第6話 一階探索
あの数字について話し終えたあと、俺たちはそれぞれ自分の部屋を決めた。
二階の廊下には、宿泊用に用意された病室がいくつも並んでいる。
俺は食堂からそれほど離れていない部屋を選び、美咲はその隣にした。
「隣なら、何かあってもすぐ呼べるね」
荷物を置きながら、美咲が言う。
「何もないって」
「でも、さっきゼロから五まで並んでるかもって話してたじゃん」
「あれだって、まだ何か起きたわけじゃないだろ」
「まあ、そうだけど」
美咲は笑った。
俺としては、もう今日はこれで終わりにしたかった。
同じコンダクターを見ていたはずなのに、六人全員が違う姿を見ていた。
それだけでも十分気味が悪い。
そのうえ、それぞれが何気なく覚えていたものを並べてみれば、ゼロから五までの数字に見えなくもない。
ただ。
俺は、完全なこじつけだと思っていた。
OKサインをゼロと呼ぶのも。
普通に振られた手を五と呼ぶのも。
いくらなんでも強引だ。
そう思っている。
思っているのに。
気味が悪いことに変わりはなかった。
十分だ。
もう十分すぎる。
会社の仕掛けなのか。
何か特殊な演出なのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
今考えたところで答えなんて出ない。
だったら今日は飯を食って、寝る。
それが一番だ。
「ねえ、悠希」
「何?」
「一階、見に行こうよ」
「嫌だ!」
即答した。
「まだ最後まで言ってないんだけど」
「言わなくても分かる」
「せっかく廃病院に泊まりに来たんだよ?」
「もう見たじゃん。昼間に案内されたろ」
「あれは案内されただけでしょ」
「十分だよ」
「夜になったら全然違うって」
「だから嫌なんだよ」
「あ」
美咲が俺を見る。
しまった。
「やっぱり怖いんだ」
「違う」
「今、嫌って言ったじゃん」
「暗い廃病院なんて危ないから嫌だって意味だよ」
「立入禁止のところには入らないよ」
「それ以外だって床とか傷んでるだろ」
「じゃあ悠希が一緒に来て、危ないところ教えてよ」
「何でそうなるんだよ」
「一人だと怖いし」
「俺だって――」
そこまで言って、止めた。
俺だって怖い。
そう言ってしまえば楽なのかもしれない。
けれど、そんなことを言えば、美咲はきっと笑う。
それだけならまだいい。
せっかく楽しみにして来たのに、俺が嫌がってばかりいたら、少しくらい機嫌を損ねるかもしれない。
何より、彼女の前で怖がってばかりいるのも格好がつかない。
美咲がにやにやしている。
「俺は行かないからな」
「えー」
「行かない」
そのときだった。
「何の話ですか?」
扉の向こうから声がした。
水野さんだった。
手にはペットボトルを持っている。
「ちょうどよかった」
美咲が嬉しそうに言う。
「今から一階を探検しようと思ってるんだけど、水野さんも行かない?」
「行きたいです」
即答だった。
「ほら」
「何が、ほら、なんだよ」
「三人なら大丈夫」
「二人で行けばいいじゃん」
「西岡さんは行かないんですか?」
水野さんが俺を見る。
「俺は、こういうの別に好きじゃないんで」
「悠希、さっきから行きたくないって言ってるんだよ」
「余計なこと言わなくていい」
「じゃあ行けるじゃん」
「何でそうなるんだよ」
美咲が少しだけ口を尖らせる。
「せっかく一緒に来たのに」
その顔を見てしまうと弱い。
別に本気で怒っているわけではない。
分かっている。
それでも、ここで俺だけ部屋に残ると言ったら、後で何を言われるか分からない。
「……分かったよ」
「本当?」
「危ないところには絶対入るなよ」
「分かってるって」
美咲の機嫌は一瞬で戻った。
やっぱり行くしかなかったらしい。
数分後には、俺も懐中電灯を持って二人の後ろを歩いていた。
どうしてこうなった。
*
一階へ下りた瞬間。
帰りたくなった。
昼間に見たときとは、まるで違う。
三本の懐中電灯だけが、受付前の空間を細く照らしている。
古い受付カウンター。
並べられた椅子。
壁に残る案内板。
昼ならただの廃墟だった。
だが今は、光の届かない場所すべてに何かが潜んでいそうに見える。
「いいね」
美咲が小声で言った。
「何が?」
「この雰囲気」
「何もよくない」
「ちゃんと心霊スポットって感じする」
「昼間だって廃病院だったろ」
「夜はやっぱり別物だよ」
「悪化しただけだろ」
水野さんが笑った。
「西岡さん、本当にこういうところ苦手なんですね」
「普通ですよ」
「さっきから美咲さんの後ろから離れないですけど」
「前の二人を見てるだけです」
「じゃあ先頭行く?」
美咲が振り返る。
「行かない」
「即答だね」
「危ない場所分からないだろ。前の二人を見てるほうがいいんだよ」
「はいはい」
美咲は完全に信じていない。
別にいい。
怖いと口に出して認めるよりはましだ。
「まず受付から見ようよ」
美咲がカウンターの中を照らした。
俺たちも中へ入る。
古い机が二つ。
倒れた椅子。
引き出しの抜けた書類棚。
床には紙の切れ端がいくつも散らばっている。
美咲が一枚拾い上げた。
「何か書いてある」
「触らないほうがいいんじゃない?」
俺が言う。
「どうして?」
「汚いだろ」
「そこ?」
紙はひどく色褪せていて、文字もほとんど読めなかった。
「患者さんの名前とか残ってたら怖いね」
水野さんが言った。
「怖いなら探さなくていいんですよ」
「怖いけど、見たいじゃないですか」
「その感覚が分からない」
俺はスマートフォンを取り出した。
「何してるの?」
美咲が聞く。
「メモ」
「何の?」
「見た場所」
「何で?」
「あとで、どこ見たか分からなくなるだろ」
「意外とやる気あるじゃん」
「違う。どうせ回るなら確認しておいたほうがいいだけ」
短く打ち込んで、スマートフォンをしまう。
「次、待合室」
美咲が先へ進んだ。
「だから勝手に行くなって」
待合室には、壁際に長椅子が並んでいた。
一部は倒れ、一部は座面が裂けている。
床には割れた蛍光灯の破片らしいものも落ちていた。
「足元気をつけろよ」
「分かってる」
「美咲、そっちガラスあるぞ」
「あ、本当だ」
「だから言っただろ」
俺はライトを床へ向けながら歩く。
一通り確認すると、またスマートフォンを取り出した。
「本当に全部書くの?」
「全部っていうか、見たか見てないか分かればいいんだよ」
「真面目だなあ」
「何かあったとき困るだろ」
「何かって?」
「火事とか。怪我とか。そういうの」
「幽霊とか?」
「それは入ってない」
美咲が笑う。
次は第一診察室だった。
扉の横には、古いプレートがまだ残っている。
「開けるよ?」
美咲が取っ手を握った。
「何で俺に聞くの?」
「一応」
「聞いても開けるんだろ」
「うん」
「じゃあ聞くなよ」
ギィ。
蝶番が嫌な音を立てた。
「うわっ」
思わず声が出る。
美咲が振り返った。
「……何?」
「いや、音」
「扉の?」
「急に鳴るからだろ」
「ふふっ」
「笑うな」
診察室には机と椅子。
壁際に診察台。
錆びた小さな棚。
それだけだった。
水野さんがライトを動かす。
「何か残ってますね」
「何?」
「聴診器……じゃないか。チューブみたいなの」
「触らないほうがいいよ」
今度は美咲が言った。
「悠希が怒るから」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「保護者?」
「違う」
第一診察室。
確認。
またメモする。
第二診察室へ向かう。
そこは扉を開けたところで、三人とも足を止めた。
「うわ……」
床一面にガラス片が散らばっている。
窓が完全に割れていた。
窓枠にはほとんどガラスが残っていない。
「入れないね」
水野さんが言った。
「入らなくていい」
「でも奥まで見えないよ」
美咲がライトを向ける。
「ここから見れば十分だろ」
診察台。
倒れた机。
壁際の棚。
少なくとも入口から見える範囲に変わったものはない。
奥へ進むには大量のガラスを踏まなければならない。
「これはさすがに危ないか」
美咲も諦めた。
「最初からそう言ってるだろ」
俺はスマートフォンへ、
第二診察室。
ガラス。
奥まで入れない。
とだけ打ち込んだ。
次は処置室。
ここは比較的広かった。
中央に古い処置台。
壁際には金属製の棚が並んでいる。
一つだけ扉が開いたままになっていて、中は空だった。
「ここ、ちょっと怖い」
水野さんが言う。
「だったら早く出ましょう」
「でも面白い」
「やっぱり分かってない」
美咲が処置台の向こうへ回る。
「昔ここで大きな怪我とか治療してたのかな」
「処置室なんだから、そうなんじゃない?」
「血とか残ってたりして」
「そういうこと言うなよ」
「あ、嫌そうな顔した」
「誰だって嫌だろ」
「そうかな」
「そうだよ」
二人が笑う。
俺は笑えなかった。
処置室の奥へライトを向ける。
何もない。
当然だ。
何もない。
なのに、光を動かすたび、次に照らした場所へ何か立っているような気がする。
俺は早々に処置室を出た。
「悠希、早い」
「もう見ただろ」
「ちゃんとメモした?」
「したよ」
その横には検査室があった。
扉自体は開く。
だが、室内の天井材がかなり落ちていた。
床には白い板や木片が散乱している。
「ここは入らないほうがいいな」
俺が言う。
「そうだね」
美咲も素直に頷いた。
入口から三人でライトを向ける。
奥まで完全に見えるわけではない。
それでも、人が普通に歩き回れる状態ではなかった。
俺はまたスマートフォンを取り出した。
「西岡さん、本当に毎回メモするんですね」
「あとで分からなくなるの嫌なんですよ」
「こういうところ、几帳面なんだ」
水野さんが言う。
「こういうところだからですよ」
「どういう意味ですか?」
「何かあったとき、どこを見たとか分からなくなったら困るじゃないですか」
「ちゃんとしてるんですね」
「悠希、こういうところだけはね」
「だけは余計だよ」
美咲が笑った。
次は薬局跡だった。
受付窓口のような小さなカウンターと、その奥に棚が並んでいる。
薬は当然残っていない。
引き出しもほとんど空だった。
「何にもないね」
美咲が言う。
「そりゃ薬なんて残さないだろ」
「古い薬とかあったら面白かったのに」
「面白くない」
「何年前の薬か見たくない?」
「まったく」
そこも確認。
メモ。
その先に事務室があった。
中はかなり荒れている。
倒れたロッカー。
机。
書類棚。
床には古いファイルらしいものが散乱していた。
「ここ、ちょっと入りづらいね」
水野さんが言った。
「だったら入らなくていいだろ」
「でも奥に扉あるよ」
美咲が指差す。
「見なくていい」
「気になる」
「俺は気にならない」
「少しだけ」
「少しでも嫌だよ」
「また嫌って言った」
「今度は認める。こういう足元悪いところは嫌だ」
結局。
足元を一つずつ照らしながら、三人で中へ入った。
古いファイル。
倒れた椅子。
小さなガラス片。
それらを避けながら奥へ進む。
扉を開けると、そこは職員用の休憩室だった。
古いソファ。
小さなテーブル。
錆びたロッカー。
それだけ。
「こういう普通の部屋のほうが、何か怖い」
水野さんが呟いた。
「分かる」
美咲も頷く。
「何で?」
俺には分からない。
「ここで普通に働いてた人がいたんだなって思うから」
「昔は病院だったんだから当たり前だろ」
「そうなんだけど」
美咲がソファへライトを向ける。
「昔はここで休憩しながら、みんなで話してたんだろうね」
「そうだろうな」
「今は誰もいない」
「……」
「それ考えると、ちょっと――」
「やめろ」
「まだ何も言ってないよ」
「続きが分かるんだよ」
二人がまた笑った。
俺は事務室と休憩室もメモへ加えた。
そこからさらに奥へ進んでいく。
物置。
小さな倉庫。
何に使っていたのか分からない小部屋。
一つずつ覗く。
扉を開ける。
ライトを向ける。
入れそうなら中へ入る。
危なそうなら入口から確認する。
倉庫の一つは棚が倒れ、中へ入りづらくなっていた。
別の部屋は床にガラス片が散らばっている。
さらに一室は、取っ手を引いても扉そのものが動かなかった。
「開かないね」
美咲が言った。
「なら終わり」
「中、気にならない?」
「ならない」
「全然?」
「全然」
「私はちょっと気になる」
水野さんまで言い出した。
「やめてくださいよ」
「何で?」
「二人揃ってそういうこと言うと、本当に開けようとしそうだから」
「でも開かないし」
「ならいいんです」
俺は、
扉が歪んで開かない。
とだけメモした。
何度スマートフォンを出したか、もう分からない。
一階だけでも、思っていたより部屋が多い。
しかも美咲と水野さんは、ほとんど全部見ようとする。
俺としては半分くらい飛ばしてほしかった。
それでも、二人が楽しそうにしているのを見ると、帰ろうとは言いづらい。
特に美咲は、このツアーをずっと楽しみにしていた。
ここへ来てからも、俺とは正反対なくらい楽しそうにしている。
俺一人がずっと嫌そうな顔をしていたら、さすがに面白くないだろう。
だから。
怖いからもう戻ろう。
その一言だけは、どうしても言えなかった。
「まだあるのか……」
「何か言った?」
「何も」
美咲が前方を照らした。
「あ」
「今度は何?」
「あれ」
壁に古い案内表示が残っていた。
俺もライトを向ける。
白く汚れたプレート。
そこには、
――職員通用口。
と書かれていた。
「出口じゃない?」
美咲が言う。
「……出口?」
俺は足を止めた。
職員通用口。
正面玄関とは別の出入口。
その文字を見た途端、昼間の光景が頭に浮かんだ。
コンダクターが病院を出る。
俺たちへ手を振る。
扉が閉まる。
そのあとに聞こえた、金属音。
正面玄関は、外から南京錠をかけられている。
俺はもう一度、
――職員通用口。
という文字を見た。
「……ちょっと、この先も見てみよう」
「悠希から言うなんて珍しい」
美咲が笑った。
「探検したいわけじゃない」
「じゃあ何?」
「確認だよ」
俺は暗い廊下の奥へライトを向けた。
光は途中までしか届かない。
その先は、ただ黒かった。
「正面玄関が開かないなら――」
俺は言った。
「ほかに外へ出られる場所があるかくらい、知っておいたほうがいいだろ」
それまで俺にとって、この探索はただ怖いだけのものだった。
けれど。
そのとき初めて、
少しくらい見て回っておいたほうがいいのかもしれない。
そう思った。




