10. 千年後の世界
翌朝。
イリアが食堂へ顔を出すと、ちょうどエマが入ってくるところだった。
「おはようございます、イリア様」
「おはよう。爺さんはどうだ」
「まだ眠っていますけど、昨日よりずっと落ち着いてますよ」
「そうか。それはよかった」
「しばらくは私のところで大人しくしてもらいます。少し元気になったら、すぐ家に帰るとか言い出しそうなので」
「ふふ、随分と厳しいな」
「年寄りは、少し元気になるとすぐ無茶をするんです」
エマはそう言って、セシアから朝食を受け取った。イリアも席に着き、焼いたパンをちぎる。向かいでは、カイルがすでに食事を始めていた。
しばらくパンを口に運んでいたイリアは、ふと思い出して顔を上げた。
「そういえば、カイル」
「なんです?」
「ここは、何という国なのだ」
「…………」
カイルの手が止まる。エマもイリアを見た。
「……知らなかったんですか?」
「聞く機会がなかったのでな」
「いや、まあ……言われてみれば、そうですけど」
カイルは少し考えてから、首を傾げた。
「アルセリア王国ですよ」
「アルセリア……知らぬ名だな」
イリアはその名を、口の中で転がしてみる。
「国だけでなく、近くにどんな街があるのかも、今の王が誰なのかも分からぬ」
「それなら、村長に聞いたほうが早そうですね」
エマがパンをちぎりながら言った。
「地図も持ってるでしょうし」
「なるほど。ならば、あとで聞きに行くか」
「俺も行っていいです?」
「構わぬぞ」
「私も行こうかな」
三人でそんな話をしていると、料理を運んでいたセシアが、呆れたように笑った。
「朝から勉強会でもするの?」
「そんなところだな」
「村長も大変ね」
食事を終えると、三人はそのままオズワルドの家へ向かった。
「今の世について知りたい、と」
「ああ。考えてみれば、私は知らぬことが多すぎる」
事情を聞いたオズワルドはうなずき、部屋の奥の棚へ向かう。
「でしたら、地図があったほうが分かりやすいでしょうな」
何枚かの紙をどけ、その下から折り畳まれた地図を取り出した。机の上に広げると、使い込まれているのか、端がすっかり擦り切れている。
「我々がいるのは、このあたりです」
オズワルドが、地図の端に近い場所を指さした。小さく「リエル」と書かれている。
「現在、この一帯はアルセリア王国の領土です」
「どれほど続いている国なのだ」
「建国から三百年ほどと聞いております」
「なるほど」
それなら、知らないのも当然だ。
イリアは地図の上を、目で追っていく。
「随分と広いのだな」
「このあたりは、王国の中でもかなり端のほうですからな」
オズワルドが、別の場所を指す。
「そして、リエル村を含むこの一帯は、アーノルド・ローヴェル辺境伯の領地になります」
「そのローヴェルという者が、このあたりの領主か」
「はい」
「会ったことはあるのか」
「ありませんよ」
オズワルドが即答した。
「辺境の小さな村の村長が、辺境伯様と直接お会いする機会なんて、滅多にありません。領主様のところから人が来るのも、税の徴収か、何か知らせがあるときくらいです」
「税か。それは今もあるのだな」
カイルが横から口を挟む。
「その辺は、昔と変わらないんですか?」
「国がある以上、必要になるのであろう。取り方は違うかもしれぬがな」
イリアはオズワルドに向き直った。
「この村では、何を納める」
「主に穀物です。その年の収穫を見ながら、村でまとめて納めます」
「今年は、本当に危なかったですね」
エマの言葉に、オズワルドがうなずく。
「ええ。あのまま畑が駄目になっていたら、かなり厳しかったでしょうな」
「食べる分だけでは足りぬのだな」
「税のほかにも、街から買わねばならない物がありますから」
「不作になれば、領主から何か支援はないのか」
「……そうですね、基本的には、自分たちで何とかするしかないです」
オズワルドが肩をすくめる。
「随分と薄情な主だな」
「まあ、辺境ですから。仕方ありません」
イリアは、地図へ視線を戻した。
「一番近い街は」
「ここです」
オズワルドが、リエルから少し離れた場所を指す。
「ルーデンという街になります」
「ここから、どれほどかかる」
「朝に出れば、日が暮れる前には着きますよ」
今度はカイルが答えた。
「其方は、よく行くのか」
「たまにですけどね。狩った獣の皮を売ったり、村で必要な物を買ったり」
「どのような物がある」
「塩とか布とか、道具とか……村にない物なら、大体何かしらありますよ。食い物も多いですし」
「ほう」
エマがすぐにイリアを見た。
「今、ちょっと嬉しそうでしたね」
「街の様子に興味があるだけだ」
「食べ物って聞いた直後でしたけど」
イリアが笑うと、カイルも笑いながら地図を覗き込む。
「俺が案内しますよ。イリアさんひとりだと、何しでかすか分からないし」
「失礼な」
「今までのことを考えたら、当たり前の心配です」
何のことか分からず、イリアは小さく首を傾げた。その横で、オズワルドが地図のさらに奥を指す。
「王都は、こちらですな」
「ほう、随分と遠いな」
「この村から、気軽に行ける距離ではありません」
「今の王の名は」
「レオルド・ヴァレン・アルセリア陛下です」
「レオルド……」
イリアにとっては、当然知らない名だ。
「どのような者なのだ」
三人が顔を見合わせた。
「さあ……」
カイルがオズワルドを見る。
「村長?」
「私を見るな。私だって、名前くらいしか知らん」
「村長なら、何か知ってるかと思って」
「王都へ行ったことすらないぞ」
エマもうなずいた。
「私も、王様の顔なんて見たことありませんよ」
「王だというのに、随分と知られておらぬのだな」
「いや、王都や中央では知られてると思いますけど……」
カイルが苦笑する。王よりも、目の前の畑や森のほうが、ここでの暮らしにはよほど近いのだろう。
その後も、イリアは地図を指でなぞりながら、いくつか質問を重ねた。近隣の村。街道。商人が来る頻度。村の外へ出るときに気をつけること。森の獣について尋ねれば、カイルが横からあれこれ口を挟んでくる。
「そういえば、其方らはあの森を随分と警戒しておるな」
「奥まで行く奴なんて、ほとんどいませんよ。魔獣もいますし」
「……魔獣か」
「何か気になります?」
「前にも言ったが、私には普通の獣にしか見えぬ」
「普通の獣は、あんなにでかくないですよ」
カイルが即座に返す。
「大きければ魔獣なのか」
「いや、そういうわけじゃ……エマ、説明できる?」
「なんで私に振るのよ」
エマも困ったように腕を組んだ。
「魔力を持っていて、人に危害を加える獣……とか?」
「普通の獣にも、魔力くらいあるぞ」
「……そうなんですか?」
「じゃあ、何が違うんですか?」
「私に聞かれても知らぬ」
四人とも、黙り込んだ。やがて、カイルが笑いだす。
「ずっと普通に使ってた言葉だけど、意外と説明できないもんだな」
イリアは気にも留めず、地図へ目を戻す。しばらくして、別の疑問が浮かんだ。
「そういえば、もうひとつ聞いてもよいか」
「なんでしょう」
「其方らは、私を何だと思っておる」
途端に、三人が黙った。
「…………」
「何故、そこで黙る」
カイルとエマが顔を見合わせる。オズワルドまで、少し困ったような顔をしていた。
「いや……聞いていいのか分からず、見て見ぬふりをしていたのですが……」
カイルが頭を掻きながら続ける。
「……魔族なのかな、って」
イリアが眉を寄せた。
「魔族?」
「……知らないんですか?」
「ああ、それも聞いたことがないな」
カイルが、何とも言えない顔になる。オズワルドが少し考えてから口を開いた。
「一般には、人族やエルフ、ドワーフなどとは別に、鬼、人狼、ダークエルフなどをまとめて魔族と呼びます」
「……待て」
イリアがすぐに口を挟む。
「はい?」
「今挙げた者たちは、皆、人間であろう」
部屋が静まり返った。カイルがイリアを見る。
「……人狼は、魔族ですよ」
「……ん? 人狼という人間だろう」
エマが少し考えてから言った。
「イリア様の言う『人間』って、私たちが使ってる意味より、広いんじゃないですか?」
「そうなのか」
イリアは腕を組む。
「私にとっては、言葉を交わし、考え、自らの暮らしを営む者は皆、人間だ。人族もエルフも、鬼も人狼も変わらぬ」
目を丸くするエマの横で、オズワルドが言った。
「今は、そういう分け方はしませんな」
「そうか。今は随分と細かく区別するのだな」
イリアはそれ以上深く追わず、少し考えてからカイルを見る。
「それで、其方らは私を、その魔族だと思っていたのか」
「まあ……」
カイルが言いづらそうに頬を掻いた。
「普通の人族だとは、思ってませんでした」
「何故だ」
「逆に、なんでだと思います?」
イリアは首を傾げる。
「影をあんなふうに動かして、アンデッ……夜の民から王って呼ばれて、千年も眠っていたみたいですし……」
「それだけか」
「それだけって、十分すぎますよ」
エマも笑った。
「私も、魔族なのかなって思ってました」
妙に納得しているイリアへ、オズワルドが尋ねる。
「では、イリア様は魔族ではないのですか」
「……其方らの今の分け方で、私を何と呼ぶのかは分からぬ」
少し考えてから、イリアは答えた。まだ何か聞きたそうなカイルを横目に、再び地図へ視線を落とす。
リエル村の周囲には、知らない地名がいくつも並んでいた。その中で、先ほど聞いたルーデンという街に、目が止まる。
「このルーデンという街は、少し見てみたいな」
「興味あるんですか?」
「ああ。今の人間がどのような街で暮らしておるのかは、気になる」
「だったら、今度――」
「急ぐ必要はない」
カイルの言葉を遮って、イリアは地図から顔を上げた。
「いずれ機会があれば、行ってみたい。それくらいだ」
「……まあ、街がなくなるわけでもないですしね」
イリアは、もう一度地図を見下ろす。
知らない国。知らない街。知らない言葉。
目覚めてから出会うものは、どれも以前とは少しずつ違っている。それでも、そこに暮らす人間たちの様子は、思っていたほど変わってはいなかった。




