34. 導く者と弔う者
影に絡め取られたグールたちは、なおも身体を捩りながら、イリアへ手を伸ばしていた。
力任せに拘束を破ろうとしているが、影が揺らぐことはない。イリアは彼らを傷つけぬよう動きだけを封じ、その脇を通り抜けて、古戦原の奥へ進んだ。正気を取り戻したレイスも、少し距離を空けて後ろからついてくる。
進むほどに、周囲を漂うレイスの数は増えていった。崩れた石壁の上、朽ちた墓標のあいだ、草原の上。目的もなくさまよう者もいれば、ただ一点に留まったまま揺れている者もいる。その多くが、先ほどのレイスと同じように歪んでいた。イリアの姿に気づいて近づいてくる者もいたが、すべて影で押し留める。ひとりずつ元へ戻していては、いつイルネアのもとへ辿り着けるか分からない。今は先に、原初の意識を取り戻すべきだ。
「……随分と集まっておるな」
「長イ間、コノ辺リニ……」
後ろのレイスが答える。声には、まだ少し弱々しさが残っていた。イリアは振り返らず、そのまま歩みを進める。
やがて、前方の景色が開けた。かつて、大勢の兵がぶつかり合った平地だった場所だ。今では背の低い草が一面を覆い、その中に古い墓標や、錆びた武具の欠片が点々と残っている。
その中央に、ひときわ濃い気配があった。
青みを帯びた霊体が、静かに宙へ浮かんでいる。細身の人型をしているものの、生者とは明らかに異なる。長く揺れる身体や衣が、すべて淡い青の光に溶け込んでいた。下半身は地面へ届く前に霧のように崩れ、風もないのに、ゆっくりと形を変えている。
そして、顔だけが異様なほど暗かった。目も鼻も口も見えない。頭部の前面だけが、深い闇をそのまま嵌め込んだように黒く沈み、どこを見ているのかすら分からなかった。人の形をしてはいるが、男とも女とも言い切れない。
その姿を、見間違えるはずがなかった。
「……イルネア」
イリアが名を呼ぶ。青い霊体が、わずかに揺れた。周囲に漂っていたレイスたちも一斉にイリアへ意識を向け、生者の魂に引かれるように動きはじめる。足もとから広がった影が、その進路を塞いだ。イリアは迫ってくるレイスたちを次々と押し留めながら、イルネアのもとへ歩いていく。
「私が分からぬか?」
返事はない。黒く沈んだ顔には、やはり何の変化も見えなかった。それでも、イリアが近づくにつれて、青い輪郭が不安定に揺れていく。
目の前まで来ると、イリアは静かに手を伸ばした。長い年月のあいだに積み重なった歪みが、イルネアの在り方そのものへ深く絡みついている。それをひとつずつ解いていった。余計なものを剥がし、本来あるべき形へ戻していく。
やがて、荒れていた霊体の揺らぎが収まった。青い光も静まり、輪郭が落ち着いていく。それとほとんど同時に、古戦原をさまよっていたレイスたちにも変化が広がった。影から抜け出そうともがいていた者たちが動きを止め、遠くを漂っていた者たちも、次々とその場へ留まっていく。イルネアが本来の在り方を取り戻したことで、その影響は周囲のレイスたちにも広がっていった。生者の魂を求めてさまよっていた者たちは次々と動きを止め、失われていた理性を取り戻していく。
イリアはそれを確かめ、拘束していた影を解いていく。
イルネアは、しばらく何も言わなかった。黒い顔の奥から、視線を感じる。
「……イリア様」
「ああ。久しいな、イルネア」
短い沈黙があった。
「……お帰りになったのですね」
「少し前にな。随分と待たせたようだ」
「……はい」
それだけだった。表情を見ることはできない。それでも、その静かな一言に込められたものは、イリアにも十分伝わった。
「苦労をかけたな」
イルネアは、わずかに首を横へ振る。それから周囲を見渡した。
「……私たちは、生者にまで手を出しました」
「ああ」
「……申し訳ありません」
「其方まで歪んでおったのであろう。過ぎたことを悔やみすぎるな」
イルネアは何も返さず、静かに頭を下げた。先ほど正気を取り戻したレイスも近くまで来ると、深く頭を垂れる。
「イルネア様……」
イルネアが、そちらへ顔を向けた。
「……無事でよかった」
短く告げる。それ以上の言葉はなかったが、レイスは嬉しそうに身を揺らした。イリアはその様子を眺めてから、口を開く。
「シアネリスとルグナードも、元へ戻っておる。ガルディムもな」
イルネアの動きが、ほんのわずかに止まった。
「……そうですか」
「其方を連れ帰れば、また皆で顔を合わせられるな」
「……はい」
そのときだった。少し離れたところで、土を掻き返す鈍い音が響く。イリアがそちらを見た。イルネアが戻ったことでレイスたちは静かになったが、グールたちは変わらず動き続けている。古い墓標の並ぶ一角で、何人ものグールが地面を掘り返していた。
「そういえば、其方に聞こうと思っておった」
彼らを眺めながら、イリアは口を開く。
「なぜ、ここにはグールまでこれほど集まっておる?」
「……昔からでございます」
「昔から?」
イルネアが小さくうなずく。
「……ここは、戦場ですから」
その一言で、イリアも察した。魂を導くレイスと、残された亡骸を扱うグール。これだけ多くの死者が出る場所であれば、両者が集まるのは当然だった。
「なるほどな」
その直後、グールたちのいる方向から、ひときわ強い気配が伝わってきた。イリアが目を細める。普通の夜の民とは、明らかに違う。そして、覚えのある気配だった。
「……待て」
崩れた墓標の向こうで、何かが動く。ひとりのグールが、ゆっくりと姿を現した。身体はひどく痩せ、灰色がかった肌は死者そのものの色をしている。頬は落ち、骨ばった手足は細い。だが、その身にまとっているものは、荒れた身体つきとは妙に不釣り合いだった。古びてはいるものの、長く裾を引く法衣。葬送に携わる者を思わせる厳かな衣装をまといながら、その姿にはどこか粗雑な雰囲気が残っている。
イリアは、その姿を見て目を見開いた。
「……ネフィラグ?」
名を呼ばれたグールが、ゆっくりと顔を上げる。しかし、返事はない。目には理性らしいものがほとんど残っていなかった。唸り声を上げ、近くにあった古い骨を放り出すと、そのままイリアへ向かってくる。
「まさか、其方までここにおったとはな」
影が走った。ネフィラグの身体へ絡みつき、動きを封じる。それでもなお、力任せに影を振りほどこうともがき続けた。イリアはその前まで歩いていく。言葉をかけても、今のネフィラグには届かない。イルネアのときと同じように、長い年月のなかで歪んだ在り方へ触れる。ただ、こちらは随分と荒々しかった。積み重なった衝動が、互いに絡まり合うように内側へ食い込んでいる。イリアはそれらをほどき、本来の姿へ戻していった。
やがて、ネフィラグの身体から力が抜ける。拘束していた影を解いても、もう襲いかかってはこなかった。俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。ネフィラグは周囲を見回し、それから目の前のイリアを見た。
「……イリア様?」
「ああ。久しいな、ネフィラグ」
しばらく、何も言わなかった。やがて顔をしかめ、頭を掻く。
「……本当に、戻ってきたんですか」
「ああ、この通りだ」
ぶっきらぼうに答えたあと、ネフィラグは深く頭を下げた。
「……お帰りなさいませ、イリア様」
「ああ。ただいま、ネフィラグ」
口調は相変わらず荒い。だが、イリアへ向ける態度には、昔と変わらぬ敬意があった。
そのころには、周囲のグールたちにも変化が広がっていた。地面を掻き続けていた手が止まり、低い唸り声も消えていく。先ほどまで理性を失っていた者たちが、戸惑うように周囲を見回しはじめた。ネフィラグが本来の在り方を取り戻したことで、その意思が同じグールたちへ届いたのだろう。ネフィラグは彼らを見回し、険しい顔をした。そして、足もとへ目を落とす。地面には、先ほど自分が放り出した古い骨が転がっていた。
「……俺たちがやったんですか、これ」
「私が来たときには、皆で地面を掘り返しておったぞ」
「……面目ねぇです」
ネフィラグはしゃがみ込み、骨を拾い上げた。普段の雑な動きとは違い、その手つきだけは驚くほど慎重だった。表面についた土を払い、傷んでいないかを確かめる。
「ったく……こんな扱いしやがって」
「其方がやったのではないか」
「……分かってますよ。だから腹が立ってんです」
そう答えながら、骨を元あった場所へ静かに戻す。法衣姿のグールが、荒い口調でぶつぶつと文句を言いながら、一本ずつ骨の状態を確かめていく。その様子は、昔と何も変わっていなかった。
「其方は相変わらずだな」
「……? 何がです?」
「いや、何でもない」
ネフィラグは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。代わりに、イルネアへ目を向ける。
「おう、お前も戻ったのか」
「ああ、今しがた。……其方も、酷かったようだな」
「ハハ、ひでぇ有様だったみてぇだ」
イルネアは、静かにうなずくだけだった。イリアは二人を見比べる。
「しかし、まさか二人ともここにおるとは思わなかったぞ。私はイルネアを探しに来たのだがな」
ネフィラグが鼻を鳴らした。
「戦場じゃ珍しくもねぇですよ。魂はイルネアたちが導く。残った身体は俺たちが扱う。昔から、こういう場所じゃ一緒になることが多かったでしょう」
「……そうだったな」
「忘れてたんですか?」
「千年も眠っておったのでな。多少は大目に見よ」
「そりゃまた、便利な言い訳で」
言葉は雑だが、声にはどこか安心したような響きがあった。ネフィラグはもう一度、周囲に散らばる骨や掘り返された地面を見る。
「……あとで見て回らねぇとな」
「今すぐでなくともよいのではないか?」
「いいや、駄目です。死んだ奴にゃ、死んだ奴の扱いってもんがある」
そこだけは、譲るつもりがないらしい。
「弔うなら、きちんと弔う。そういうもんでしょう」
ぶっきらぼうに言い切り、また骨へ手を伸ばす。イリアはその姿を見て、わずかに笑った。乱暴で、大雑把で、言葉遣いも決して丁寧とは言えない。それでも、命を受け取るときには礼を欠かさず、死者を扱うときには誰よりも慎重になる。それが、イリアの知るネフィラグだった。
周囲では、先ほどまで荒れていたレイスとグールたちが、少しずつ静けさを取り戻している。青い霊体のイルネアが静かに佇み、その隣では、法衣姿のネフィラグが、散らばった骨を拾い集めていた。
夕日は、すでに地平へ沈みかけている。
長い時間を経て、イリアはようやく、二人の古い仲間と再び顔を合わせることができた。




