2. リエル村
リエル村へ近づくにつれ、畑に出ていた者たちが次々と手を止めた。
カイルが戻ってきたことよりも、その後ろを歩くイリアと、さらに後方を宙に浮いたまま運ばれてくる巨大な狼に、目を奪われたらしい。鍬を持った男は口を開けたまま立ち尽くし、少し離れた畑では、作業の手を止めた女が隣の者の肩を叩いて、こちらを指さしている。
「……ずいぶん見られておるな」
「そりゃ見ますよ」
先を歩いていたカイルが、苦笑しながら振り返る。
「俺だって、あれが後ろからついてきたらビビると思いますよ」
影に支えられた狼の死体は、地面すれすれを音もなく滑っていた。
「まあ、歩かせるわけにもいかぬからな」
「死んでますからね」
村の入口に着く頃には、道沿いに何人もの人影が集まっていた。
「カイル!」
人垣を割って、女が飛び出してくる。髪を後ろでまとめ、腰にはいくつもの小袋を提げている。
彼女の目はまっすぐカイルの左腕に向かい、そのまま表情が険しくなった。
「その腕、どうしたの」
「ちょっと引っかかれただけだよ、エマさん」
「ちょっとでそんなに血を出す人がどこにいるの。見せなさい」
返事を待たず、カイルの腕が取られる。
イリアは二人のやり取りを眺めながら、わずかに目を細めた。傷は深くない。血もすでに止まりかけている。放っておいても死にはしないだろう。
エマは袖をまくって傷口を確かめると、そこへ手をかざした。淡い光が掌のまわりに集まり、裂けた皮膚がゆっくりと閉じていく。
イリアはその様子を興味深く見守った。形こそ違えど、傷を癒やす術そのものは、昔にもあったものだ。
「これで大丈夫。今日は狩りに戻ったりしないでよ」
「さすがに戻らないって」
「前にも同じことを言って、夕方には森にいたでしょう」
カイルが気まずそうに目を逸らしたところで、エマはようやくイリアに気づいた。視線が銀の髪から黒いドレスへ移り、最後に青い瞳で止まる。
「こちらの方は……?」
「ああ、この人が助けてくれたんだ。俺一人だったら、たぶん帰ってこられなかった」
カイルが後ろの狼を指さすと、周囲に小さなどよめきが広がった。
「あの魔獣を?」
「女の人が?」
「魔法使いなのか……?」
好き勝手な声が飛び交うなか、イリアは訂正もせず、辺りを見渡している。
村のたたずまいは、眠る前に見知っていた人里と、さほど変わらない。木と石を組んだ家々が並び、少し離れた場所には家畜を囲う柵がある。井戸端では女たちが水を汲み、様子を見に来た子供たちが、大人の背中の陰からこちらを覗いていた。
「カイル。その方を、いつまで村の入口に立たせておくつもりだ」
人垣の後ろから、年嵩の男が歩み出てくる。
白髪の混じった髪を短く整え、身なりは村人と変わらぬ簡素なものだが、男が進むと周りの者が自然と道を空けた。
「村長」
カイルが呼ぶと、男はまず無事を確かめるように彼を見やり、それからイリアへ向き直った。
「この人が助けてくれた、イリアさん」
村長と呼ばれた男の視線が、一瞬だけ黒いドレスに落ちる。その背後では、巨大な狼の死体が影に支えられたまま、静かに浮かんでいた。
「リエル村を預かっております、オズワルドと申します。イリア様、このたびは村の者をお救いいただき、ありがとうございました」
「偶然通りかかっただけだ。礼を言われるほどのことではない」
「私どもには十分すぎるほどのことです。それに……」
オズワルドは、狼へ目を向ける。
「こいつには、随分と悩まされておりました」
「家畜を食っていたらしいな」
「ええ。追い払おうとして怪我をした者も何人かおります。これほど村の近くまで来る魔獣は、以前なら滅多にいなかったのですが」
魔獣。
イリアの目には、どう見ても大きな狼にしか映らなかった。だが、呼び名を確かめるほどの興味も湧かない。
「こいつ、ここに下ろしてもらってもいいですか?」
カイルに言われ、イリアは狼の下へ伸ばしていた影をゆるめた。
巨大な体が、地面へ降りる。周囲の村人たちが、そろって一歩退いた。死んでいると分かっていても、間近で見ればそれだけの大きさがある。
「立派なもんだな……」
四十前後の男が近づき、狼の毛皮を確かめる。日に焼けた顔と土のついた手からすると、畑仕事の途中で駆けつけたのだろう。
「皮も取れる。肉も、傷んでなきゃかなり使えるぞ」
「ヘイン、食えるか?」
「見てみなきゃ分からんが、捨てる理由はないな。内臓も使えるところは使えばいい」
別の大柄な男もしゃがみ込み、前脚の太さを確かめて、感心したように息をついた。
「骨も残しておけ。道具に使えるかもしれん」
「ドーガン、お前は何でも材料にしたがるな」
「使えるもんを捨てる方がおかしいだろ」
そんなやり取りを聞きながら、イリアはわずかに口元をほころばせた。
「余さず使うのだな」
「そりゃあ、これだけの獲物ですから。食えるものを捨てる余裕なんて、この村にはありませんよ」
「……そのほうが良いだろうな」
ヘインが、少し意外そうな顔をする。オズワルドは周囲が落ち着くのを待ってから、改めてイリアに向き直った。
「差し支えなければ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。イリア様は、どちらからいらしたので?」
「森だ」
「森……?」
「森の中に館がある。そこで眠っていた」
オズワルドが、一度まばたきをする。傍らのカイルも口を挟んだ。
「俺も聞いたんですけど、村長、あの辺りに館なんてありましたっけ?」
「少なくとも私は聞いたことがないな」
「ずいぶん森に埋もれておった。知らぬのも無理はなかろう」
森の奥に、誰も知らぬ館がある。そこから上等なドレスをまとった女がひとり現れ、巨大な魔獣をたやすく仕留めた。村人たちの視線に好奇心と警戒が入り混じっていることは、イリアにも分かっていた。
「その館には、お一人で?」
「……昔は賑やかだったのだがな」
「これはご無礼を。失礼いたしました」
何かを察したのか、オズワルドはそれ以上踏み込まなかった。
「森を歩いてこられたのでしたら、お疲れでしょう。よろしければ、今夜は村でお休みください」
「よいのか?」
「もちろんです。カイルの恩人をそのまま森へ帰したとあっては、こちらが落ち着きません」
「そうか。ならば世話になろう」
オズワルドは近くにいた少女に声をかけ、宿へ知らせに走らせた。
その間にも、狼の周りでは村人たちが動き出している。縄や刃物を取りに駆けていく者があり、カイルも手伝おうとしてエマに止められていた。
「今日は休みなさいと言ったでしょう」
「片腕くらい使えるって」
「いいから、さっさと帰りなさい」
追い払われるようにして、カイルがこちらへ戻ってくる。
「すみません。村まで案内するって言ったのに、着いた途端こんな有様で」
「気にするな。賑やかなのは悪くない」
行き交う村人を眺めながら、イリアは案内された宿へ向かった。村の中ほどにある、やや大きな建物だ。宿と食堂を兼ねているらしく、一階には卓がいくつか並んでいる。戸をくぐると、煮込み料理の匂いがふわりと漂ってきた。
「いらっしゃ……」
奥から出てきた女が、イリアを見て言葉を途切らせた。袖をまくり、料理の途中だったのか、手に布巾を握っている。
「セシア、こちらがイリアさん。森で俺を助けてくれた人。今日は村に泊まることになった」
カイルの説明を聞くと、セシアは慌てて背筋を伸ばした。
「失礼しました。セシアと申します。大した宿ではありませんけど、どうぞごゆっくり」
「世話になる」
席に着くと、ほどなく温かい料理が運ばれてきた。豆と野菜を煮込んだものに、固めのパン。塩漬けの肉が少しばかり添えられている。
イリアは湯気の立つ器をしばらく眺めてから、匙を取った。
ひと口、運ぶ。
「……ほう」
傍らで、セシアが緊張した面持ちで見守っている。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや。美味い」
その一言で、セシアの肩からふっと力が抜けた。
久方ぶりの食事だった。味を確かめるように、もうひと口運ぶ。
「もう少しもらえるか」
「もちろんです」
嬉しそうに鍋のほうへ戻っていくセシアの背を見送るうち、向かいにカイルが腰を下ろし、遅い昼食に手をつけはじめた。
「気に入ってもらえてよかった。セシアさんの煮込みは、村じゃ評判なんですよ」
「そうか。人の料理も、さほど変わっておらぬのだな」
「……?」
カイルが聞き返そうとしたとき、隣の卓から男たちの話し声が聞こえてきた。
「狼の肉、何日か持つか?」
「燻せばしばらくはいけるだろ。今年は畑もあまり良くないし、ありがたいよ」
イリアは匙を動かしながら、その声に耳を傾ける。先ほど畑の脇を通ったとき、作物の葉に勢いがないことには気づいていた。この村の者たちにとっては、魔獣一頭ぶんの肉であっても、決して小さな恵みではないのだろう。
やがて、外から子供たちの声が届いた。
「ニナ! どこ行くの! 戻ってきなさい!」
「まだ明るいから大丈夫よ!」
「もう……! 墓地のほうには絶対行くんじゃないよ!」
イリアは匙を置いた。
「墓地に、何かあるのか」
向かいでカイルが顔を上げる。答えるまでに、ほんの短い間があった。
「……最近、出るんです」
「何がだ」
カイルは声を落とした。
「アンデッドです」
聞き覚えのない言葉だった。イリアは青い瞳を、わずかに細める。
「……アンデッド?」




