33. アウグスフェルト
町を出てから、二日ほどが過ぎた。
食堂の店主は、アウグスフェルトまで四日か五日はかかると言っていたが、それは夜になれば宿を取り、身体を休める普通の旅人の場合だ。イリアには眠る必要がない。日が沈んでも歩みを止めることなく街道を進み、ときおり食事をしたり、道を確かめたりするために足を止める程度だった。そのため、店主の言っていたよりも随分早く、目的地へ近づいていた。
もっとも、急いでいたわけではない。途中の宿場で見慣れない料理を見つければ食べてみたし、道端で気になるものを見つければ、少し足を止めることもあった。千年ぶりに見る外の世界には、知らないものがいくらでもある。イルネアに早く会いたいとは思っていたが、こうして旅をすること自体も、イリアは楽しんでいた。
そんな道中も、アウグスフェルトへ近づくにつれて、少しずつ様子が変わりはじめる。昨日までは何台もの荷馬車とすれ違っていた街道も、今では人影が随分と少ない。
しばらく歩くと、街道が二つに分かれている場所へ出た。一方はそのまま多くの轍が続いているが、もう一方は、明らかに使われている形跡が少ない。道の端には草が伸び、荷車の跡もまばらだった。古い道標を確かめると、そこにはアウグスフェルトの名が刻まれている。
「こちらか」
イリアは迷うことなく、人通りの少ない道へ入った。
しばらく進むと、周囲に畑や人家は見えなくなった。緩やかな丘と草原が広がり、ところどころに古い石造りの建物の残骸が見える。崩れた壁だけが残っているものもあれば、土に半ば埋もれているものもあった。
さらに先へ進んだところで、イリアは道の脇に並ぶ石碑へ目を向けた。いくつもの名前が刻まれている。だが、覚えのないものばかりだった。
「……これは、私が眠ったあとのものか」
千年前にも、この辺りには死者を弔うための墓標がいくつも建てられていた。しかし、目の前にあるものは明らかに新しい。新しいといっても、数百年は経っているのだろう。表面は風雨に削られ、文字の一部は読めなくなっていた。その先にも、同じような石碑や慰霊碑が点々と残っている。
「随分と増えたものだな」
昔から争いの絶えない土地ではあった。それでも、千年を経てなお同じように血が流されていたことには、少し複雑なものを感じる。イリアは石碑から視線を外し、再び歩き出した。
*
日が傾きはじめたころ、草原の向こうに、かつて見た覚えのある丘が現れた。形は多少変わっているものの、間違いない。アウグスフェルトだ。
丘の周囲には崩れた石壁や古い砦の跡が残り、そのさらに奥まで広い平地が続いている。昔、この辺りには何度も軍勢が集まった。戦が終われば多くの死者が残り、夜になると、レイスたちがその魂を導いていた。イルネアも、その中にいた。
イリアが古戦原へ足を踏み入れると、ほどなくして、何かが視界の端を横切った。薄く揺らめく、人の形。足を止める。ひとりではない。少し離れたところにも、さらにその向こうにも、半透明の影が漂っている。
「やはり、レイスがおるな」
姿そのものは、リエル近くの森で出会った者たちと変わらない。だが、動きがおかしい。本来なら死者の魂に寄り添い、行くべき場所へ導くはずの彼らが、草原をさまよいながら、生きているものを探すように周囲へ意識を向けている。
そのうちのひとりが、イリアに気づいた。動きが止まる。次の瞬間、レイスは地面を滑るように近づいてきた。
「……ァ…アァ……」
伸ばされた腕が、イリアの胸もとへ向かう。指先が触れるより早く、足もとの影が伸びた。黒い影がレイスの身体を絡め取り、その場に縫い止める。
「やはり、其方もか」
レイスは影の中でもがきながら、なおイリアへ手を伸ばそうとしていた。そこに意思らしいものはほとんどない。ただ、生きた魂を求める衝動だけが残っている。イリアは近づき、その姿を静かに見つめた。
「……」
影に触れたまま、レイスの内側へ意識を向ける。命あるものとは違う。けれど、夜の民には夜の民としての在り方がある。長い年月のあいだに絡みついた歪みを、ひとつずつ、本来の形へ戻していく。
やがて、激しく揺れていたレイスの輪郭が落ち着いた。イリアが影を解くと、レイスはしばらくその場に漂ったまま、周囲を見回していた。自分の手へ目を落とし、それから、目の前のイリアへ視線を移す。動きが止まった。
「……イ、イリア様、御帰還、ナサレテイタノデスネ」
「ああ。少し前にな」
レイスは、ゆっくりと頭を垂れる。
「オ会イデキテ、光栄デス」
「其方も、随分と長いこと苦しんでいたようだな」
その言葉に、レイスは少し俯いた。
「……御迷惑ヲ、オ掛ケシマシタ。私ハ、生者ノ魂ニマデ手ヲ伸バシテ……」
「気にするな。其方が望んでしていたことではあるまい」
「シカシ……」
「戻れたのであれば、それでよい」
イリアがそう言うと、レイスはしばらく黙っていたが、やがてもう一度、深く頭を下げた。その様子を見届け、イリアは周囲へ目を向ける。
「イルネアは、この辺りにおるのか?」
「ハイ。イルネア様ノ御気配ハ、コノ先カラ」
レイスが、古戦原の奥へ顔を向ける。その方向には、さらに多くのレイスが漂っていた。
「そうか。やはり、ここにおるのだな」
場所さえ分かれば、あとは進むだけだ。イリアが歩き出そうとした、そのときだった。少し離れた場所から、土を掻くような音が聞こえてくる。足を止め、そちらへ目を向けた。
崩れた石壁の向こうで、何人かの人影が地面にしゃがみ込んでいる。だが、人間ではない。灰色がかった肌。土に汚れた手。地面を掘り返しながら、埋もれていた古い骨や朽ちた武具を取り除いていた。そのうちのひとりが、突然動きを止め、ゆっくりと顔を上げる。
「……グールまでおるのか」
イリアは目を細めた。その姿もまた、イリアの知るグールとは違っていた。本来の彼らは、残された亡骸を扱い、死者の身体に留まったものを整理する夜の民だ。しかし目の前のグールたちは、何かを探すように地面を掘り続けながら、ときおり周囲へ鋭い視線を向けている。ひとりがイリアに気づくと、低く唸るような声を上げた。それに反応し、近くにいたグールたちも、次々と立ち上がる。
レイスが、不安そうに身を揺らした。
「彼らも、同じように変わってしまったのか?」
「ハイ……。長イ間、コノ地ニ留マッテオリマス」
「イルネアから、何か伝わってきてはおらぬのか?」
「申シ訳アリマセン。詳シイコトマデハ……」
原初の夜の民は、同じ種の者たちへ広く意思を伝えることができる。だが、それは一人ひとりと細かな会話をしているわけではない。目の前のレイスが、イルネアの事情まで知っているとは限らなかった。
イリアは近づいてくるグールたちを見ながら、足もとから影を広げる。
「其方はここにおれ。まだ戻ったばかりなのだからな」
レイスを背にかばうようにして、イリアは前へ出た。グールたちは数人。だが、そのさらに奥にも気配がある。レイスだけではない。この古戦原には、かなりの数のグールまで集まっているらしい。
「イルネアを探しに来ただけだったのだがな」
広がった影が、近づいてきたグールたちの足もとへ絡みつく。イリアはその向こうに広がる古戦原を見渡した。夕暮れの空の下、いくつものレイスが淡く揺らめき、その下ではグールたちが地面を歩き回っている。イルネアの気配は、さらに奥から感じられた。
「……どうやら、少し事情がありそうだ」
イリアは影でグールたちの動きを止めると、そのまま古戦原の奥へ目を向けた。




