28. 魂の導き手
フィルローデン村の負傷者の治療が一段落したころには、日はかなり傾いていた。重傷者はまだ何人もいるが、エマによれば、今すぐ命が危ない者はいないらしい。
イリアたちはエーヴァルトに別れを告げ、リエルへ戻ることにした。
「本当に、ありがとうございました」
エーヴァルトが、改めて頭を下げる。
「気にするでない。それより、しばらくは森の獣に気をつけたほうがよいだろうな」
「ええ。こちらでも、見回りを増やします」
バルガスたち鬼人族は、まだフィルローデン村に残るという。怪我人も多く、今からダンの里まで戻るのは難しい。
イリアはデュラハンの馬上に乗り、先頭のルグナードに続いて村を離れた。
*
しばらく森を走ったところで、先を飛んでいたバンシーが速度を落とした。ルグナードが黒馬を止める。
少し先の木陰から、低い唸り声が聞こえていた。灰狼が一頭、こちらへ牙を剥いている。エマを乗せたデュラハンが前へ出ようとしたが、イリアが手で制した。
「待て」
灰狼は、逃げようとしない。よく見ると、その後ろの草むらに、小さな影が横たわっていた。
「……子供?」
エマも気づいたらしい。まだ幼い灰狼が、後ろ脚のあたりから血を流している。息も浅く、立ち上がる様子はなかった。
親の灰狼が、再び唸る。イリアは馬から降りた。
「イリア様、危険です」
「大丈夫だ」
一歩近づくたびに、唸り声が大きくなる。とうとう飛びかかろうとしたところで、影が前脚に絡みついた。灰狼が身を捩る。
「少し待て。子を取るつもりはない」
当然、言葉が通じた様子はない。それでも、動けない親の脇を通り、イリアは子のそばにしゃがみ込んだ。後ろ脚から腹にかけて、大きく裂かれている。
「別の獣にやられたか」
イリアは指先を軽く傷つけ、滲んだ血を傷口に触れさせた。しばらくすると、流れていた血が止まり、荒かった呼吸も、少しずつ落ち着いていく。
立ち上がって、親の灰狼を縛っていた影を解く。灰狼はすぐに子のもとへ駆け寄り、鼻先を押しつけて、何度も身体の匂いを嗅いだ。それからイリアへ顔を向ける。まだ警戒はしているものの、もう飛びかかってはこなかった。親狼は子の首もとをくわえ、そのまま木々の奥へ消えていった。
エマがその後ろ姿を見送り、何か言いたげにしている。
「……イリア様は、魔獣でも助けるんですね」
「すべての生き物を助けるつもりはないぞ。だが、目の前で苦しんでおるのなら、多少の手助けくらいは目を瞑ってくれ」
それだけ言って、イリアは馬へ戻ろうとした。そのとき、少し離れた場所に残る足跡が目に入る。灰狼だけではない。蹄の跡や、小さな獣の足跡が、いくつも重なっていた。
「……随分と足跡が多いな」
ルグナードも辺りを見回す。
「どれも、同じ方角から来ているようですね」
フィルローデン村とは反対側。森のさらに奥だった。イリアは少し考えてから、バンシーを見る。
「上から見てきてくれるか」
「カシコマリマシタ」
バンシーが木々の上へ飛び上がり、ほどなくして戻ってきた。
「奥ニモ、獣ガ大勢イマス。皆、コチラヘ逃ゲテキテイマス」
「やはりか」
フィルローデン村を襲った灰狼や鉄猪も、最初から村を目指していたわけではなかったのかもしれない。
「少し様子を見てみるか」
ルグナードがうなずき、再び黒馬を進める。
*
森の奥へ入るにつれ、様子がおかしくなっていった。生きた獣の姿はほとんどない。代わりに、途中で何頭か倒れている。その身体に、大きな傷は見当たらなかった。
イリアは、そのうちの一頭のそばで足を止める。
「……なるほどな」
「何か分かりましたか?」
エマが尋ねると、イリアは顔を上げた。
「ああ、おそらくレイスだな」
すると、木々のあいだに、淡い人影が浮かびはじめた。半透明の身体を揺らしながら、いくつもの霊のようなものが、森を漂っている。一頭の鹿が、その横を走り抜けた。
「アァ…ウァ…」
伸ばされた腕が鹿に触れようとしたところで、イリアの声が響く。
「何をしておる」
霊の動きが止まった。いくつもの顔が、一斉にイリアへ向く。しばらく宙を漂っていた霊たちが、ゆっくりと集まってきた。イリアが手を伸ばすと、輪郭が揺れる。やがて、濁っていた気配が、少しずつ落ち着いていった。
ひとりの霊が、イリアの前へ進み出る。
「……王ヨ、オ戻リニナラレタノデスネ」
「ああ。お前たちも、目が覚めたか」
「……ハイ。申シ訳ゴザイマセン」
イリアは、周囲のレイスたちを見渡した。
「謝罪はよい、私のせいでもあるからな。それより、イルネアは今どこにおる」
その言葉を聞いて、ひとりのレイスが遠くを指さした。
「北東……遠ク」
「北東?」
「アウグスフェルト」
イリアの目が、わずかに細くなる。
「アウグスフェルトか」
エマがイリアを見た。
「知ってるんですか?」
「ああ。昔から幾度も戦場になった土地だ。死者も多かった。……イルネアは、まだあそこにおるのか」
「多クノ同胞ガ、イルネア様ノ近クニオリマス」
イリアはしばらく考えた。アウグスフェルトは遠い。具体的な場所が分からず、影渡りも使えないため、すぐに向かえる土地ではなかった。
「……分かった。感謝するぞ」
レイスたちが、静かに頭を下げる。
「其方らも、もう生者を追うでないぞ」
「……承知イタシマシタ」
イリアは再びデュラハンの馬に乗った。
「一度、リエルへ戻ろう」
ルグナードも馬首を返す。
森の向こう、遥か北東。次に向かう場所が決まった。




