11. 原初
夜。
村の灯りがほとんど消えたころ、イリアはひとりで外を歩いていた。
昼間に見せてもらった地図のことを思い返しながら、村はずれまで足を延ばす。知らない国に、知らない街。聞いたことのない言葉も、いくつか増えた。
夜空を見上げていると、少し離れたところに浮かんでいたバンシーが、ふいに動きを止めた。
「……どうした」
声をかけても返事はない。バンシーは森のほうへ顔を向けたまま、じっとしている。やがてその身体が、わずかに震えはじめた。
「何か感じるのか」
「……来ル……」
「来る?」
「……近ヅイテ……」
そこまで聞いたところで、イリアも気づいた。森の奥から、ひとつの気配が近づいてくる。
「……これは」
覚えがある。随分と久しい感覚だが、間違えるはずもなかった。イリアは森へ目を向ける。
しばらく待つと、木々のあいだに白い影が現れた。
女だった。地面へ届きそうなほど長い白髪が、風もないのにゆるやかに揺れている。肌は雪のように白く、整った顔立ちは人の女とほとんど変わらない。薄い白の衣をまとった身体は地からわずかに浮いているが、先日のバンシーのように、向こう側が透けて見えることはなかった。
ただ、その瞳だけが虚ろだった。
「……王……」
女の唇が動く。
「我が……王……」
同じ言葉を繰り返しながら、ゆっくりと近づいてくる。イリアはその場から動かず、女の顔を見つめた。
「……シアネリス」
名を呼んだ瞬間、女の身体が止まった。虚ろだった瞳が、揺れる。
「私のことが分かるか」
「……イ……リア……」
掠れた声がこぼれる。イリアは一歩、近づいた。
「そうだ」
「イリア……様……?」
「ああ」
しばらく、シアネリスは何も言わなかった。やがて、その両目が大きく見開かれる。
「……我が王」
先ほどまでとは違う、はっきりとした声だった。シアネリスはその場に膝をつき、深く頭を垂れる。
「本当に……お戻りになられたのですね」
「ああ。久しいな」
「……はい」
短く答えた声が、震えていた。顔を上げた瞳には、もう先ほどまでの濁りはない。
「ずっと……お待ちしておりました」
「そうか、すまなかったな」
「お眠りになられて、もしやお戻りにならないのではないかと……」
言葉の途中で、シアネリスは口を閉じた。自分でも、うまく整理がつかないのだろう。イリアは少しだけ目を細める。
「待たせたな」
シアネリスは幾度かまばたきをしてから、静かに頭を下げた。
「……そのお言葉だけで、十分でございます」
そのとき、近くにいたバンシーが、小さく声を漏らした。
「ア……」
二人がそちらを見る。バンシーは自分の身体を確かめるように、ゆっくりと両手を動かしていた。
「どうした」
「頭ノ中ガ……先程ヨリ、鮮明ニ……」
シアネリスの表情が変わる。
「……まさか」
目を閉じ、しばらく黙っていたが、やがて驚いたように顔を上げた。
「……感じます」
「何をだ」
「理性を失った同胞たちの声です。少しずつ、意識が戻っているようです……」
シアネリスは、再び目を閉じる。イリアは少し考えた。
「其方が戻ったことで、ほかのバンシーたちとも繋がりが戻ったか」
「……そのようです」
シアネリスが胸元へ手を当てる。
「私から生まれた者たちへ、以前のように声が届きます。ただ、あまりに離れすぎている者は……難しそうです」
近くのバンシーが、ゆっくりとシアネリスに頭を下げた。
「シアネリス様……」
シアネリスがそちらを見やる。
「もう大丈夫です。あなたも、自分の役目を思い出しているでしょう?」
「……ハイ」
返事も、以前よりずっと明瞭になっていた。イリアはその様子を眺めながら、小さくうなずく。
「これは都合がよいな」
シアネリスが、少し意外そうな顔をした。
「都合、でございますか?」
「ああ。ひとりずつ探して歩くのは、面倒だからな」
「……ふふ」
シアネリスが、小さく笑う。
「変わっておられませんね」
「其方もな」
そこへ、村のほうから足音が聞こえてきた。
「イリアさん!」
カイルだった。後ろからエマも来ている。
「また夜中に、何か見つけたんですか?」
イリアの近くまで来たところで、カイルはシアネリスに気づいた。
「……誰です?」
エマも足を止める。
「綺麗な人……」
シアネリスが二人へ目を向けると、カイルが少し身構えた。
「この人も……夜の民ですか?」
「ああ。バンシーだ」
「え?」
カイルが、近くのバンシーとシアネリスを見比べる。
「同じなんですか?」
「同じだぞ」
「……確かに、ほかのバンシーより綺麗なような……」
「ふふ、ありがとうございます」
シアネリスが静かに答えた。カイルが目をしばたたく。
「あ、え、普通に話せるんですね……」
「こらカイル、失礼よ」
エマが小声でたしなめる。
「いや、だって、今までの夜の民は……」
「この者はシアネリス。最初のバンシーだ」
イリアが言った。
「最初?」
「文字どおりだ。最初に生まれたバンシー、という意味だな」
「じゃあ……ほかのバンシーは?」
「この者から連なって生まれた」
シアネリスが、軽く頭を下げる。
「原初のバンシー、と呼ばれております」
「原初……」
エマがシアネリスを見つめた。
「じゃあ、バンシーの中では、一番偉い人みたいな?」
シアネリスは少し困ったように笑う。
「偉いかどうかは分かりません。ただ、私が最初に生まれたというだけです」
イリアが口を挟んだ。
「彼らはそれぞれ、同じ夜の民の『根』とも呼べる存在だ」
「それぞれ?」
カイルが首を傾げる。
「ああ。原初は、シアネリスだけではない」
「……ほかにもいるんですか?」
「全員で六人だ」
イリアは、その名をひとつずつ口にした。
「スケルトンのガルディム。グールのネフェラグ。レイスのイルネア。バンシーのシアネリス。デュラハンのルグナード。そして、リッチのエシュレム」
「……ちょっと待ってください。もしかして、それって全部、アンデッドの種類じゃないですか……?」
「そうかもしれぬな。お前たちが『アンデッド』と呼んでいる者たちは、おそらく皆、夜の民であろう」
カイルが頭を抱える。エマも驚いたのか、言葉が出ないようだった。
「ということは、スケルトンやバンシーだけじゃなくて……」
「イリア様って、全てのアンデッドの王……ということですか……?」
二人が、恐る恐るイリアに問いかける。
「そんな大層なものではない。原初の者たちは、私と最も古くから繋がっている夜の民、というだけだ」
「イリア様はこのようにおっしゃっておりますが、我ら夜の民を統べる王であると思っていただいて、間違いありません」
「こらシア、余計なことを言うでない」
カイルとエマの表情が固まった。ややあって、エマが意を決したように口を開く。
「……ほかの原初の方たちも、シアネリスさんみたいに、どこかにいるんですか?」
シアネリスの表情が、わずかに曇った。
「申し訳ございません。私も長く、正気を失っておりました。ほかの者たちがどこにいるのかまでは……」
「そうか……」
「以前なら、微かに気配を感じることもあったのですが、今はそれもほとんどありません」
「まあ、それならいずれ探せばよい」
イリアはあっさりと言った。
「急いだところで、場所が分からぬのでは仕方あるまい」
「……はい」
シアネリスはうなずき、それから近くのバンシーへ視線を向ける。
「私が意識を取り戻したことで、周囲のバンシーも一緒に理性を取り戻せました。これからは、皆さんにご迷惑をおかけすることもないでしょう」
「……それはありがたいですね。この前も、あのバンシーさんにグラン爺さんを助けてもらいましたし」
カイルが素直に言う。
「命の危機にある人を、ちゃんと教えてくれるってことですよね」
「ええ、その通りです」
シアネリスがうなずいた。
「それが、我らの役目ですから」
エマも少し安心したように笑う。
話が一段落すると、カイルとエマは村へ戻っていった。夜も遅い。二人の姿が見えなくなってから、シアネリスが静かにイリアへ向き直る。
「我が王」
「なんだ」
「もう一度、お側にいることをお許しいただけますか」
イリアは、わずかに眉を上げた。
「何を今さら聞いておる」
「ですが……」
「其方は昔から、勝手に私の近くにいたであろう」
シアネリスが目を見開く。
「今さら許しなど要らぬ。好きにせよ」
しばらくの沈黙のあと、シアネリスが笑った。先ほどまでの、どこか張り詰めた表情ではなかった。
「……はい、ありがとうございます」
イリアも、小さく笑う。
「改めて、久しいな。シアよ」
「はい。イリア様」
夜の中で、二人は久しぶりに、同じ空を見上げた。




