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夜の王は夢を見る ~目が覚めたらアンデッドが怪物扱いされていました~  作者: うみのもずく


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1. 目覚め



最初に感じたのは、頬を撫でる冷たい空気だった。


 イリアはゆっくりと瞼を開いた。


 見慣れたはずの天井が、ずいぶん遠くに見える。石を組んだ天井そのものは残っているものの、端の一部が崩れ、できた隙間から細い光が差し込んでいた。


 光の中を、小さな埃が漂っている。


 しばらく寝台に横たわったまま眺めていたイリアは、やがて上体を起こした。


「……崩れておるな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、辺りを見回す。


 寝台のそばに置いてあったはずの小机は片脚を失い、壁に掛けていた飾り布は色も分からないほど朽ちている。扉にもひびが入り、石の床にはどこから入り込んだのか、細い植物の根が這っていた。


 眠る前は、もう少し整った部屋だったはずだ。


 イリアは寝台から足を下ろした。


 黒いドレスの裾が、その動きに合わせて静かに形を整える。長く横になっていたはずなのに皺一つなく、埃さえ付いていない。袖口に目を落としたイリアは特に気にする様子もなく、そのまま立ち上がった。


 部屋の隅に置いてあった椅子へ手を伸ばす。


 指先が触れた途端、木が小さな音を立てて崩れた。


「これは……」


 手に残った木片を眺めてから、イリアは小さく息を吐いた。


 どれほど眠ったのかは分からない。

 元々、期限を決めて眠ったわけでもなかった。世の中は十分に落ち着き、自分が起きている必要もないと思ったから眠った。それだけのことだ。


 部屋を出ると、予想以上に館は荒れていた。

 廊下の途中で天井が抜け、その向こうには青空が見えている。石壁を割って木の枝が伸び、かつて中庭だった場所には腰ほどの高さまで草が茂っていた。


 イリアは足を止め、周囲をゆっくり見渡した。

 見覚えのない大木が何本も生えている。


「……寝すぎたか」


 思い当たる理由は他になかった。


 困ったことになった、というほどでもない。館がなくなったなら、別の場所を探せばいい。何より、これほど景色が変わっているなら、外がどうなっているのか少し興味が湧いた。


 イリアは崩れた玄関を抜け、館の外へ出る。


 昔は低い木々がまばらに生えている程度だった場所が、今ではすっかり森になっている。


 道も見当たらない。


 銀の髪を抜けていく風に目を細め、イリアはしばらく森を眺めていた。


「人は、まだいるのであろうな」


 いなくなっていたら、それはそれで困る。

 眠る前には随分と数を増やしていた。そう簡単に姿を消すとも思えなかった。


 ひとまず森を抜けることに決め、イリアは歩き始めた。


 地面には落ち葉が厚く積もり、古い道の痕跡さえ草木に覆われている。見覚えのない花が咲き、遠くでは鳥が鳴いていた。


 時折立ち止まりながら辺りを眺めているうちに、館は木々の向こうへ見えなくなった。


 どこへ向かえば人里に出るのか、イリアには分からない。


 それでも急ぐ理由もなかった。


 適当に歩いていれば、そのうち何か見つかるだろう。


 そう考えながら数度朝日を迎えるうちに、遠くから鈍い音が聞こえた。


 続いて、何かが地面を蹴る音。

 獣の唸り声に混じり、人の声も聞こえる。


 イリアは音の方向へ歩く。

 木々の間を抜けていくにつれ、音がはっきりしてくる。


「くそっ……!」


 男の声だった。

 開けた場所へ出ると、若い男が一本の槍を構えていた。


 足元には弓が落ちており、少し離れた木には矢が一本突き刺さっている。男の左腕にも血が滲んでいた。


 向かい合っているのは、大きな狼のような獣だった。

 肩の高さだけでも男の胸近くまであり、灰色の毛はところどころ黒く変色している。前脚には槍で突かれたらしい傷があり、背中には折れた矢が一本残っていた。


 男が一方的に追い詰められていたわけではないらしい。


 獣が低く身を沈める。


 男も槍を握り直した。


 その横から歩いてきたイリアに、男が気づいた。


「おい! そこの人!」


 切羽詰まった声が飛んでくる。


「こっちに来るな! 逃げろ!」


 イリアは足を止めて男と獣を交互に見る。


「何故だ?」

「何故って……魔獣だぞ!」


 男が叫んだ直後、狼が地面を蹴った。


 一直線にイリアへ飛びかかる。

 イリアは青い瞳でその姿を追いながら、わずかに首を傾げた。


「……ただの獣ではないか」

「あぶなっ――」


 男の言葉が終わる前に、狼の身体が空中で止まった。

 地面に落ちていた木々の影が細長く伸び、四肢へ絡みついている。狼が激しく身を捩るたびに、影はさらに深く食い込んだ。


 男が目を見開いたまま動きを止める。


 イリアは狼のそばまで歩いていく。

 大きな牙を剥き、喉の奥から唸り声を響かせている。前脚の傷から血が流れ、土の上に赤い染みを作っていた。


「随分と興奮しているな」

「近づかない方がいい!」


 後ろから声をかけられ、イリアが振り返る。

 男は槍を構えたまま、信じられないものを見るような顔をしていた。


「そいつ、村の家畜を何度も襲ってるんだ。昨日も山羊がやられた。村の人間も追い払おうとして怪我を負わされた」

「ほう、人も襲うのか」


 イリアは再び獣へ顔を向けた。

 影が狼の首へ回る。

 暴れていた身体が大きく震え、少しして力が抜けた。

 そのまま影がほどけると、大きな身体が土の上へ倒れた。


 森が急に静かになる。


 男はしばらく何も言わなかった。


 イリアは狼の死体を見下ろし、踵を返した。


「あまり生者の営みに干渉するのは好きではないが……久方ぶりの会話のできる相手だったのでな。私が責任を持って導いてやるから許せ、獣よ」

「……え?」

「なんだ?困っていたのであろう?」

「いや、それは……そうだけど」


 男は槍を下ろしながら、倒れた狼とイリアを何度も見比べている。


「今、何をしたんだ?」

「こやつを殺しただけだが」

「……それは見れば分かる」


 返ってきた言葉に納得がいかず、男はイリアの顔を見る。


 男は息は上がっているものの、先ほどまで死にかけていた者にしては元気そうだった。


「そうか。ならば説明は不要だな」

「そういう意味じゃないんだけどな……」


 男は小さく息を吐き、槍を地面へ立てた。


 緊張が解けたのか、そこでようやく左腕の傷を思い出したらしい。袖の裂けたところを押さえながら顔をしかめる。


 イリアが視線を向けると、男は首を横に振った。


「これくらいなら平気だ。村に戻れば診てもらえる」

「村?」

「ああ。ここからなら、それほど遠くない」


 人がいる。それならちょうどいい。


「案内してもらえるか?」


 軽く頼まれ、男は少し戸惑った様子でイリアを見た。

 森の中を一人で歩くには明らかに似つかわしくない服装が、今になって気になったらしい。黒を基調としたドレスは落ち着いた作りながら、使われている布も仕立ても、この辺りの村人が持つようなものには見えない。


「もちろん。助けてもらったんだし、それくらいは……」


 そこで男は言葉を切った。


「そういえば、名前を聞いてなかったな。俺はカイル。リエル村で猟師をやってる」

「イリアだ」

「イリア……さん?」


 呼び方を確かめるように言われ、イリアは少しだけ眉を動かした。


「好きに呼べばよい」

「じゃあ……イリアさんで」

「そうか」


 特に気にすることでもないので、そのまま頷く。


 カイルは落としていた弓を拾い、狼の死体を見た。


「これ、村まで運びたいんだけど……さすがに一人じゃ無理か」

「必要なのか?」

「皮も使えるし、肉も食えると思う。こいつにやられた家畜の分を考えたら、置いていくのはもったいない」

「……良い心掛けだ」

 

 イリアは狼へ改めて向き直す。


「よし、ならば少し力を貸してやろう」

「いや、イリアさんと二人じゃさすがに重くて――」


 狼の下に影が広がった。


 大きな身体がゆっくりと持ち上がり、そのまま地面から少し浮いた状態で止まる。


 カイルは口を開いたまま、数秒ほど固まっていた。


「これなら運べるであろう」

「……そうですね」


 先ほどより少し丁寧な返事になった。


 その後 カイルが先頭に立ち、森の中を歩き始める。後ろをイリアがついていき、さらにその後ろを巨大な狼の死体が音もなく浮かびながら進んでいく。


 しばらく歩いたところで、カイルが振り返った。


「イリアさんは、この辺りの人じゃないですよね?」

「そうだな」

「どこから来たんです?」


 イリアは少し考え、後ろを振り返った。

 木々の向こうに館はもう見えない。


「館で眠っていた」

「眠ってた?」

「ああ。目が覚めたので外へ出た」

「……そうですか」


 納得したようには聞こえなかったものの、カイルはそれ以上聞かなかった。


 森の向こうから薄い煙が見え始める。炊事の煙だろう。

 やがて木々の隙間に畑が現れ、その先に小さな家々の屋根が見えてきた。


「あれがリエル村です」


 カイルが少しだけ歩調を緩める。


 イリアは久しぶりに見る人の暮らしを眺めた。

 畑には人影があり、家々の間からは子供の声も聞こえてくる。

 思っていたより何も変わっておらず、少し安心する。


「……リエル村か」


 イリアがその名を口にする。

 久しぶりの人里に、少しだけ心が踊った。

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