35. 命への感謝
古戦原に夜が降りるころには、周囲の騒がしさもすっかり収まっていた。
正気を取り戻したレイスたちは、先ほどまでのように生者を探してさまようこともなく、静かに草原を漂っている。グールたちも地面を掻き返す手を止め、戸惑ったように周囲を見回していた。
イリアはそんな彼らのあいだを歩きながら、イルネアへ顔を向ける。
「まだ、この辺りに導くべき魂は残っておるか?」
イルネアは黒く沈んだ顔をゆっくりと巡らせた。しばらく古戦原を見渡したあと、小さく首を横へ振る。
「……ございません」
「そうか」
今度はネフィラグを見る。法衣の裾を土で汚しながら、彼は少し離れた場所に転がっていた骨を、元の位置へ戻していた。先ほどまで自分たちが掘り返していたものだ。
「其方のほうはどうだ?」
「今すぐ俺らが手ぇ出さなきゃならねぇ死体はねぇですね」
ネフィラグは骨についた土を払い、立ち上がった。
「古いのばっかだ。とっくに魂も抜けてる。俺らの仕事じゃねぇっすよ」
「では、やはり其方らがここに残っていたのは……」
「昔の戦でしょうね」
ネフィラグは、古戦原を見渡す。
「でけぇ戦があって、死体が山ほど出た。俺らはその後始末に来た。そこまでは覚えてます」
「……私も」
イルネアが短く続けた。
「……死者を導くために、ここへ来ました」
「それからずっと、ここにおったのか」
ネフィラグは顔をしかめ、頭を掻く。
「どうも、そうみてぇですね。どの辺りからおかしくなったのかは、さっぱりですけど」
「……私も、記憶が曖昧です」
イリアが眠りについたあとも、すぐにすべてを失ったわけではなかったのだろう。長い年月をかけて少しずつ本来の役目だけが歪み、その場を離れるという考えすら失っていった。
ネフィラグが、少し離れたところに残る比較的新しい骨へ目を向ける。
「たまに俺らを討ちに来る奴もいたみてぇだな」
「覚えておるのか?」
「ところどころですけどね。武器持って突っ込んでくる連中がいた気はします。まあ、あの状態の俺ら相手じゃ……」
最後までは言わなかった。何があったのかは、残されたものを見れば分かる。イリアもそれ以上は尋ねず、古戦原にいる夜の民たちへ視線を向けた。
「其方らも、もうここに留まる必要はないのであろう?」
イルネアが、静かにうなずく。
「……そのようですね」
「俺らも同じですね。仕事もねぇのに、いつまでも古戦場に居座ってたってしょうがねぇ」
ネフィラグの言葉を聞いたグールたちが、互いを見るようにゆっくりと顔を動かした。レイスたちも、先ほどまでとは違い、自らの意思で周囲を見渡している。ここに縛られていた者たちも、これからはそれぞれ本来の役目へ戻っていくのだろう。
「では、私たちも帰るか」
イリアがそう告げると、ネフィラグが首を傾げた。
「帰るって、どこへです?」
「今はリエルという村におる。シアネリスとルグナードもそこだ」
「村?」
「ああ。なかなか面白いところだぞ」
ネフィラグは少し考え込んだあと、ふと思い出したように顔を上げた。
「……ノクティアは残ってんですか」
「ああ。ガルディムがおる」
今度こそ、ネフィラグがはっきりと驚いた。
「……あの爺さんも無事なんですか」
「元気に墓を守っておるぞ」
「そりゃ何よりだ」
青い霊体のイルネアも、わずかに顔を上げる。
イリアはそんな二人を見てから、足もとへ影を広げた。
「ガルディムにも、そのうち顔を見せてやるとよい。今日は一度、リエルへ戻ろう」
「分かりましたよ」
ネフィラグが影の上へ足を踏み入れ、イルネアも静かにイリアのそばへ寄る。三人の姿を影が包み込んだ。
*
影を抜けると、そこは見慣れたリエルの外れだった。
すでに日は沈み、村の家々から灯りが漏れている。少し離れた場所では、何体かのスケルトンがまだ作業を続けていた。
「ここが、リエルだ」
イリアが一歩前へ出る。
イルネアは何も言わず、村を見渡していた。その青い身体は夜の中でも淡く光り、顔の部分だけが深い闇に沈んでいる。隣に立つネフィラグも、痩せた死者の身体に古びた法衣という姿で、村人から見れば十分に異様だろう。
それでも、騒ぎにはならなかった。近くにいた村人が一瞬足を止めたものの、イリアの姿を確かめると、遠巻きに様子を見るだけだった。すでにリエルには、スケルトンも、バンシーも、デュラハンもいる。新しい夜の民が増えた程度では、以前ほど驚かなくなっているらしい。
「随分と慣れたものだな」
イリアが呟くと、ネフィラグが村人たちを見回した。
「……ここ、人間の村ですよね?」
「ああ」
「俺ら見ても、逃げねぇんですか」
「ああ。みな親切で、良い者たちばかりだ」
「でしょうねぇ」
村の中央へ向かって歩いていると、こちらに気づいた人影が駆けてくる。
「イリア様!」
シアネリスだった。イリアの姿を見て安心したように微笑んだ彼女は、その後ろに浮かぶ青い霊体に気づき、足を止める。
「……イルネア?」
「……シアネリス」
シアネリスの表情が、一気に明るくなった。
「本当にイルネアなんですね!」
そのまま近づいていくシアネリスに対し、イルネアは動かない。だが、逃げることもなく、その場で彼女を待っていた。
「また会えて、本当によかったです」
「……私もだ」
短い返事だったが、それだけでシアネリスには十分だったようだ。その少し後ろから、ルグナードもやってくる。
「無事に戻られましたか、イリア様」
「ああ。見ての通りだ」
ルグナードはイルネアへ向けて一度深く頭を下げ、それからネフィラグへ顔を向けた。
「ネフィラグまで一緒とは、予想していなかった」
「俺もだよ。気づいたらイルネアと同じ古戦場にいやがった」
「其方も変わらぬな」
「そっちもな。相変わらず堅苦しい格好してやがる」
「鎧を脱ぐことはできぬのでな」
「知ってるよ。冗談だっての」
昔と変わらない調子で言い合う二人を見て、イリアは小さく笑った。シアネリスもようやくネフィラグに気づいたらしく、嬉しそうに声をかける。
「ネフィラグも、お久しぶりです」
「おう。元気そうじゃねぇか」
「ええ。ネフィラグも……元気そう、と言っていいのでしょうか」
「ハハ、ついさっきまで我を忘れて暴れてたぜ」
シアネリスが少し困った顔をし、ネフィラグが笑う。その声を聞きつけたのか、共有建物のほうからエマとセシアも顔を出した。
「イリア様、お帰りなさい」
「ああ。今戻ったところだ」
エマの視線が、イリアの後ろにいる二人へ移る。
「こちらの方が、……イルネアさんですか?」
「そうだ。それと、こちらはネフィラグ。たまたま同じところにおってな」
「ネフィラグだ。どうも」
ぶっきらぼうながら、ネフィラグは軽く頭を下げた。
「エマです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
セシアも二人を眺めたあと、イリアへ目を向ける。
「帰ってきたばかりなんでしょう? ちょうど夕飯の支度をしてたところだから、イリアさんも食べていかない?」
「それはありがたいな」
イリアが答えると、ネフィラグが料理の匂いに気づいたように鼻を動かした。セシアもそれに気づく。
「ネフィラグさんも食べる?」
「おう。もらえるならぜひ」
その返事に、シアネリスが少し意外そうに顔を向けた。
「ネフィラグは、食事が必要でしたっけ?」
「別に食わなくても平気だけどな。うまいもんまで断る理由もねぇだろ」
「其方らしいな」
イリアが笑う。
*
共有建物の卓には、温かい煮込み料理と焼いたパン、それに野菜を使った料理が並べられた。料理を口にするのはイリアとネフィラグだけだったが、イルネアやシアネリス、ルグナードも近くに集まり、久しぶりの再会を楽しんでいる。エマとセシアも同じ卓につき、話に加わっていた。
ネフィラグは目の前に置かれた料理をしばらく眺めてから、静かに姿勢を正した。さっきまでの雑な態度が、ほんの少しだけ変わる。
「……いただきます」
そう言って軽く頭を下げ、それから料理へ手を伸ばした。エマがその様子を見て、少し目をしばたたく。
「ネフィラグさんも、そういうことをされるんですね」
「ん?」
「食事の前に、命へ感謝することです。ルメリア教にも、似た教えがあるので」
ネフィラグの手が止まった。
「ルメリア教?」
「はい。現代では大きな宗教ですよ。特に東の聖教国では、ほとんどの方が信仰しているそうです」
「へぇ」
ネフィラグはしばらく考えてから、煮込みの中の肉を木の匙ですくった。
「良い事言う教えじゃねえか」
「そうですね。食べ物を粗末にしないことは、かなり厳しく教えられるそうです」
「そりゃ当然でしょう」
ネフィラグは匙を置き、料理を指す。
「これだって、少し前までは生きてたんだ。こっちが生きるためじゃなくても、食うと決めたなら命を貰うことに変わりはねぇ。礼くらい言わなきゃ失礼ってもんだ」
言葉遣いは乱暴なのに、言っていることだけは妙に真面目だった。エマは少し笑う。
「ルメリア教の方とは、話が合うかもしれませんね」
「まあ、その話を聞く分には気は合いそうだ」
ネフィラグはそれ以上気にする様子もなく、料理を食べはじめた。
「……うまいな、これ」
「本当? よかった」
セシアが嬉しそうに笑う。ネフィラグは二口目を食べる前に、ほんの一瞬だけ皿へ目を落とした。それから、今度は声に出さず、小さく頭を下げる。
イリアはその様子を横目に見ながら、自分もパンをちぎった。千年前と変わらない。ぶっきらぼうで、雑で、口も決して綺麗ではない。それでも、命だけは決して粗末にしない。
その隣では、青い霊体のイルネアが、静かに村の様子を眺めている。外からは、まだ働いているスケルトンたちの足音が聞こえ、その近くを村人たちが当たり前のように通り過ぎていく。イルネアが、わずかに顔を動かした。
「……不思議な場所ですね」
「そうであろう? 私は気に入っておる」
イリアは小さく笑う。
イルネアは、しばらく村の灯りを眺めていた。




