第9話 何を食べている
非常階段の扉を閉め、俺たちは来た道を戻った。
「じゃあ次は三階だね」
美咲が当然のように言った。
「ちょっと待って」
「何?」
「喉乾いた」
一階からずっと歩き回っている。
気づけば、かなり長いこと水分を取っていなかった。
「じゃあ食堂寄ろっか」
「……食堂か」
「何、その嫌そうな顔」
「いや」
さっきまで佐伯さんが、イベント会社の安全管理について本気で怒っていた。
言っていることは正しい。
正しいのだが。
今戻ったら、またあの話の続きが始まりそうな気がする。
「何かまた佐伯さん怒ってそうだし」
「悠希、逃げようとしてる?」
「逃げてない。喉が乾いただけだ」
「だったら食堂でいいじゃん」
「そうなんだけど……」
俺が返事に困っていると、水野さんが小さく笑った。
「あの」
「はい?」
「よかったら、私の部屋来ます?」
「水野さんの?」
「飲み物、結構持ってきてるんです」
そう言って、自分の部屋のほうを指差す。
「お茶とか水とか。余ると思うので、一人一本ずつくらいなら全然」
「いいの?」
美咲がすぐに食いついた。
「もちろん」
「じゃあ行こう」
「俺の意見は?」
「喉乾いたんでしょ?」
「そうだけど」
「決まり」
結局、俺たちは水野さんの部屋へ向かうことになった。
*
水野さんの部屋も、俺たちが使っている病室とほとんど同じだった。
古いベッド。
小さな棚。
新しいシーツと枕。
床にはバッグとリュックが置かれている。
「ちょっと散らかってますけど」
「全然」
美咲が答える。
水野さんはバッグの横に置いてあった袋を開けた。
「水と、お茶と、スポーツドリンクがあります」
「そんなに持ってきたの?」
「飲み物なくなるのが一番嫌なので」
中には本当に何本もペットボトルが入っていた。
「重くなかった?」
「重かったです」
「だよね」
「でも山の中って聞いてたし、足りなくなるよりいいかなって」
水野さんが一本ずつ取り出す。
「好きなのどうぞ」
「じゃあ私、お茶」
「俺は水で」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取ったペットボトルを開け、一気に半分ほど飲んだ。
「生き返る……」
「悠希、大げさ」
「お前らが歩かせるからだろ」
「でも途中から悠希のほうが真面目に調べてたじゃん」
「出口だけな」
俺はベッドの端に腰を下ろした。
美咲は隣。
水野さんは床に座り、自分のペットボトルを開ける。
しばらく三人とも黙って飲んでいた。
静かだった。
廊下からも、ほとんど音は聞こえない。
さっきまで歩き回っていたせいか、こうして座っているだけでかなり落ち着く。
「そういえば」
美咲が水野さんを見る。
「水野さんも大学生なんだよね?」
「はい」
「どこの大学?」
大学名を聞いて、美咲が目を丸くした。
「え、近いじゃん」
「そうなんです」
「うちの大学からもそんな遠くないよね?」
「わりと近いです」
「全然知らなかった」
「今日会ったばっかりですからね」
「それはそうなんだけど」
二人が笑う。
話を聞いていると、普段使っている駅やよく行く場所もそこそこ近いらしい。
「じゃあ、このツアー終わったあとも会えるね」
美咲が言った。
「そうですね」
水野さんも嬉しそうに頷く。
「美咲さんもこういうの好きなんですよね?」
「大好き」
「私もです」
「じゃあ今度、別の心霊スポットとか行こうよ」
「行きたいです」
嫌な話が始まった。
「悠希もね」
「何で?」
「三人で」
「俺はいらないだろ」
「今日も三人で回ったじゃん」
「今日だけで十分だよ」
「西岡さんがいると安心しますけど」
水野さんが言った。
「俺、何もしてませんよ」
「危ないところ全部止めてくれたじゃないですか」
「普通ですよ」
「メモまで取ってたし」
「それは自分が不安だっただけです」
「やっぱり怖かったんじゃん」
美咲がすぐに言う。
「そういう不安じゃない」
「じゃあどういう?」
「事故とか。怪我とか」
「はいはい」
「絶対信じてないだろ」
二人が笑った。
何となく、さっきまでより水野さんと話しやすくなっている。
最初はツアーでたまたま一緒になった参加者の一人だった。
でもこうして話してみると、普通の大学生だ。
美咲と同じように心霊ものが好きで、そのせいでこんな山奥まで来ている。
「水野さんは、何でこのツアー申し込んだんですか?」
俺が聞いた。
「私ですか?」
「はい」
「単純ですよ」
水野さんが笑う。
「二泊三日で廃病院に泊まれるって、なかなかないじゃないですか」
「そこに魅力を感じているのが分からない」
「悠希はもう黙ってて」
「俺から聞いた話なんだけど」
「それに無料だったし」
水野さんが続ける。
「最初のモニターツアーっていうのも、ちょっと面白そうだなって」
「分かる」
美咲が何度も頷く。
「普通の心霊ツアーより絶対面白いよね」
「ですよね」
「二泊っていうのが、またいいよね」
「分かります」
「何で分かり合えるんだよ……」
俺一人だけ完全に場違いだった。
「西岡さんは?」
「俺?」
「どうして参加したんですか?」
俺は美咲を見る。
「こいつと、友達に誘われたからです」
「啓介君?」
美咲が言う。
「ああ。本当はあいつが詳しいから、全部任せるつもりだった」
「なのに来られなくなった」
「そう」
「それで悠希が私を守ってくれるんだよね?」
「……まあ」
「何ですか、その言い方」
水野さんが笑う。
「駅で格好いいこと言ってたくせに」
「それを水野さんに言うなよ」
「何て言ったんです?」
「言わなくていいです」
「『啓介がいなくても、俺がいるから』って」
「美咲」
「あ」
水野さんが少し驚いたあと、笑った。
「西岡さん、格好いいじゃないですか」
「忘れてください」
「無理です」
「任せとけ、とも言ったよね」
「もういいだろ!」
二人が声を上げて笑った。
そのときだった。
「きゃあああっ!」
甲高い悲鳴が、廊下に響いた。
三人とも一瞬で黙った。
「え?」
美咲が立ち上がる。
「今の……」
俺も反射的に立った。
「森川さん?」
水野さんが扉を見る。
もう一度悲鳴が上がることはなかった。
「行こう」
今度は俺が先に扉を開けた。
廊下へ出る。
少し先。
森川さんが壁際に立っていた。
懐中電灯を床へ向け、明らかに怯えている。
「森川さん!」
駆け寄る。
「どうしたんですか?」
「い、今……!」
「何かいたんですか?」
森川さんが廊下の先を指差した。
「ネズミ!」
「……え?」
「ネズミが出たの!」
「ネズミ?」
美咲が聞き返す。
「そこから急に出てきて、足元を走っていったの!」
騒ぎを聞きつけたらしい。
病室や食堂から、ほかの参加者たちも出てきた。
「何だ?」
佐伯さんがやってくる。
「ネズミが出たらしいです」
俺が言う。
「ネズミ?」
佐伯さんは一瞬きょとんとしてから、廊下を見る。
「まあ……いるだろ。こんな建物なら」
「なんだ、ネズミですか」
藤田も出てきた。
「なんだじゃないですよ!」
森川さんが怒った。
「いきなり足元を走ったんですよ!」
「いや、それはびっくりしますけど」
藤田が苦笑する。
「こんな場所だったら、幽霊出たのかと思いますよ、その叫び声」
「私もそう思った」
美咲が言う。
「私もです」
水野さんも頷いた。
「もう……本当にびっくりしたんだから」
森川さんはまだ胸元を押さえている。
「この辺、食べ物もあるからな」
佐伯さんが言った。
「ネズミくらい入り込んでてもおかしくないだろ」
「食堂の食料、大丈夫ですかね?」
藤田が聞く。
「一応見といたほうがいいかもな」
結局。
それだけだった。
幽霊でもない。
怪異でもない。
ただのネズミ。
あれだけ大きな悲鳴を聞いたせいで一瞬緊張したが、原因が分かってみれば拍子抜けだった。
「じゃあ戻ろっか」
美咲が言う。
「ああ」
俺たちは再び水野さんの部屋へ戻った。
*
「びっくりしましたね」
水野さんが扉を閉める。
「森川さんには申しわけないけれど、悲鳴のほうにな」
俺はさっきの場所へ座り直した。
「でもネズミかぁ」
美咲もペットボトルを手に取る。
「廃病院なら普通にいるんじゃない?」
「そうなんでしょうけど」
水野さんが少し考えるような顔をした。
「どうしたの?」
「いや」
水野さんはペットボトルの蓋を閉めながら言った。
「ネズミって、ここで何食べてるんでしょうね」
「え?」
「だって、ずっと使われてない病院なんですよね?」
「まあ」
「食堂の食べ物は今回のツアー用に持ってきたものだろうし」
俺は何も言わなかった。
「虫とかじゃない?」
美咲が言う。
「そうなのかな」
「ネズミって雑食で何でも食べるんじゃない?」
「まあ、そうですよね」
それで話は終わった。
ただ、俺の頭には一階で確認できなかった場所がいくつか浮かんだ。
崩落の向こう。
物で塞がれていた場所。
俺たちが入れなかった部屋。
ネズミが何を食べているのか。
そんなこと、考えなければよかった。
俺はペットボトルの水をもう一口飲んだ。
目の前では、美咲と水野さんがまた楽しそうに話している。
「三階も楽しみだね」
「はい。やっぱり病室とか、もっとちゃんと見てみたいです」
「分かる。夜にも行ってみたいよね」
「それ絶対怖いやつじゃないですか」
「だからいいんじゃん」
二人が笑う。
さっきまで話していた、ツアーが終わったあとに別の心霊スポットへ行く話も、本気だったらしい。
俺には理解できない。
廃病院。
壊れた非常階段。
暗い廊下。
水も電気もまともに使えない場所。
そして、ネズミ。
そのネズミが何を食べて生きているのかも分からない。
しかも、俺は今夜こんな場所で寝る。
新しいシーツが敷いてあるからといっても、壁一枚向こうをネズミが走っているかもしれない。
ベッドの下から、突然出てくるかもしれない。
そう思っただけで、急に嫌になってきた。
本当に、何で俺はこんなところにいるんだ。
「悠希、どうしたの?」
「……何でもない」
「顔、すごい嫌そうだけど」
「元からだよ」
俺はため息をついた。
美咲についてきたのは自分だ。
それは分かっている。
でも、そもそもこのツアーを教えてきたのは啓介だった。
本当なら、あいつもここにいるはずだった。
こういう場所に詳しいとか。
廃墟ではどうしたほうがいいとか。
散々偉そうに話していたくせに。
肝心なときに来られなくなった。
俺は心の中で、ここにはいない啓介をまた恨んだ。
帰ったら必ず文句を言ってやる。
そんなことを考えながら。
俺はもう一度、部屋の床を見た。
ネズミはいなかった。
分かっている。
それでも。
今夜、この病院で寝ることを考えると。
もう、それだけで不快だった。




