18. 宵の教え
日が傾き、森へ差し込む光が少しずつ細くなっていく。
木々のあいだを、五十人ほどのダークエルフたちが歩いていた。
大人ばかりではない。幼い子を抱く者もいれば、杖を頼りに足を運ぶ老人もいる。荷はどれも大きく、何日もまともに休めていない者の顔には、疲れが濃く滲んでいた。
「今日はここまでにしよう。暗くなる前に寝床を決めるぞ」
先頭を歩く族長の声が届くと、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
彼らはネル氏族。森の奥に集落を築き、長く暮らしてきたダークエルフの一族である。その集落を捨ててから、すでに数日が経とうとしていた。
*
五日前のことだ。森へ入り込んできた人族の一団を、ネル氏族の見張りが見つけた。
最初は、ただの旅人かとも思われた。だが旅人にしては、あまりに人数が多い。縄や枷まで携え、迷う様子もなく、集落のある方角へ進んでいた。
彼らは奴隷狩りだった。
ダークエルフはエルフとよく似た姿をしている。長い耳に、人族の目から見ても整っているとされる顔立ち。エルフとの違いは、肌の色だけだ。そのため、奴隷として狙われること自体は珍しくない。エルフを攫えば人攫いとして咎められる土地でも、魔族と呼ばれるダークエルフならば話が変わる。
ネル氏族は、それを嫌というほど知っていた。だから人族の町から距離を置き、森の奥で暮らしてきたのだ。
それでも、集落の位置は人族に漏れてしまったらしい。人族と争えば、子供や老人まで巻き込まれる。話し合いの末、ネル氏族は集落を捨てることを決めた。
*
「俺、水を見てくる」
荷を地面に下ろしながら、若い男がひとり立ち上がった。トアドという名の青年だ。
「それなら私も行く。こっち、もうほとんど残ってないから」
水袋を持ち上げたのは、同じ年頃の女、アーシャだった。族長が二人を呼び止める。
「沢を探すだけなら構わん。ただ、街道のほうへは出るなよ。人に見つかるのは避けたい」
「分かってます。水を見つけたら、すぐ戻りますよ」
トアドが答え、アーシャもうなずく。二人は並んで、森の奥へ入っていった。少し歩くと、水音が聞こえてくる。
「こっちだな」
茂みを抜けると、木の根を縫うように、細い沢が流れていた。トアドがしゃがみ込み、水へ手を伸ばしかける。
「トアド、ちょっと待って」
後ろから、服をつかまれた。振り返ると、アーシャは沢ではなく、その向こうを見ている。
「街道がある」
木々の隙間から、細い道が見えた。荷馬車が一台、ゆっくりと進んでいる。御者台にいるのは、人族の男だ。
「こんな近くを通ってたのか」
「戻ろう。見つかる前に――」
そこまで言って、アーシャがふいに口を閉じた。
「……待って」
先ほどより低い声だった。トアドも、その視線を追う。
街道の向こうに、青白い火が見えた。小さな光が、こちらへ近づいてくる。やがて、黒い馬の輪郭が現れた。鬣と尾には、風に揺らぐ青白い炎。その背には、重い鎧をまとった、首のない騎士がいる。
トアドが息を呑んだ。
「……デュラハンだ」
「シッ、隠れて」
二人は沢から離れ、太い木の陰に身を寄せる。
ネル氏族の者なら、デュラハンを知らない者はいない。幼いころから聞かされてきた「宵の教え」にも、その名は何度も出てくる。
夜の民には、それぞれ役目がある。墓を守る者。死が近いことを知らせる者。行き場を失った魂を導く者。そしてデュラハンは、夜の道を行く者が獣や賊に襲われぬよう見守る騎士だと教えられていた。
だが、それはあくまで教えの中の話だった。トアドが実際に耳にしたデュラハンの話といえば、旅人を追い回しただの、逃げる者をどこまでも追いかけただの、そんなものばかりだ。アーシャも同じだった。
「荷馬車のほうへ行ってる」
彼女が声を潜める。御者も気づいたらしい。何度も振り返りながら、手綱を鳴らして必死に馬を急かしている。
「まずいな。あの荷物じゃ逃げ切れないぞ」
トアドが呟いた直後、街道脇の茂みが激しく揺れた。
三頭の獣が飛び出す。狼に似ているが、身体はひと回り大きい。御者が悲鳴を上げ、馬が暴れて、荷台が大きく傾いた。一頭が馬の喉もとへ飛びかかろうとした、そのとき、横を青白い火が駆け抜ける。
長槍が一閃し、獣は弾き飛ばされて土の上を転がった。残る二頭も足を止める。
デュラハンは黒馬を荷馬車の前へ入れ、獣とのあいだに立った。槍先が、静かに向けられる。狼じみた獣たちはしばらく唸っていたが、やがて一歩、二歩と後ずさり、そのまま森の中へ逃げていった。
デュラハンは追わない。獣が姿を消したのを見届けてから槍を下ろし、荷馬車へ向き直る。御者は手綱を握り締めたまま、顔を引きつらせていた。黒馬が数歩近づいただけで、男の肩が跳ねる。
「怪我ハナイカ」
「……え?」
「馬ノ脚モ無事カ」
御者は慌てて、自分の馬を見た。
「だ、大丈夫だと思います」
「ナラ、少シ休マセロ。怯エタママ走ラセレバ、今度ハ馬車ゴト転ブ」
「は、はい」
デュラハンは、街道の先へ槍を向ける。
「コノ先ニ、道カラ少シ外レタ休憩場所ガアル。スデニ暗クナッテキテイル。急グ理由ガナイナラ、今夜ハソコデ休メ」
御者はしばらく呆然としていたが、やがて何度も頭を下げた。
「……助かりました。ありがとうございます」
デュラハンは何も求めず、黒馬を街道へ戻す。青白い炎が、ゆっくりと遠ざかっていった。木陰からそれを見ていた二人は、しばらく声が出なかった。先に口を開いたのは、アーシャだ。
「今の……見たよね?」
「ああ、これは夢か……?」
「御者を襲おうとしたわけじゃなかったんだ」
「あの獣が近づいてたから、後ろから来てたんだろうな」
アーシャは街道の先を見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。
「怪我がないか聞いて、馬のことまで気にして……」
「休む場所も教えてたな」
二人のあいだに、沈黙が落ちた。ずっと昔から、何度も聞かされてきた話に、そっくりだった。
「……宵の教え、そのままだ」
アーシャがぽつりと言い、トアドも否定できなかった。
「あんなデュラハン、初めて見たぞ」
「私も」
アーシャは、ようやく彼を見る。
「ねえ、これ……族長に話したほうがいいよね」
「話さなきゃ駄目だろ。というか、水を汲んだらすぐ戻ろう。あいつがまたこっちへ来ないとも限らない」
「そうだった。水を探しに来たんだったね」
二人は慌てて、沢へ戻った。
*
氏族のもとへ帰るころには、あたりはすっかり暗くなっていた。二人の話を聞いた者たちが、焚き火のまわりに集まってくる。
「待て待て。デュラハンを見たんだろ? よく無事で帰ってきたな」
アーシャは水袋を置いた。
「……それより、そのデュラハンが、人族の荷馬車を助けたの」
一瞬、周囲が静まり返る。
「……助けた?」
「そう。狼みたいな獣が三頭出てきてさ。御者の馬に飛びかかったところを、横から槍で叩き落としてた」
アーシャが身振りを交えて話す横から、トアドも続けた。
「それで終わりじゃないんだ。御者に怪我がないか確かめて、怯えた馬のことまで気遣ってた」
「……喋ったのか?」
「ええ。ちゃんと言葉も通じてたよ。御者なんて、最後は頭まで下げてた」
周囲から、信じられないという声が漏れる。年配の男が眉間に皺を寄せた。
「俺が若いころに見た奴とは、えらい違いだな。あのときは、旅人を見つけた途端に追いかけ回していたぞ」
別の女も、困ったように首を振る。
「スケルトンだってそうでしょう。教えでは墓を守るっていうのに、今じゃ墓参りに行くほうが命懸けだもの」
「バンシーもそうよ」
少し年上の女が口を挟んだ。
「母さんから何度も聞かされたよ。夜中にあの声を聞いた翌日、近所で誰かが亡くなったって。宵の教えじゃ、死が近いことを知らせに来るっていうけど……今じゃ、泣き声が聞こえたら皆、縁起でもないって戸を閉めるだけさ」
「知らせてるのか、怖がらせてるのかも分からないもんな」
誰かがそう漏らし、何人かがうなずいた。
宵の教えそのものを疑っているわけではない。ネル氏族では、子供のころから繰り返し聞かされる。夜は、恐れるだけのものではない。一日の営みを終えた者が静かに休み、すべての命に感謝を捧げる時間でもある。夜の民もまた、その静けさを支える者たちだった――そう伝わっている。
ただ、今まで実際に見てきた夜の民は、あまりにも違っていた。
族長が、焚き火の向こうからトアドを見る。
「そのデュラハンは、獣が逃げたあとどうした」
「特に追いかけたりはしませんでしたよ。御者に声をかけたあと、そのまま街道を進んでいきました」
族長は顎に手を当て、しばらく黙っていた。
「……あのデュラハンだけがおかしいのか、それとも、ほかの夜の民まで変わったのか」
その言葉に、アーシャがすぐ顔を上げる。
「私も、それが気になってました。今までのデュラハンとは全然違いますし……どうして急に、教えにある通りの振る舞いをしてるんでしょう」
「この辺りへ来たのは、今日が初めてだ」
年配の男が言った。
「この辺の夜の民は、ずっと前からそうだったのかもしれん」
「ああ、それもそうか……」
アーシャが考え込む。すると、トアドが焚き火へ小枝を放り込みながら言った。
「……本人に聞いてみるしかないんじゃないですか」
近くにいた者が、思わず顔をしかめる。
「簡単に言うなよ。相手はデュラハンだぞ」
「分かってるって。でも、アーシャと二人で見た限りじゃ、話は通じてた。少なくとも、見つけてすぐに襲ってくる感じじゃなかった」
トアドは、少し声を落とした。
「……それに、このまま森の中を逃げ続けるのも、そろそろ限界だ。子供たちだって、足が止まりはじめてる。もしこの辺りの夜の民が、本当に宵の教えに残ってる通りなら……少なくとも、今より悪い話じゃない」
反論しかけた者も、そこで口を閉じた。
皆、分かっているのだ。食料は減っている。老人たちの足も遅くなっている。奴隷狩りがどこまで追ってきているのかも、分からない。
族長が、トアドとアーシャを交互に見た。
「明日の夜、もう一度あの街道へ行く」
アーシャの顔が引き締まる。
「ただし、大勢では行かん。警戒させるだけだ」
「族長まで行く必要は――」
「氏族の行き先に関わるかもしれん話を、私が見て見ぬふりするわけにもいかんだろう」
トアドは何か言いかけて、諦めたように肩をすくめた。
「……じゃあ、俺も行きます。最初に見つけたのは、俺たちですから」
「私も」
アーシャがすぐに続く。族長は二人を見て、静かにうなずいた。
*
翌日の夜。
族長とトアド、アーシャは、街道の近くで待っていた。しばらくすると、木々の向こうに青白い火が見えてくる。アーシャが、トアドの袖を軽く引いた。
「来た。昨日のデュラハン」
黒馬が、街道をゆっくりと進んでくる。族長が森から出ると、二人も後に続いた。デュラハンはすぐに気づき、黒馬を止める。長槍が、わずかに持ち上がった。三人はそれ以上近づかず、持っていた武器を地面に置く。
「驚かせてしまったなら、申し訳ない。戦うつもりはありません」
族長が、両手を見せる。
「昨日、この近くで荷馬車を助けていましたね。あれを、うちの若い者が見ていたんです」
デュラハンの視線が、トアドとアーシャへ向いた。
「アノ荷馬車カ。獣ガ近ヅイテイタノデ、追イ払ッタダケダ」
「そのことについて、詳しくお聞かせください」
族長は、少し言葉を選ぶ。
「あなた方は、いつもああして夜道を行く者を助けているのですか」
「夜ノ道ニハ、獣モ賊モ出ル。我ラハソレヲ退ケ、通ル者ヲ無事ニ先ヘ送ルノガ役割ダ」
迷いのない返事だった。アーシャが思わずトアドを見る。彼も、同じ顔をしていた。
「……やはり」
族長が、一歩だけ前へ出る。
「我々はダークエルフのネル氏族といいます。昔から、一族の中で受け継いできた教えがあるんです。我々はそれを、『宵の教え』と呼んでいます」
「宵ノ教エ……知ラヌ名ダ」
族長は、そのまま続けた。
「夜を恐れるのではなく、休息と死者の安らぎをもたらすものとして敬う教えです。その中に、夜の民のことも伝わっています」
デュラハンの身体が、わずかに動く。
「我ラノコトガ?」
「はい。デュラハンは、夜道を行く者を獣や賊から守る。スケルトンは墓を守り、バンシーは死が近づいた者へそのことを知らせる。ほかの夜の民にも、それぞれ果たす役目があると」
デュラハンの首もとの青白い火が、夜風の中で静かに揺れている。やがて、低い声が返った。
「……今ノ時代ニ、ソレヲ知ル者ガ残ッテイルトハ思ワナカッタ」
「我々にとっては、子供のころから聞いてきた話です」
アーシャが答える。
「ただ……実際に見る夜の民は、教えにある姿とは違いました。だから私も、すでに過去の話なのかと思っていたんです」
トアドもうなずいた。
「昨日あなたを見るまでは、俺もそう思ってました」
族長が二人の言葉を受けて、続ける。
「私たちは知りたいのです。あなた方に、何が起きたのかを」
デュラハンは、すぐには答えなかった。答えを待つあいだに、族長がもうひとつ言葉を重ねる。
「宵の教えには、夜の民は『夜の主』に仕える、とも残っています。ただ、その方について我々が知っているのは、古い伝承くらいのものです。本当はどのような方だったのか、我々には分かりません」
青白い火が、ふっと大きく揺れた。
「……夜ノ主ノコトマデ、残ッテイルノカ」
「はい。……今では、本当に実在した方なのかどうかすら、我々には分かりませんが」
デュラハンはしばらく、三人を見ていた。先ほどまでより、明らかに警戒している。それでも、彼らに槍を向けることはなかった。
「……ココデ答エルコトハ出来ヌ」
族長が、黙って続きを待つ。
「私ダケデ判断スルコトハ、デキナイ。其方ラハ森ヘ戻リ、今夜ハソコデ待ッテイロ」
「分かりました」
「コノ辺リハ我ラガ巡回シテイル。獣ガ近ヅケバ対処スルタメ、安心セヨ」
それだけ告げると、デュラハンは黒馬を翻した。青白い鬣が夜の中を流れ、蹄の音が街道の先へ遠ざかっていく。族長は、その姿が見えなくなるまで黙っていた。
「……戻ろう。皆を待たせている」
三人は武器を拾い、森へ入っていく。街道には、もうデュラハンの姿はない。それでも、先ほど聞いた言葉だけは、はっきりと耳に残っていた。
宵の教えに語られてきた夜の民が、本当にそこにいた。




