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稲田峰望病院――あなたには、誰が見えていますか  作者: ハイエント


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第7話 出られない

 職員通用口。


 その文字を見てから、俺の中で少しだけ目的が変わった。


 美咲たちに付き合って、ただ病院の中を見て回る。


 それだけなら、正直もう十分だった。


 だが、正面玄関が外から施錠されている以上、ほかに外へ出られる場所があるのかどうかは確認しておいたほうがいい。


 何も起きなければ、それでいい。


 何かあったときに困るよりはマシだ。


「じゃあ行こう」


 美咲が先へ進もうとする。


「待てって」


「何?」


「俺が前行く」


「え?」


 美咲が目を丸くした。


「急にどうしたの?」


「出口を確認するだけだよ」


「さっきまで後ろから離れなかったのに」


「それは関係ない」


 水野さんが笑う。


「西岡さん、出口って分かったら急に頼もしくなりましたね」


「だから、探検じゃないですから」


「はいはい」


 二人の返事が完全に同じだった。


 俺は懐中電灯を前へ向けた。


 職員通用口の表示がある方向へ、三人で進む。


 途中にはいくつか小さな部屋が並んでいた。


 古い扉。


 剥がれかけたプレート。


 文字が消えかけていて、何の部屋だったのか分からないところもある。


「ここも見る?」


 美咲が一つの扉を指差した。


「見るんだろ」


「分かってきたね」


「分かりたくなかったよ」


 扉を開ける。


 中は物置のようだった。


 金属製の棚が左右に並び、床には壊れた箱や紙の束が落ちている。


「奥、行けそう?」


 水野さんがライトを向ける。


「いや」


 棚の一つが斜めに倒れ、奥へ続く通路を塞いでいた。


「ここまでだな」


「でも奥に空間あるね」


 美咲が言う。


「あるけど通れないだろ」


「横から行けない?」


「行かない」


「即答」


「倒れかけた棚の横なんて通るほうがおかしい」


 俺は入口から奥へライトを向ける。


 人が通れそうな隙間はない。


 少なくとも、誰かが普通に出入りできる状態じゃなかった。


 スマートフォンを取り出し、短くメモする。


「また書いてる」


「当然」


「本当に全部残すんだ」


「あとで分からなくなるよりいいだろ」


 部屋を出る。


 その隣は小さな洗面室だった。


 鏡はひび割れ、洗面台には黒い汚れがこびりついている。


 蛇口をひねってみたが、水は出なかった。


「二階は出るのに」


 水野さんが言った。


「一階は止めてるのかもな」


 それも軽く確認して、先へ進む。


 そのさらに奥。


 壁に赤い札が見えた。


 ――立入禁止。


「またある」


 美咲がライトを向けた。


「理由があるんだろ」


 俺も前を照らす。


 すぐに分かった。


「……うわ」


 天井が崩れていた。


 剥がれ落ちた天井材。


 折れた木材。


 金属の骨組み。


 それらが廊下いっぱいに積み重なっている。


 向こう側の天井近くに、


 ――職員通用口。


 という小さな表示が見えた。


「出口、あの先だね」


 美咲が言う。


「ああ」


 俺は瓦礫へライトを向ける。


 左右。


 上。


 床近く。


 どこか通れそうな隙間がないか一応確認した。


 ない。


 人一人が抜けられるような場所はどこにもなかった。


「無理だな」


「これ乗り越えるのは?」


 美咲が言った。


「絶対やめろ」


「聞いただけ」


「崩れた天井の下だぞ。何が落ちてくるか分からないだろ」


「分かってるって」


 俺はもう一度奥を見る。


 通用口は存在する。


 ただ、そこまで行けない。


 スマートフォンを取り出す。


「東側……天井崩落。通行不可」


 小さく呟きながら打ち込んだ。


「口に出すと何か調査員みたい」


 水野さんが言う。


「自分で分かればいいんですよ」


「じゃあ次は?」


 美咲が聞く。


「戻る」


「え?」


「ここから先行けないんだから、別の方向」


「ちゃんと続けるんだ」


「出口だけな」


 三人で来た道を戻った。


     *


 受付付近まで戻り、今度は反対側へ向かう。


 西側。


 こちらにも病室とは違う、小さな部屋がいくつも並んでいる。


 最初にあったのは医局だった。


「医局って、お医者さんの部屋だよね」


 美咲がプレートを見る。


「たぶん」


 中へ入る。


 机が四つ。


 椅子。


 壁際には本棚。


 昔は医学書でも並んでいたのだろう。


 今はほとんど空になっている。


 床には一冊だけ厚い本が落ちていた。


「あ、何かある」


 美咲がしゃがもうとする。


「触らなくていいって」


「見るだけ」


「埃だらけだぞ」


「表紙だけ」


「虫とか出たらどうするんだよ」


 美咲の動きが止まった。


「……それは嫌」


「だろ」


 水野さんが笑った。


「幽霊より虫のほうが強いんですね」


「比較するものじゃないです」


 医局を一通り確認する。


 机の下。


 本棚の陰。


 奥に別の扉はない。


 スマートフォンへメモ。


 次はトイレ。


 個室の扉は何枚か外れかけている。


「ここまで見るの?」


 俺が聞く。


「一応」


 美咲が答える。


「自分で全部確認するって言ったじゃん」


「出口の話だよ」


「でも見てない場所残すの嫌でしょ?」


「……まあ」


 言われてみれば、今さら一か所だけ飛ばすのも気持ちが悪い。


 個室を一つずつライトで確認する。


 何もない。


 水も出ない。


 すぐに出た。


 その先には倉庫。


 こちらは扉を開けた瞬間、ほとんど中へ入れないことが分かった。


 棚。


 壊れた段ボール。


 古い椅子。


 よく分からない金属製の器具。


 それらが積み重なっている。


「奥、全然見えないね」


 水野さんが言う。


「でも入れないだろ」


 俺はライトを高く上げる。


 隙間から奥を照らす。


 何も動かない。


 当然だ。


「ここもメモ?」


「ああ」


 倉庫。


 物が多い。


 奥まで入れない。


 そう打ち込む。


「西岡さん、本当に慎重ですね」


「こういうところで雑に動くほうが怖くないですか?」


「幽霊が?」


「怪我が」


「そこは一貫してるんですね」


「本当にそっちのほうが危ないですよ」


 佐伯さんも言っていた。


 廃墟は幽霊より床のほうが怖い。


 今なら、その意味がよく分かる。


 さらに西へ進む。


 途中に小さな部屋が二つあった。


 一つはほとんど空。


 もう一つは入口付近に割れたガラスが大量に散らばっていた。


 窓だけでなく、棚のガラス扉まで割れている。


「これは入らないほうがいいな」


「そうだね」


 美咲も素直に引いた。


 入口からライトを向ける。


 室内は狭い。


 机と棚。


 ほかに目立つものはない。


 そこもメモ。


 そして。


「あれ」


 水野さんが前方を照らした。


 緑色の古い表示。


 ――非常口。


「ここにもある」


 俺は少しだけ歩く速度を上げた。


「悠希、また早くなった」


「出口だから」


「本当にそこだけは気になるんだね」


「気になるだろ、普通」


 非常口の表示へ向かって進む。


 だが。


「待って」


 俺は足を止めた。


「どうしたの?」


「床」


 三本のライトが同じ場所へ向く。


「……え」


 水野さんが息を呑んだ。


 廊下の床が大きく崩れていた。


 数メートル先まで、床材の一部が落ちている。


 完全に下の階まで抜けているわけではないらしい。


 だが、暗い隙間の奥がどうなっているのか分からない。


 非常口の表示は、その向こう側にある。


「これ無理だね」


 美咲が言う。


「当たり前だ」


「飛べないかな」


「やめろ」


「冗談だって」


「こういう場所で冗談言うなよ」


「悠希、本気で怒った」


「落ちたら洒落にならないだろ」


 床の左右も確認する。


 壁際を通ることもできそうにない。


 少なくとも、安全に向こうへ行く方法はなかった。


「西も駄目か」


 俺はスマートフォンを出す。


 西側。


 床陥没。


 非常口まで行けない。


 打ち込みながら、少し嫌な感じがした。


 正面玄関。


 東。


 西。


 三つとも駄目。


「南もあったよね」


 俺が言った。


「搬入口?」


 美咲が答える。


「ああ」


「見に行く?」


「ここまで来たら確認する」


「何かもう悠希が一番真面目に回ってるね」


「出口だけだって」


 俺たちはまた受付方向へ戻った。


     *


 南側の廊下は、東西より少し狭かった。


 窓も少なく、暗い。


 美咲と水野さんが前を照らす。


「こっち、まだ結構部屋あるね」


「全部見るの?」


 俺が聞く。


「見る」


 二人がほぼ同時に答えた。


「……だよな」


 諦めた。


 最初の部屋は検査関係だったらしい。


 プレートの文字が薄れ、正確な名前までは読めない。


 中には古い机と棚が残っていた。


 床の一部にガラス片。


 奥には天井材が落ちている。


 入れるところまで入って、そこから先はライトで確認する。


 次は小さな倉庫。


 棚が倒れ、通路を半分塞いでいる。


「奥まで行ける?」


 美咲が聞く。


「無理してまで行く必要ないだろ」


「じゃあライト」


 三人で奥を照らす。


 何もない。


 その隣の扉は半分外れかけていた。


「触るなよ」


「まだ何もしてないよ」


「美咲は言わないと触るから」


「そんなことない」


「さっき紙拾っただろ」


「あれくらいじゃん」


「十分」


 水野さんが笑う。


「二人っていつもこんな感じなんですか?」


「だいたい」


 美咲が答えた。


「俺はもっと静かに過ごしたいんですけどね」


「でも美咲さんに付き合ってる」


「仕方なくです」


「はいはい」


 また二人に笑われた。


 そのまま南側の部屋を一つずつ見ていく。


 中へ入れるところ。


 入口からしか確認できないところ。


 扉そのものが開かないところ。


 ガラスが散らばっている場所。


 天井が一部落ちている場所。


 どこも荒れていた。


 それでも、少なくとも三人で確認できる範囲には特に変わったものはない。


 何度目かのメモを終えたころ。


 美咲が前方を指差した。


「あった」


 ――搬入口。


 俺も表示を見る。


「ここが使えれば外には出られるな」


「使えればね」


 その言い方が妙に引っかかった。


「何だよ」


「だって今まで全部駄目だったし」


「ここは分からないだろ」


 三人で進む。


 だが。


 搬入口へ続く廊下の途中に、大きな防火扉があった。


 完全に閉まっている。


 扉自体が少し歪んでいた。


 下のほうには赤茶色の錆が広がっている。


「……またこれか」


 俺は近づいた。


「開く?」


「やってみる」


「悠希が?」


「こういうのは俺がやる」


 取っ手へ手をかける。


 押した。


 動かない。


「固い」


 もう少し力を込める。


 ギィィ、と鈍い金属音が廊下に響いた。


「うわ」


 今度は水野さんが少し驚いた。


「音、大きいですね」


「俺のせいじゃないですよ」


 防火扉は数センチだけ動いた。


「開いた?」


 美咲が近づく。


「いや」


 それ以上は動かなかった。


 隙間へライトを向ける。


「何かある」


「何?」


「棚……かな」


 向こう側に何か大きなものが倒れ込んでいる。


 一つではない。


 棚や資材のようなものが重なり、防火扉を押さえているようだった。


「これ以上開かないな」


「通れそう?」


「この隙間じゃ無理」


 俺は手を離した。


 扉が鈍い音を立てて元へ戻る。


 搬入口の表示は、その先にある。


 ここも辿り着けない。


「南も駄目」


 俺はスマートフォンを出した。


 文字を打つ。


 それを見ていた美咲が言う。


「これで一階全部じゃない?」


「全部?」


「まだ見てないところあったっけ?」


 水野さんも辺りを見回した。


「通れない場所を除けば、だいたい回ったと思います」


「ちょっと待って」


 俺はメモアプリを開いた。


 探索を始めてから、一つずつ書き足してきた。


 自分用なので、かなり雑だ。


 それでも確認には使える。


 画面を上から見直す。


【一階】


・受付 確認

・待合室 確認

・第一診察室 確認

・第二診察室 ガラス多い。奥まで入れない

・処置室 確認

・検査室 天井崩れ。入口から確認

・薬局跡 確認

・事務室 確認

・職員休憩室 確認

・医局 確認

・トイレ 確認

・洗面室 確認。水出ない

・物置 確認

・倉庫 物が多い。奥まで入れない

・小部屋数か所 確認

・ガラス多くて入れない部屋あり

・棚が倒れて奥まで行けない部屋あり

・開かない部屋あり。扉が歪んでる


・正面玄関 外から施錠

・東側 天井崩落。通行不可。職員通用口まで行けない

・西側 床陥没。通行不可。非常口まで行けない

・南側 防火扉。向こうから塞がってる。搬入口まで行けない


「……結構あるな」


 自分で書いたのに、そう思った。


「ちゃんと全部メモしてたんだ」


 美咲が俺の肩越しに画面を見る。


「自分が分かればいい程度だけどな」


「でもこれなら、どこ見たかすぐ分かりますね」


 水野さんも言う。


「ああ」


 俺はもう一度、下の四行を見る。


 正面玄関。


 東。


 西。


 南。


 全部駄目。


「……本当に出られないんだな」


 口にしてから、少しだけ後悔した。


 言葉にすると妙に重い。


「何かあったら電話すればいいじゃん」


 美咲が言った。


「緊急連絡先もらってるし」


「まあな」


「日曜日には迎えも来ますしね」


 水野さんも続ける。


「二日だけですから」


「……そうだな」


 そうだ。


 何かあれば電話すればいい。


 スマートフォンは使える。


 緊急連絡先もある。


 日曜になれば迎えも来る。


 たった二泊だ。


 気にする必要なんてない。


 俺はメモアプリを閉じた。


「じゃあ戻ろう」


「もう?」


 美咲が言う。


「一階全部見たんだろ?」


「うん」


「なら終わり」


「即決だね」


「もう十分だよ」


 本当に十分だった。


 何も起きていない。


 幽霊なんて見ていない。


 変な声も聞いていない。


 誰かに触られたわけでもない。


 ただ暗い廃病院の一階を歩いただけだ。


 それなのに、ずっと体に力が入っていた。


 暗い廊下。


 閉じた扉。


 割れたガラス。


 崩れた天井。


 懐中電灯が照らしていない場所。


 全部、気持ちが悪い。


 もう何も見たくない。


 三人で来た道を戻る。


 しばらくして受付が見えた。


 そして、その先。


 二階へ続く階段。


 それを見た瞬間、俺は思わず息を吐いた。


 やっと戻れる。


「悠希、歩くの速くなった」


 後ろから美咲の声がする。


「気のせいだ」


「さっきまで私たちの後ろだったのに」


「もう一階は見終わっただろ」


「西岡さん、分かりやすいですね」


 水野さんまで笑っている。


「早く戻ろうよ」


「はいはい」


 二人の声を背中で聞きながら、俺は階段へ向かった。


 一階はもう十分だった。


 今日はもう、


 これ以上何も見たくなかった。

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