32. グランツ帝国
兵士に呼ばれ、イリアは列の前へ進み出た。
関所の入口には二人の兵士が立っており、その奥では別の兵士たちが荷馬車の積み荷を調べている。街道を挟むように設けられた石造りの建物には、見慣れない紋章の旗が掲げられていた。
「帝国へ入るのは初めてか?」
「ああ。そうなるな」
「それなら、いくつか確認させてもらうよ。まず、名前は?」
「イリアだ」
兵士は手もとの帳面に何かを書き込む。
「出身は?」
「アルセリア王国の辺境だ。リエルという村から来た」
「アルセリアか。ここからだと随分遠いな。帝国には何をしに?」
「知人を探しに来たのだ。北東のほうにいると聞いておるが、詳しい場所はこれから調べるつもりでな」
「なるほど。人探しか」
兵士は顔を上げ、イリアの姿をあらためて眺めた。外套の下には旅人らしい簡素な服を着ており、肩には小さな鞄を掛けている。長い銀髪と青い瞳は少々目を引くものの、旅人として不自然な格好ではない。
「荷物を見せてもらってもいいか?」
「構わぬぞ」
イリアは鞄を下ろして口を開いた。中には、セシアから受け取った食料と、いくらかの貨幣が入った革袋が収まっている。兵士は中を軽く確かめると、すぐに鞄を返した。
「問題なさそうだな。荷物はこれで全部だね?」
「うむ」
「よし、それなら通っていいぞ」
兵士に見送られ、イリアは関所を通り抜けた。こうして、グランツ帝国の領内へ足を踏み入れることになった。
*
関所を越えてからも、街道は北東へと続いていた。周囲には緩やかな丘陵が広がり、遠くに畑や牧草地が見える。街道の脇には一定の間隔で道標が立ち、荷馬車同士がすれ違えるほどの道幅が確保されていた。
国境を越えたからといって、景色が急に変わるわけではない。ただ、道を行き交う人々の服装や、荷馬車に描かれた紋章には、アルセリア王国で見かけなかったものが増えていた。兵士たちの装備も違う。関所で見た者たちは、揃いの鎧に同じ紋章を刻み、武器の手入れも行き届いていた。
イリアはそれらを興味深く眺めながら歩いた。千年前にも数多くの国を訪れたが、当然ながら、今のグランツ帝国については何も知らない。どのような者が治め、どんな人々が暮らしているのか。それを知るのも、旅の楽しみのひとつだった。
やがて街道の先に、まとまった数の建物が見えてきた。近づくにつれて人の往来が増え、荷馬車が何台も同じ方向へ進んでいるのが分かる。関所から半日ほど歩いたところにある、比較的大きな町だった。
町の入口には衛兵が立っていたが、旅人をひとりずつ調べているわけではないらしい。荷馬車の通行を見守りながら、ときおり顔見知りらしい商人と言葉を交わしている。イリアもその横を通り抜け、町の中へ入った。
通りには石造りの建物が並び、一階を店にしている家も多い。布地を並べた店や金物を扱う店、野菜や果物を売る露店などが、軒を連ねていた。通りの中央を荷馬車が進み、その両脇を、買い物客や旅人が行き交っている。
「ふむ。なかなか賑やかな町だな」
歩調を緩め、店先に並ぶ品々へ目を向ける。特に気になったのは、金物屋の前に置かれた調理道具だった。大小さまざまな鍋や包丁が並び、千年前には見かけなかった形のものもある。近くの布屋では、色鮮やかな服が店先に吊るされていた。今着ているものと似た服もあれば、細かな刺繍の施された華やかな衣装もある。セシアから借りた服のおかげで、少なくとも、通行人の視線を集めることはなかった。
しばらく町を見て回ったあと、通りの一角から漂ってきた匂いに、イリアは足を止める。肉を焼く香ばしい匂いに、香辛料の香りが混じっていた。目を向けると、木の看板を掲げた食堂がある。開け放たれた扉の向こうにいくつもの卓が並び、旅人や商人らしい客が食事をしていた。
「……よい匂いだな」
セシアにもらった食料はまだ残っているが、せっかく知らない国へ来たのだ。土地の料理を味わってみるのも、悪くない。イリアは食堂の扉をくぐった。
*
「いらっしゃい。お一人かい?」
声をかけてきたのは、店の奥で料理を運んでいた中年の男だった。
「ああ。食事をしたいのだが、空いておるか?」
「もちろん。そこの席が空いてるよ。好きなところに座ってくれ」
イリアは窓際の卓に腰を下ろす。店内では、何人もの客が食事を楽しんでいた。仕事の話をしている商人や、昼間から酒を飲んでいる男たちもいる。厨房からは鍋の煮える音が聞こえ、香ばしい匂いが絶えず漂ってきた。
しばらくして、先ほどの男が注文を取りに来る。
「さて、何にする? 今日は羊肉の煮込みがよく出てるよ。パンと一緒に食べるとうまいんだ」
「ほう。では、それをいただこう」
「あいよ。飲み物は?」
「何か、この辺りでよく飲まれているものはあるか?」
「そうだな。食事なら、果実を煮出した茶があるよ。少し酸味があるけど、肉料理にはよく合う」
「それも頼む」
「分かった。ちょっと待っててくれ」
男は厨房へ戻っていった。イリアは窓の外へ目を向ける。通りには相変わらず人が多く、買い物を終えた客が荷物を抱えて歩いていた。向かいの店では店主と客が何やら値段の交渉をしており、ときおり笑い声が聞こえてくる。
やがて、料理が運ばれてきた。深めの皿には、柔らかく煮込まれた羊肉と野菜が盛られている。赤みがかった煮汁から湯気が立ち、独特の香辛料の香りが漂っていた。添えられたパンは焼きたてらしく、表面に薄く焼き色がついている。
「熱いから気をつけてな」
「ああ、ありがとう」
イリアは木の匙で肉をすくい、口へ運んだ。よく煮込まれた羊肉は簡単にほぐれ、噛むほどに旨味が広がる。煮汁にはいくつもの香辛料が使われているようで、最初は少し辛く感じたが、あとから野菜の甘みが追いかけてきた。
「……これは、なかなか」
思わず笑みがこぼれる。パンをちぎって煮汁につけてみると、これがまたよく合った。千年前にも羊肉を煮込んだ料理はあったが、この香辛料の組み合わせには覚えがない。長い年月のあいだに、作り方も随分と変わったのだろう。
果実の茶にも口をつけた。店主の言ったとおり、少し酸味がある。甘みは控えめだったが、肉料理のあとに飲むと、口の中がさっぱりとした。気に入ったイリアは、時間をかけて料理を味わった。
食べ終えるころには、店内の客も少し減り、店主が空いた卓を片づけはじめていた。
「どうだった?」
皿を下げに来た店主が尋ねる。
「実にうまかった。肉も柔らかく、香りもよい。こういう料理は初めて食べたぞ」
「そりゃよかった。うちじゃ昔から作ってる料理なんだ。旅の人にも評判がいいんだよ」
「それは納得だな。また近くへ来ることがあれば、ぜひ寄らせてもらおう」
店主は嬉しそうに笑い、空いた皿を重ねた。
「ところで、勘定はいくらだ?」
イリアが問いかけ店主が代金を告げると、革袋から貨幣を取り出した。それを見た店主が、一枚の銅貨を手に取る。
「おや、王国の銅貨か。アルセリアから来たのかい?」
「ああ。こちらでも使えるのか?」
「もちろん。この辺りじゃ王国の商人もよく通るからね。奥のほうまで行けば両替が必要なこともあるけど、国境近くなら大抵の店で使えるよ」
「そうか。それなら助かる」
店主は慣れた手つきで貨幣を数え、釣り銭を差し出した。受け取った銅貨には、イリアの持っていたものとは違う紋章が刻まれている。これが帝国の貨幣なのだろう。革袋へしまいながら、イリアは店主に声をかけた。
「ところで、ひとつ尋ねたいことがあるのだが」
「何だい?」
「アウグスフェルトという場所を知っておるか?」
その名前に、店主は少し意外そうな顔をした。
「アウグスフェルト? ああ、古戦原のことか」
「そうだ。そこへ向かいたいのだが、道を教えてもらえぬか?」
「道なら分かるけど……あんなところへ、何をしに行くんだい?」
「知人を探しておってな。その辺りにいると聞いたのだ」
「へえ。あんな場所に住んでる人がいるのか」
店主は首を傾げたが、それ以上は追及せず、店の外へ目を向けた。
「ここからなら、北東へ続く街道を進むといい。途中に宿場がいくつかあるから、そこでまた道を聞けば分かるはずだよ」
「どのくらいかかる?」
「普通に歩けば、四日か五日ってところかな。途中で馬車に乗れれば、もっと早いだろうけどね」
「ふむ。それなら、歩いても問題なさそうだな」
イリアがうなずくと、店主は少し表情を曇らせた。
「ただ、最近はあの辺りの評判がよくないんだ」
「何かあったのか?」
「少し前に、東から来た商人が妙な話をしていてね。夜になると古戦原の近くに人影が現れるとか、道の脇で変な声が聞こえるとか」
イリアは、店主の話に耳を傾けた。
「それだけなら、昔からある怪談みたいなものなんだけどね。最近は、あの辺りを通る荷馬車が減ってるんだよ。実際にアンデッドを見たって話もあるらしい」
「アンデッドか」
「ああ。もともと古戦原は気味の悪い場所だって言われてるからね。昔は大きな戦があった土地なんだろう?」
「そう聞いておる」
「わざわざ近づく人も少ないし、何が起きてるのかはよく分からないんだ。俺も商人たちから聞いただけだから、どこまで本当かは知らないけどね」
店主はそう言って、肩をすくめた。
イリアは少し考え込む。アウグスフェルトにイルネアがいるのなら、その周辺にレイスが集まっていても不思議ではない。森で出会ったレイスたちも、彼女の居場所を口にしていた。もっとも、今の人間たちは、レイスが本来どのような存在なのかを知らない。古戦原で何が起きているのか、実際に見てみる必要はあるだろう。
「教えてくれて感謝する。参考になったぞ」
「いやいや。こっちも商人からの噂を聞いただけだからな。行くつもりなら、途中の宿場でも詳しく聞いてみるといいよ」
「ああ、そうしよう」
イリアは立ち上がり、あらためて礼を告げてから食堂をあとにした。
*
店を出ると、通りには午後の日差しが差し込んでいた。行き交う人々の声に、荷馬車の車輪が石畳を踏む音が重なる。店先では商人が客を呼び込み、子供たちが楽しそうに走り回っていた。
イリアは町を出る前に、もう少しだけ通りを歩いてみることにした。食堂で使われていた香辛料が気になり、近くの露店で、乾燥させた葉や木の実を眺める。店主にいくつか名前を教えてもらったが、聞き覚えのないものも多かった。中には、千年前には随分と珍しかった香辛料もある。それが今では、こうした町の露店でも普通に売られているらしい。
そのひとつを手に取り、香りを確かめてから棚へ戻した。リエルへ帰ったら、セシアにも今日食べた料理のことを話してみよう。あの煮込みを、気に入ってくれるかもしれない。
そんなことを考えながら歩くうち、通りの先に町の出口が見えてきた。北東へ続く街道には、何台もの荷馬車が向かっている。イリアは肩の鞄を直し、人々の流れに混じって町を出た。
アウグスフェルトまでは、まだ数日の道のりがあるという。だが、イリアにとっては、それほど長い距離ではなかった。昼夜を問わず歩き続けられるうえ、道さえ分かれば迷うこともない。
町を離れるにつれて人家は少なくなり、街道の両側には広い草原が続くようになった。風が吹くたびに草が揺れ、遠くでは鳥の群れが空を横切っていく。イリアはその景色を眺めながら、かつてのアウグスフェルトを思い出していた。
千年前、あの土地では幾度となく戦が起こっていた。戦が終われば多くの死者が残り、レイスたちは彼らの魂を導いていた。イルネアもまた、そうした死者たちのために働いていたひとりだ。彼女とは、随分長いこと顔を合わせていない。
「……イルネアは、今もあの場所におるのだな」
小さく呟く。レイスたちが変わってしまったことを、イルネアはどう思っているのだろう。シアネリスやルグナードも、イリアの眠っていた千年のあいだに、多くの苦労を重ねてきた。イルネアにも、何か事情があるのかもしれない。それでも、再会できればまずは、久しぶりに話がしたかった。千年のあいだに何があったのか。今はどのように過ごしているのか。聞きたいことは、いくらでもある。
やがて太陽が西へ傾き、街道を行き交う荷馬車の数も少なくなってきた。イリアは歩みを止めず、北東へ向かって進んでいく。
アウグスフェルトへ続く旅は、まだ始まったばかりだった。




