが、ひとまずは大丈夫そうです。見つけるのがもう少し遅かったら、たぶん間に合いませんでした」
エマはバンシーに目を向け、少し迷ってから、頭を下げた。
「ありがとう」
バンシーが目を見開く。
「……私ニ?」
「あなたが教えてくれたんでしょう?」
バンシーはしばらく何も言わなかった。やがて、小さく頭を下げる。
「間ニ合ッテ……良カッタ」
「本当にね」
イリアはそんな二人を見やってから、バンシーに声をかけた。
「正気に戻れたのなら、次からは泣くだけでなく、誰かに知らせられるか」
「……勿論デゴザイマス、我ガ王」
カイルが苦笑する。
「それなら、俺たちも助かるな」
「そうですね」
バンシーは村のほうへ目を向けた。先ほどまで自分を恐れていた者たちが、担架の去ったほうを気にしながら、小声で話している。
もう、誰も家の中へ逃げ込もうとはしていなかった。




