7. 一滴の血
ヘインの案内で畑をひと通り見て回ったあと、イリアは最初に触れた作物の前へ戻った。
「やはり、どれも似たようなものだな」
「何か分かりましたか?」
「ああ。これならまだ十分に戻せる範囲だろう」
ヘインは首を傾げる。
「戻せる……?」
「少し試してみよう」
イリアは畑の端にある一角を指さした。
「ここを使っても構わぬか」
「ええ、それはもちろん」
ヘインが少し離れる。イリアは人差し指の腹へ、爪を滑らせた。白い肌に細い傷が走り、赤い血が一滴、ぷくりと膨らむ。
「イリア様、何を――」
イリアは指先を土へ向けた。
一滴の血が落ちる。土に染み込んだそれは、またたく間に馴染んで、見えなくなった。
目を閉じる。血を通して、周囲に息づく命へ意識を伸ばしていく。弱った作物の命を捉え、その流れへ、そっと心を沿わせた。
「よし、このくらいで――」
イリアが目を開けた直後、目の前の葉が勢いよく起き上がった。
「おお……!」
ヘインが声を上げる。黄色く褪せていた葉に色が戻り、細かった茎が、目に見えて太くなっていく。
ところが、そこで終わらなかった。
作物の根元から、小さな草が次々と伸びはじめる。
「……ん?」
土が動き、隠れていた虫が何匹も這い出してきた。畑の脇に生えていた草までが急に背を伸ばし、イリアの足元へ絡みつかんばかりになる。
ヘインが一歩退いた。
「イ、イリア様?」
「…………」
イリアが意識を引くと、ようやく成長が止まった。
ヘインは、元気になった作物と、膝近くまで伸びた草とを交互に見る。
「これは……成功なんですか?」
「久しぶりで、加減を誤った」
イリアは立ち上がり、伸びた草を一本つまんだ。手についた土を払いながら、ヘインと向き合う。
「次は大丈夫だ」
「ほ、本当に大丈夫なんでしょうか……」
「心配するな。今ので感覚は思い出した」
*
イリアは次の畑の一画が見渡せる場所で足を止め、再び指先に小さな傷を作った。
「……その血が、肥料にでもなってるんですか?」
「いや、そうではない」
短く答えて、血を土へ落とす。
「私の血を通して、ここにある命の巡りを整えているのだ」
目を閉じる。先ほどよりも慎重に、ひとつひとつ確かめていく。力を失っている部分だけを選び、そこへ意識を集める。
「……よし」
静かに力を流すと、変化が少しずつ現れた。
垂れていた葉が、ゆっくりと持ち上がる。色の薄かった葉にも緑が戻り、細い茎が、自らの重みを支えられるだけの力を取り戻していった。
ヘインは何も言わず、その様子を見つめている。
しばらくして、イリアは手を離した。
「こんなところだろう」
ヘインが畑へ入り、いくつかの株を確かめる。葉に触れ、茎を見て、根元の土まで覗き込んだ。
「……さっきまでとは、全然違う」
立ち上がった彼は、イリアを振り返る。
「これ、ほかの畑にもできるんですか?」
「まあ、一応できるぞ」
「本当ですか!?」
ヘインはぱっと顔を明るくしたが、すぐに村のほうへ目をやった。
「ちょっと、村長を呼んできます!」
イリアが止める間もなく、ヘインは駆けていく。しばらくして、オズワルドとエマを連れて戻ってきた。
「イリア様!」
先頭を歩いていたオズワルドが、畑の一角を見て足を速める。
「ヘインから聞きましたが、これは……」
「命の流れを、少し整えただけだ」
「少しって……こんな便利な魔法があったんですね……」
「朝に見たときより、明らかに状態がいいですよ」
エマが作物を覗き込み、ヘインも嬉しそうに葉を持ち上げる。やがてエマは、その隣で妙に伸びた草へ目を留めた。
「……こっちは、どうされたのですか?」
「久しぶりで、加減を誤った」
イリアが素直に答えると、エマは笑いを堪えるように、口元へ手を当てた。
「イリア様でも失敗するんですね」
「私とて完璧ではない。間違えることもあるとも」
「ちょっと、安心しました」
「ん? 何故だ」
エマは笑いながら、イリアに向き直る。
「なんでもできる人に見えていたので」
「ふふ、それは期待を裏切ってしまったな」
イリアは畑へ目を向けた。
「それで、残りもやるのか」
ヘインとオズワルドが顔を見合わせる。
「お願いしてもよろしいのでしょうか」
「ああ。私がやると言ったのだ、気にするな」
そこからは早かった。畑をいくつかに分け、イリアが順に回っていく。血を一滴落とし、命の状態を確かめ、弱った作物だけに意識を向ける。そのたびに、作物は少しずつ本来の姿を取り戻していった。
その様子を聞きつけたのか、畑のまわりには、いつの間にか村人が集まっている。
「すごい……」
「朝まであんなに萎れてたのに」
「これなら、今年もなんとかなるんじゃないか?」
声が聞こえるたびに、ヘインの顔がほころんだ。
ひと通り終える頃には、朝日はすっかり高くなっていた。イリアは最後の畑から手を離す。
「これでよいだろう」
オズワルドが深く頭を下げた。
「ありがとうございます、イリア様。これで村の者たちも安心できます」
周囲からも、礼を言う声が次々に上がる。イリアは少し困ったように笑った。
「毎回はやらぬぞ。生き物は本来、自分で育つものだからな。今回だけ、特別に手を貸したのだ」
オズワルドが、不思議そうに問いかける。
「やはり、これほど便利な力ともなると、何か代償があるのでしょうか……?」
「魔法ではないのだが……まあ、よいか」
小さく呟いてから、イリアは続けた。
「代償はない。ただ、生き物の命に直接手を入れているだけだ」
「直接……?」
「弱ったものを立て直す程度ならよい。だが、好き勝手に弄り回すのは好かん。それだけのことだ」
村人たちが、真剣な面持ちで耳を傾けている。
「何かを失うわけではないから、安心せい。ただ、私の矜恃が、それを許さぬというだけだ」
オズワルドとヘインがうなずく。
「分かりました。これ以上、無茶なお願いはいたしません」
「今回だけでも十分です。ありがとうございます」
返事を聞いて、イリアもうなずいた。話が一段落すると、エマが畑の端を指さす。
「イリア様」
「なんだ」
「……あそこの畑は、どうしますか?」
最初に試した一角だけが、周囲とは明らかに様子が違っていた。作物は元気を通り越して大きく葉を広げ、そのまわりでは雑草が好き放題に伸びている。
イリアはしばらく眺めてから、小さく息を吐いた。
「……あれは、ヘインに任せる」
「えっ、俺ですか?」
「畑のことは、お前のほうが詳しかろう」
「そういう問題ですかね……」
頭を掻きながら、ヘインは伸びた草の中へ分け入っていく。その後ろ姿に、周囲からどっと笑い声が上がった。




