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稲田峰望病院――あなたには、誰が見えていますか  作者: ハイエント


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第5話 六つの印

 「俺が見たのは、そんなポーズじゃなかった」


 そう言うと、佐伯さんがゆっくりとピースサインを下ろした。


「じゃあ、西岡君にはどう見えてた?」


「普通に手を振ってましたよ」


「手を?」


「はい」


 俺は右手を開き、軽く左右に振ってみせた。


「こんな感じです。帰り際に、じゃあまた二日後に、みたいな感じで」


 扉が閉まる直前。


 六十歳くらいに見えたあの女性は、一度こちらを振り返った。


 そして右手を上げ、そのまま軽く振っていた。


 俺には、ただの別れの挨拶にしか見えなかった。


「待って」


 美咲が俺の手を見る。


「じゃあ、悠希にはピースなんてしてなかったんだ?」


「してないよ」


「私も違う」


 美咲が言った。


「私が見た人は、そんなことしてなかった」


 食堂に、また妙な沈黙が落ちた。


「ちょっと整理しない?」


 美咲はテーブルの上にあった紙ナプキンを一枚取り、バッグからペンを出した。


「見えたコンダクターが全員違うなら、覚えてること全部書いてみようよ」


「全部?」


「年齢とか、服とか。あと、何か変わったところがなかったかも」


 誰も反対しなかった。


 むしろ、この気味の悪い食い違いを一度整理したい気持ちは、全員同じだったのだと思う。


 美咲が紙の一番上に俺の名前を書く。


 西岡悠希。


「悠希からね」


「六十歳くらいの女の人。白髪混じりで、髪を後ろでまとめてた。服は紺色のジャケット」


「ほかには?」


「別に……普通だったと思うけど」


「最後は手を振ってた」


「ああ」


 美咲がその横に、


 ――右手を開いて振る。


 と書いた。


「じゃあ次、私」


 美咲は自分の名前を書く。


「二十代くらいの女の人。長い髪で、ベージュのスーツ」


「最後は?」


「別に何もしてないよ」


「何も?」


「うん。ただ……」


 美咲が少し考える。


「首から名札を下げてた」


「名札?」


「会社の人なんだから普通だと思って気にしてなかったけど、そこに数字が書いてあった」


「数字?」


「三」


 美咲が紙に書き足す。


 ――名札に「3」。


「名前じゃなくて?」


「名前もあったと思う。でも、そこまでは覚えてない。数字の三が大きく書いてあったのは覚えてる」


「スタッフ番号とかじゃないの?」


「私もそう思ってた」


 次に佐伯さん。


「俺はさっき言った通り。十二、三歳くらいの女の子。黒いパーカー」


「それでピース?」


「ああ」


 佐伯さんがもう一度、人差し指と中指を立てた。


「最後にこっち向いて、こうやった」


 美咲が書き込む。


 ――ピースサイン。


「俺は、七十くらいの爺さんでした」


 藤田が続いた。


「背が低くて、茶色っぽいジャンパー着てました」


「最後に何かあった?」


「これですね」


 藤田は右手を出した。


 親指と人差し指で輪を作る。


「オーケーってやってました」


「オーケー?」


「はい。だから俺、最後まで妙に軽い爺さんだなと思ってましたよ」


 藤田が苦笑する。


「こんな山奥に置いていくのに、『大丈夫、大丈夫』って感じなのかなって」


 その横にも書き加える。


 ――OKサイン。


 次は森川さんだった。


「私には四十歳くらいの男性。眼鏡をかけてました」


「服は?」


「白いTシャツ」


「Tシャツ?」


「はい。だから旅行会社の人にしては、かなりラフだなと思ってました」


 森川さんが眉を寄せる。


「それで、胸のところに大きく『1』ってプリントされてたんです」


「一?」


「そう。スポーツウェアみたいな感じで」


「最後に何かした?」


「特には。普通に帰っていきました」


 美咲が書く。


 ――白いTシャツ。胸に「1」。


 最後は水野さんだった。


「私は高校生くらいの女の子でした」


「服は制服?」


「うん。紺色のブレザー」


「何か覚えてる?」


「左の袖にワッペンがあった」


 水野さんは自分の左腕を指差した。


「『04』って書いてあったと思う」


「ゼロ四?」


「うん。でも学校のクラスとか、部活の番号か何かだと思ってたから」


 それも紙に書き加えられる。


 六人分が並んだ。


 俺たちはしばらく、その紙を眺めていた。


 姿は全員違う。


 年齢も違う。


 性別も違う。


 服装まで違う。


 同じなのは、俺たちに同じ説明をして、同じ場所を案内したということだけだった。


「これ……何なんでしょうね」


 藤田が苦笑する。


「集団幻覚とか?」


「集団幻覚で、六人がそれぞれ違う人間を見るのか?」


 佐伯さんが言った。


「でも同じことを説明されて、同じ場所を案内されたんですよね」


 森川さんが不安そうに紙を見る。


「声も違って聞こえてたのかな」


「そんなことある?」


 水野さんが呟く。


 美咲も黙っていた。


 さっきまで楽しそうだった顔から、すっかり笑顔が消えている。


「会社が何か仕掛けてるとか?」


 俺は言った。


「どうやって?」


「それは分からないけど……」


 自分で言っていても無理がある。


 六人に同じ人物を、まったく違う姿で見せる。


 そんな仕掛けをどうやれば作れるのか。


「でもさ」


 佐伯さんが紙を覗き込んだまま言った。


「これ、姿以外にも妙じゃないか?」


「何がです?」


「それぞれが覚えてた、変なところ」


 佐伯さんが指で紙をなぞる。


「藤田君がOKサイン」


「はい」


「森川さんの服に、一」


「ええ」


「俺がピース」


 佐伯さんが二本指を立てる。


 そして、美咲を見る。


「小野寺さんの名札が三」


「うん」


「水野さんの袖が、ゼロ四」


「……そうです」


 そこで佐伯さんの指が止まった。


「これ」


 誰も何も言わない。


「ちょっと待って」


 美咲が紙を引き寄せる。


「藤田さんのOKサインって……」


 藤田がもう一度指で輪を作る。


「ゼロに見える」


「ゼロ?」


 藤田自身が自分の指を見る。


 確かに。


 親指と人差し指で作られた輪だけを見れば、数字のゼロにも見える。


 でも。


「いや」


 俺は首を傾げた。


「それ、ゼロって言っていいのか?」


「え?」


 美咲が俺を見る。


「普通のOKサインだろ」


「でも輪になってるじゃん」


「輪になってるからゼロって、それはちょっと無理ない?」


「でも、森川さんが一で」


 美咲が紙を見る。


「佐伯さんのピースが二」


「私の名札が三」


 水野さんが続ける。


「私の『04』が四……?」


 全員が黙った。


 そして。


 視線が俺へ集まった。


「……何だよ」


「悠希」


 美咲が俺を見る。


「手」


「手?」


「最後に、その人が手を振ってたんでしょ?」


「ああ」


「手のひらをこっちに向けて?」


「そうだけど」


 俺はもう一度、右手を開いた。


 五本の指。


 美咲がその手を見る。


「五」


「いやいや」


 思わず笑った。


「それはさすがにこじつけすぎだろ」


「でも五本じゃん」


「人間の手なんだから普通は五本だろ」


 佐伯さんが俺の手を見る。


「ゼロ、一、二、三、四と来て、最後に五本指だぞ」


「だから、それは順番に並べたからそう見えるだけじゃないですか?」


「でも綺麗に揃ってる」


 美咲が言う。


「綺麗すぎるくらい」


「OKサインをゼロってことにして、普通に手を振っただけの俺まで五にしたら、そりゃ揃うだろ」


「悠希」


「何だよ」


「怖いから否定してる?」


「違うよ」


 即答した。


「お前、啓介に毒されすぎなんじゃない?」


「啓介君?」


「ほら、あいつ何でも意味ありげに言うだろ。ちょっと変なもの見ただけで、『それには意味がある』とか言いそうじゃん」


「啓介君、そこまでじゃないでしょ」


「似たようなもんだよ」


「今いないのにひどい」


「いないから言ってる」


 藤田が小さく笑った。


 少しだけ空気が緩む。


 でも。


 紙の上に並んだものは、そのままだった。


 藤田。


 OKサイン。


 森川。


 Tシャツの「1」。


 佐伯。


 ピースサイン。


 美咲。


 名札の「3」。


 水野。


 袖の「04」。


 そして俺。


 開いた手。


「……まあ」


 俺は紙を見る。


「仮にだぞ」


「うん」


「仮にこれを数字だって考えるなら」


 指で順番になぞる。


「藤田さんがゼロ」


「ああ」


 藤田が頷く。


「森川さんが一」


「はい」


「佐伯さんが二」


「俺だな」


「美咲が三」


「うん」


「水野さんが四」


「はい」


「で、俺が五」


 言ってから、また首を振った。


「……やっぱり無理あるだろ」


「でも並ぶんだよね」


 水野さんが言った。


 それは否定できない。


 ゼロ。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 そう見ようと思えば、綺麗に並んでいる。


「偶然……ですよね?」


 水野さんが言った。


 誰もすぐには答えなかった。


「でも、なんでわざわざ見せ方まで変えるんだ?」


 藤田が紙を覗き込む。


「数字なら普通に数字を見せればいいじゃないですか」


「そもそも、何の数字なの?」


 美咲が言う。


 声が少し震えていた。


「悠希……やっぱりこれ、気味悪いよ」


 俺だって気味が悪い。


 同じ人間を見ていたはずなのに、全員が違う姿を見ていた。


 そのうえ、それぞれが覚えていたものを並べれば、ゼロから五までの数字に見える。


 まともなこととは思えない。


 でも。


 俺までそれを認めてしまったら、美咲はもっと不安になる。


 何より。


 俺自身が認めたくなかった。


「大丈夫だって」


「でも……」


「まだ何も起きてないだろ?」


「それはそうだけど」


「OKサインをゼロって言ってる時点で結構強引だし、俺なんて普通に手振られただけだぞ」


「でも……」


「考えすぎだよ」


 俺は紙を軽く指で叩いた。


「数字が並んでるように見えるからって、それだけで何か意味があるって決まったわけじゃない」


「……うん」


「それに、あと二日だよ。日曜には迎えが来る」


 俺は食堂の棚を指差した。


 カップ麺。


 缶詰。


 レトルト食品。


 保存食。


 俺たち自身が持ってきた食料もある。


「食べ物だってこれだけあるし、水も出る。電気がないのは不便だけど、二日くらいなら何とかなるって」


「まあ、それはそうですね」


 藤田が頷いた。


「今のところ、変なのはコンダクターのことだけですし」


「俺はやっぱり、会社の仕込みだと思うけどな」


 佐伯さんも言った。


「仕込み?」


「モニターツアーなんだろ? 普通に廃病院へ泊まるだけじゃ面白くないから、何か怖がらせる仕掛けを用意してるんじゃないか」


「でも、どうやって違う人に見せるんです?」


 森川さんが聞く。


「そこは分からない」


 佐伯さんが苦笑する。


「分からないから、仕掛けとして成立するんじゃないか?」


 少し強引な理屈ではある。


 それでも今は、そう思っておいたほうが気が楽だった。


「ほら」


 俺は美咲を見る。


「大丈夫だって」


「……うん」


 美咲はまだ少し不安そうだった。


「悠希がそう言うなら」


「任せとけ」


 また言ってしまった。


 何を任せろというのか。


 それでも美咲が少しだけ笑ったので、俺も笑い返した。


 テーブルの上には、六人分の記録が残っていた。


 OKサイン。


 一。


 ピース。


 三。


 ゼロ四。


 開いた手。


 並べれば確かに、


 ゼロ。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 そう見えなくもない。


 けれど。


 OKサインをゼロと呼ぶのも。


 普通に振られた手を五と呼ぶのも。


 やっぱり、こじつけすぎだ。


 少なくとも、そのときの俺はそう思っていた。


 本当に六人に数字が示されていたのか。


 それとも。


 俺たちが、意味のないものに勝手に意味を見つけただけなのか。


 その答えは、


 まだ分からなかった。

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