16. 影渡り
翌朝。
リエル村はずれには、イリアとシアネリス、ルグナード、それにカイルの四人が集まっていた。ルグナードは黒い鎧をまとったまま、イリアの少し後ろに控えている。
カイルは、村の外へ続く道を眺めた。
「ノクティア……でしたっけ。確か、相当遠いんですよね。今日はどこまで行くんです?」
「どこまでとは」
「途中で泊まる場所とか。何日かかるのかと思って」
「ああ、そのことなら心配いらぬ」
イリアが足もとへ目を落とす。朝日を受けて伸びていた影が、ふいに形を変えた。ゆっくりと広がり、黒い水を流したように、四人の足もとへ満ちていく。
カイルは思わず一歩退いた。
「こ、これは何ですか?」
「私の影の一部だ。今回は、これを使う」
「……いったい、どうやって?」
「影を渡って、ノクティアまで一瞬で移るのだ。目的地までひとっ飛びだぞ」
カイルは、足もとに広がる蠢く影を見下ろした。
「……そんなこともできるんですか」
「昔はよく使っておったのだがな。今となっては、使い勝手が悪い」
「どうしてです? すごく便利そうですけど」
「千年も経っておるからな。遠くへ渡るには、一度行ったことのある場所で、なおかつ位置関係をきちんと把握している場所でなくてはならぬ。目に見える距離ならば簡単に渡れるが、そもそも短い距離では、消費する力が割に合わん」
カイルは納得したようにうなずいた。
「私が眠っていた屋敷からノクティアまでの位置は分かっておる。おそらく、この村からでも問題なく渡れるだろう」
カイルが、少し不安そうな顔になる。その横で、シアネリスとルグナードは、何事もなく影の上に立っていた。
「お二人は、これ、前にも?」
「はい。何度か、イリア様に連れていっていただきました」
「……なら、大丈夫そうですね」
そう言ってから、カイルは何かに気づいた。
「えっと、夜の民じゃない俺でも、問題ないですよね?」
イリアは、少し間を置いた。
「おそらく、連れていけるとは思う」
「お、おそらく……?」
「生者を伴うのは、初めてなのだ」
カイルの顔が固まる。自分の足もとを見てから、イリアへ視線を戻した。
「ほ、本当に大丈夫でしょうか……」
「そこまでの危険はないと思っておる。ただ、夜の民とは身体の在りようが違うからな。其方が影を渡ったときにどう感じるかまでは、私にも分からぬ」
イリアは少し考えて、続けた。
「不安なら、今回は残ってもよいぞ」
「……いや、行きます」
「よいのか」
「ここまで来たなら、ほかの原初の方にも会ってみたいですしね」
「……そうか」
イリアが、小さく笑う。
「ならば、私のそばにおれ。着いたあとで何かおかしければ、すぐに言うのだぞ」
「分かりました」
カイルが、少しだけイリアの近くへ寄る。それを確かめてから、イリアは目を閉じた。
脳裏に浮かべるのは、千年前のノクティア。
広大な墓所を囲んでいた石壁。大きな門。幾重にも並ぶ墓標と霊廟。そして最奥に建つ、古い大霊廟。細かな景色は、随分と薄れている。それでも、あの場所そのものを忘れたことはなかった。
「行くぞ」
足もとの影が大きく蠢きはじめ、四人の身体を包み込む。一瞬で、意識が暗闇に沈んだ。
上下も前後もない。冷たくも、温かくもない。すべてが黒に覆われたと思った――そのすぐあとに、光が戻ってきた。
冷たい風が、頬を撫でる。足の下には、ひび割れた古い石畳があった。
「……着いたな」
影が、静かにイリアの足もとへ戻っていく。
目の前に、巨大な石門が立っていた。片側は大きく崩れ、石材の隙間から太い木の根が伸びている。その向こうには、墓標や霊廟が、木々のあいだにいくつも見えた。
シアネリスが、ゆっくりと周囲を見渡す。
「……懐かしい」
「よく残っていたものです」
ルグナードも、崩れた石門を見上げた。イリアはしばらく何も言わず、その景色を眺める。
昔は、墓所の外にも道があった。その先には建物があり、人々の暮らしの跡があったはずだ。今は木々と草ばかりで、かつての面影はほとんどない。それでも、石門の形には見覚えがあった。
「ここで間違いない。ノクティア大墓所だ」
シアネリスがうなずく。その隣で、返事をしない者がひとりいた。イリアは振り返る。
「カイル?」
少し離れたところで、カイルが両手を膝についていた。顔を伏せたまま、動かない。イリアはすぐに、そちらへ戻った。
「どうした。気分が悪いのか」
「……かなり……」
「座れ。無理に立つな」
言われるまま、カイルはその場に腰を下ろす。相当、顔色が悪い。シアネリスが隣にしゃがんだ。
「どこか痛みますか?」
「痛いところは……ないです。ただ、目が回ってるような感じで……」
「吐きそうか」
「ちょっとだけ……」
イリアも、カイルの前にしゃがみ込んだ。
「すまぬ。ここまで負担が出るとは、思っておらなんだ」
様子を見ながら、わずかに眉を寄せる。
「次は、もう少し意識して慎重に渡るか」
「ああ……次も乗ることは、決まってるんですね……」
「其方をここへ置いて帰るわけにもいかぬだろう」
「そういえば、そうでした……」
苦笑するくらいの余裕は、戻ってきたらしい。ルグナードが、近くにあった平たい石の上から、枯れ葉を払った。
「こちらのほうが、座りやすいだろう」
「……ありがとうございます」
カイルが場所を移す。
しばらく休んだあと、カイルは何度か大きく息を吐いて、ゆっくり立ち上がった。
「もう歩けそうです」
「顔色は、まだ少し悪そうだが」
「さっきより、ずっと楽です。これくらいなら大丈夫ですよ」
「無理はするなよ」
イリアはしばらくカイルの顔を見つめ、先ほどより血色が戻っているのを確かめてから、四人で大墓所へ足を踏み入れた。
*
石門の先には、記憶にあるよりも深い緑が広がっていた。古い道はところどころ草に埋もれ、その両側に、墓標や大小の霊廟が並んでいる。木の根に押されて傾いた墓石や、完全に崩れてしまったものも、あちこちに散らばっていた。
しばらく歩いたところで、イリアは足を止めた。
「……これは」
道端の墓石には、一度倒れた跡が残っている。今は起こされ、土を固めて、まっすぐに立て直されていた。周囲の雑草も刈られている。少し離れた場所では、崩れた石壁が、不格好ながら積み直されていた。
「誰かが、直してるんですね」
カイルも、近くの墓を覗き込む。
「そのようだな」
そのまま先へ進む。手入れの跡は、一か所だけではなかった。道を塞いでいたであろう枝は脇へ寄せられ、霊廟の入口には落ち葉がほとんど溜まっていない。崩れて直せない墓も、散らばった石だけは、丁寧にまとめられていた。
「……あいつらしい」
イリアの口もとが、自然とほころぶ。
四人が道を確かめながら進んでいると、前方の霊廟の陰で、何かが動いた。やがて、五体のスケルトンが姿を現す。その手には、古びた槍が握られていた。
カイルが、弓へ手を伸ばす。
「イリアさん」
「心配するな。そのまま待っておれ」
スケルトンたちは、槍や剣を構えて近づいてくる。だが、イリアが数歩進むと、先頭の骸骨の動きが鈍りはじめた。構えていた槍が、震えている。
「…………」
やがて、切っ先が下がった。後ろにいたスケルトンたちも、次々に足を止める。一体が、イリアを見つめた。
「……王……?」
「ああ。戻ったぞ」
しばらく、沈黙が続いた。槍が石畳に落ち、スケルトンが片膝をつく。
「王ヨ……」
ほかのスケルトンたちも、遅れて膝をついた。
「良クゾ御無事デ……」
「心配をかけたようだな。もうよい、立て」
骨の身体が、ひとつずつ立ち上がっていく。イリアは、そのうちの一体に尋ねた。
「ガルディムはいるか」
骸骨は、すぐにうなずく。
「最奥ノ大霊廟ヲ、今モ守ッテオラレマス」
ルグナードが、小さく息を吐いた。
「やはりか」
「……ずっと、そこにいたんですか?」
カイルの問いに、スケルトンが振り返る。
「私ガ覚エテイル限リ、ガルディム様ハ、アノ場所ヲ離レテオリマセン」
イリアは、墓所の奥へ目を向けた。
「よし、会いに行くか」
「御案内イタシマス」
一体の骸骨が、先頭に立つ。墓所の奥へ進むほど、墓は古くなっていった。名の刻まれた石も、文字が削れて、ほとんど読めない。それでも、通れる程度には道が開けられ、倒れた墓石にも、手を入れた跡があった。
カイルは歩きながら、何度も左右を見回している。
「これ、全部ガルディムさんが管理してたんですか?」
「全部かどうかは分からぬが……ガルディムならば、やりかねんな」
*
やがて、木々が途切れた。
その先に、幅の広い石段が現れる。何十段も続く石段の上には、周囲のものとは比べものにならないほど巨大な霊廟が建っていた。
壁には深い亀裂が走り、一部は崩れ落ちている。屋根にも穴が開いていた。だが、入口へ続く石段だけは、きれいに保たれている。苔は削られ、落ち葉もほとんどない。
そして、その最上段に、何かが立っていた。
カイルの足が止まる。
「……で、でかい……」
それは、骸骨だった。だが、これまで見てきたスケルトンとは、比べものにならない。
三メートル近い巨体。肩幅は広く、骨の一本一本が太い。古びた重い鎧の上から、長いローブを纏っている。かつては濃い色だったのだろうが、今では元の色も分からぬほど褪せていた。裾は大きく裂け、ところどころ穴も開いている。千年という時間を、そのまま身に纏っているようだった。
片手には巨大な盾。もう片方には、長大な槍。こちらへ背を向けたまま、霊廟の入口を塞ぐように立っている。
動かない。
ただそこに立っているだけなのに、その先へ進むことを決して許さぬ、巨大な門のように見えた。
イリアは石段の下で足を止める。
「……本当に、おったのか」
その声が届いたのだろうか。巨大な骸骨の頭が、ゆっくりと動いた。振り返る。深い眼窩の奥に、淡い光が灯る。その光が、イリアを捉えた。
長槍を握る太い骨の指が、わずかに震えた。




