19. ダークエルフ
足もとを覆っていた暗闇が消え、カイルの視界に森の木々が戻ってきた。身体が地面へ戻った感覚に、足がすぐには追いつかない。
「……っ」
一歩よろけたところで、隣にいたイリアが腕を支えた。
「大丈夫か」
カイルは俯いたまま、何度か深く息をする。気持ち悪さはあるが、初めて影を渡ったときほどではなかった。あのときは立っていることさえできなかったが、今回は自分の足で踏ん張れている。
「……前よりは、かなり楽です」
「本当か」
「はい。少なくとも、今回は座り込まずに済みそうです」
イリアが心配そうにカイルの顔を覗き込んでいると、少し離れた場所にいたルグナードが、街道のほうへ顔を向けた。
「……誰か来ます」
蹄の音が聞こえてくる。木々の向こうに、青白い火が見えた。一騎のデュラハンが、街道を駆けてくる。こちらに気づくと速度を落とし、ルグナードの前で黒馬を止めた。
「ルグナード様」
「どうした」
デュラハンは一度イリアたちのほうへ目を向け、それから改めて、ルグナードへ向き直る。
「オ戻リ早々、申シ訳アリマセン。御報告ガアリマス」
「構わん。続けてくれ」
「巡回中、街道ノ近クデダークエルフノ一団ト接触シマシタ」
カイルが顔を上げた。イリアも、その名に反応する。
「ダークエルフか、懐かしいな」
ルグナードは、報告に来たデュラハンに続きを促した。
「何人ほどだ」
「五十人ホドデス。ネル氏族ト名乗ッテオリマシタ。子供ヤ老人モ一緒デス」
「氏族ごと移動しているのか」
「ソノヨウニ見エマス」
そこまで答えたところで、デュラハンがわずかに間を置いた。
「ソレト、彼ラハ我ラノ役目ヲ知ッテオリマシタ」
ルグナードの視線が、鋭くなる。
「我々の役目を?」
「ハイ。デュラハンガ夜道ヲ行ク者ヲ獣ヤ賊カラ守ルコトモ、ホカノ夜ノ民ノ役目モ知ッテイマス」
シアネリスが、驚いたように呟いた。
「千年前ならともかく、この時代にそれを知っている者がいるなんて……」
「彼ラハ『宵ノ教エ』ト呼ンデイマシタ」
「宵の教え?」
「ハイ。ネル氏族ニ昔カラ伝ワル教エダト」
イリアが首を傾げる。
「聞いたことがないな」
「私もございません」
シアネリスも同じだった。当然、ルグナードにも覚えはない。
「ほかには何を話した」
「夜ノ民ハ夜ノ主ニ仕エル者ダトモ、伝ワッテイルソウデス」
その場の空気が変わった。ルグナードが口を開く。
「……その者たちは、夜の主についてどこまで知っている」
「詳シイコトハ知ラヌヨウデス。古イ伝承ニ残ッテイルダケダト」
「そうか」
ルグナードは少し考え、すぐに黒馬の向きを変えた。
「その者たちは、どこにいる」
「森ニ戻ッテ待ツヨウ、伝エテアリマス」
「……よし。まずは私が、話を聞いて参ります」
ルグナードがはっきりと答える。イリアもうなずいた。
「其方に任せる」
「ありがとうございます」
ルグナードは、報告に来たデュラハンを見る。
「案内してくれ」
「承知イタシマシタ」
二騎の黒馬が、街道へ駆け出していく。その背が木々の向こうへ消えるまで見送ってから、カイルがイリアを見た。
「宵の教えって、心当たりはないんですか?」
「知らぬ。少なくとも、私が眠る前には、そのような教えは聞いたことがない」
「じゃあ、この千年のあいだにできたものなんでしょうか」
「おそらくな」
イリアは腕を組む。
「私の知らぬ間に、随分と妙なものが増えたものだ」
シアネリスは二人の話を聞きながら、ルグナードたちの消えた方角を見ていた。
「夜の民の役目まで残っているのは、少し気になりますね」
イリアもそちらへ目を向ける。なぜ夜の民の役割が言い伝えられているのか。その答えは、誰にも分からなかった。
*
森の中では、小さな焚き火がいくつも燃えていた。
ネル氏族の者たちは、デュラハンに言われたとおり、その場を動かずに待っている。子供の多くは、すでに眠っていた。疲れ切った老人たちも横になり、まだ起きている大人たちは、時おり森の外へ視線を向けている。
族長のオルフェも、そのひとりだった。トアドとアーシャは、少し離れた焚き火の前に座っている。
「遅いな」
トアドが呟いた。
「戻ってくるって言ってたんだから、待つしかないよ」
トアドが何か言い返そうとしたところで、オルフェが手を上げた。
「静かに」
二人が口を閉じる。遠くから、蹄の音が聞こえてきた。やがて木々の向こうに、二つの青白い火が見える。
「二人……?」
アーシャが立ち上がった。先ほどのデュラハンの隣に、もう一騎いる。同じ首のない騎士。だが、近づくほどに違いが分かった。黒い鎧も、まとう空気も、先ほどの者とは明らかに違う。長い年月を戦場で過ごしてきた騎士のような、重い存在感があった。
二騎は森の手前で止まる。オルフェが立ち上がり、トアドとアーシャもその後ろに続いた。先ほど話をしたデュラハンが、口を開く。
「ルグナード様。コノ者タチデス」
オルフェの表情が、わずかに変わった。
ルグナード。その名は知らない。だが、先ほどのデュラハンが、明らかに敬意を向けている。
「あなたが、この方の……」
「同じデュラハンだ。ルグナードという」
返ってきた声は、先ほどまで聞いていたものとは違っていた。言葉も淀みなく、人と変わらない。トアドとアーシャが思わず顔を見合わせたが、ルグナードは気づいていながら、特に触れなかった。
「先ほど、我が同胞から話は聞いた。ネル氏族だったな」
「はい。私が族長のオルフェです」
「少し話を聞かせてもらいたい」
オルフェがうなずく。ルグナードは、周囲へ視線を巡らせた。焚き火。地面に敷かれた毛布。その上で眠る子供たち。木に立てかけられた荷は、旅にしては多く、引っ越しにしては少なすぎる。
「……その前に、ひとつ聞きたい」
「何でしょう」
「其方らは、どこかへ旅をしているわけではないな」
オルフェは、一瞬黙った。トアドとアーシャの表情も、少し硬くなる。
「子供に老人もいる。それに、その荷だ」
ルグナードは、地面に積まれた袋を見た。
「必要な物を選んで旅支度をしたというより、持ち出せる物だけを持って出てきたように見える」
オルフェは小さく息を吐いた。
「五日前、集落を捨てました」
「……何があった」
「人族の奴隷狩りが、森へ入ってきたんです」
ルグナードは黙った。
「奴隷狩り?」
「はい」
オルフェは平静に話そうとしていたが、その声にはわずかに疲れが滲んでいた。
「見張りが早く見つけてくれたので、襲われる前に逃げることはできました。ただ、集落の場所まで知られた以上、戻るわけにはいきません」
「相手の人数は」
「……確認できただけでも、二十人ほど。おそらく先遣隊でしょう。全員で何人いるのかまでは、分かりませんでした」
「追ってきているのか」
「……分かりません」
オルフェは、森の奥へ目を向ける。
「今も追われているのか、それとも諦めたのか……確かめる余裕はありませんでした」
ルグナードは、眠る子供たちへ目をやった。
「それで五日間、森を移動してきたのか」
「……おっしゃるとおりです」
「食料は」
「……あまり、余裕があるとは言えません」
ルグナードは、しばらく考えた。
「ならば、今夜はここから動くな」
オルフェが顔を上げる。
「ですが――」
「この周辺は、我々が巡回している。獣や賊が近づけば、対処する」
そこで、一度言葉を切った。
「其方らを追っている者が来た場合もだ」
「……それが、人族でも?」
アーシャが思わず問いかける。ルグナードは、ゆっくりと彼女を見た。
「旅人を守るのが、我々の役目だ。種族で相手を選ぶ理由はない」
アーシャは、何も返せなかった。昨日、街道で人族の御者を助けたかと思えば、今度は魔族の自分たちを守ると言っている。これが、本来の夜の民の姿なのか。
オルフェが、ゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。追手が来ないに越したことはないからな」
ルグナードは、案内してきたデュラハンへ顔を向けた。
「今夜は、この辺りの巡回を厚くしてくれ。何かあれば、すぐに戻って報告しろ」
「承知シマシタ」
デュラハンが黒馬を走らせ、森の外へ消えていく。それを見送ってから、ルグナードは再びオルフェに向き直った。
「さて、先に宵の教えについて聞かせてもらおうか。その教えでは、我々の本来の役目が伝えられていると聞いたが」
オルフェは、近くの焚き火へ目を向ける。
「ネル氏族では、子供のころから教わります。夜の民にはそれぞれの役目があり、人や死者を支えてくれているのだと」
「今の夜の民の姿を見ていながらも、その教えは残ったのか」
「……若い者も教えのことは知っていますが、最近は、信じ切れない者も増えました」
オルフェが少し苦笑する。トアドが、気まずそうに視線を逸らした。
「俺も、昨日までは昔話みたいなものだと思ってました」
「其方が昨日、我が同胞を見た者か」
トアドがうなずくと、アーシャが口を開く。
「本当に驚きました。……私たちの知っている夜の民とは、全然違ったので」
ルグナードは二人の顔を見たあと、オルフェへ視線を戻した。
「『夜の主』についても伝わっているそうだな」
焚き火が、ぱちりと弾けた。
「はい。ただ、本当に古い伝承のみですが」
「どのような話だ」
「……夜の民が仕える方だと。それ以上は、氏族に残っている話も曖昧です」
オルフェは少し考える。
「宵の教えそのものは今も残っていますが、いつ、誰が始めたのかまで分かる者はいません。夜の主についても同じです。名も姿も伝わっていない。ただ、夜の民よりもさらに古い存在だと」
「……そうか」
ルグナードは、それ以上は尋ねなかった。今度は、オルフェのほうが口を開く。
「ひとつ、こちらから聞いても?」
「構わない」
「あなた方は……どうして今、教えにあるとおりの姿に戻られたのですか」
ルグナードは少し黙った。オルフェだけでなく、トアドとアーシャも答えを待っている。
「……さて、どうしたものか」
腕を組み、首もとの青白い炎をわずかに揺らす。
「……それは、夜の主と何か関係があるのでしょうか」
「……」
オルフェの言葉に、ルグナードは否定も肯定もしなかった。
「今すぐには答えられない。……今は、この答えで勘弁してくれぬか」
オルフェも、無理に聞こうとはしなかった。
「もちろんです。詮索するつもりはございませんので」
「其方らの事情も含めて、私から話を通す」
「誰に、とは聞かないほうがよさそうですね」
「助かる」
オルフェが、わずかに笑った。その様子を見て、張り詰めていたトアドの肩からも、少し力が抜ける。
「返事が来るまでは、ここにいていいんですか?」
「今夜は休め。五日も歩き続けたのだろう」
ルグナードが周囲を見回す。オルフェは、もう一度深く頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます」
ルグナードは、黒馬の向きを変える。
「では、私は一度戻る」
ルグナードが森を離れていく。青白い火が木々の向こうへ消えるまで、アーシャはその後ろ姿を見つめていた。
「……本当に、私たちを守ってくれるんだ」
隣のトアドが、焚き火へ目を落とす。
「昨日、見ただろ」
「見たけど、あれは人族の旅人だったでしょ。……私たちは、魔族だから」
トアドが顔を上げる。アーシャは、少し困ったように笑った。
*
ルグナードがリエルへ戻ったころには、すっかり夜も深くなっていた。
ルグナードが姿を見せると、イリアはすぐに顔を上げた。
「どうだった」
「宵の教えについては、報告にあったとおりでした」
ルグナードは、イリアの前まで来る。
「ネル氏族では、今も夜の民の役目が伝えられています。夜の主についても、古い伝承として残っていました」
「ふむ、そうか」
イリアは少し考え込んだ。
「それで、その者たちは何故あの場所に」
ルグナードの表情が、わずかに険しくなる。
「五日前に、住んでいた集落を捨てたそうです」
「何故だ」
「奴隷狩りです」
カイルが息を呑んだ。イリアは眉を寄せる。
「……奴隷狩り?」
「人族の一団が、彼らの集落を探して森へ入ってきたと。襲われる前に逃げられたようですが、子供や老人も連れ、五日間、移動を続けています」
イリアは、しばらく黙っていた。
「ダークエルフを捕らえるために、わざわざ森まで?」
「そのようです」
「……なぜ、わざわざダークエルフを狙うのだ」
ルグナードが答える前に、カイルが口を開いた。
「……たぶん、魔族だからです」
イリアがカイルを見る。
「それが、何の理由になる」
カイルは、すぐには答えられなかった。イリアは眉を寄せたまま、もう一度問う。
「ダークエルフとて、其方らと同じ人間ではないか」




