第3話 稲田峰望病院
山道に入ってから、どれくらい走っただろう。
スマートフォンを確認すると、高野駅を出てから四十分近く経っていた。
窓の外には、もう民家一つ見えない。
道路の両側を木々が覆い、時折カーブの先から対向車が来るだけだった。
「本当に山の中だな……」
俺が呟くと、美咲が窓に顔を近づけた。
「いい感じじゃない?」
「何が?」
「心霊スポットっぽくて」
「俺には帰るのが大変そうにしか見えないけど」
「悠希、来てからずっと帰る話してない?」
「気のせいだ」
美咲が笑う。
ほかの参加者たちも、それぞれ外を眺めたりスマートフォンを触ったりしていた。
やがてマイクロバスが大きく右へ曲がる。
舗装された道路から外れ、細い道へ入った。
車体が少し揺れる。
さらに数分進んだところで、前方の木々が途切れた。
「あ……」
美咲が小さく声を上げる。
俺も前を見る。
そこに、建物があった。
――稲田峰望病院。
ホームページの写真で見たものと同じだった。
三階建ての大きな建物。
元は白かったのだろう外壁は灰色にくすみ、ところどころ黒ずんでいる。
正面には錆びた庇があり、その上には文字が半分消えかかった看板が残されていた。
稲田峰望病院。
「稲田……ほうぼう病院、か」
藤田翔太が看板を見上げながら言った。
「ほうぼうって読むんですか?」
美咲が聞く。
「たぶん。峰に望むって書いてあるし」
「へえ。変わった名前」
美咲がもう一度看板を見上げる。
俺も特に疑わなかった。
稲田ほうぼう病院。
そう読むのだろう。
周囲には雑草が伸びているが、正面玄関までの道だけは最低限歩けるように刈られている。
マイクロバスが建物の前で止まった。
「到着いたしました」
コンダクターの女性が立ち上がった。
「お荷物をお忘れにならないようお願いいたします」
全員が順番に車を降りる。
外へ出ると、駅前よりずっと涼しかった。
それ以上に、静かだった。
風が木の葉を揺らす音と、鳥の鳴き声しか聞こえない。
「すごいね……」
美咲が病院を見上げている。
「思ったよりでかいな」
写真で見るのと、実際に目の前に立つのとでは印象がまるで違う。
こんなところに本当に二泊するのか。
今さらながら、少し後悔し始めていた。
「皆様、こちらへお願いいたします」
コンダクターが正面玄関へ向かう。
古びた扉には新しい南京錠が取り付けられていた。
女性はバッグから鍵を取り出すと、それを外した。
重そうな扉が音を立てて開く。
中は薄暗かった。
「うわ……」
藤田が楽しそうに声を漏らす。
「これは雰囲気あるな」
佐伯直樹も病院の中を覗き込んでいた。
俺はあまり共感できない。
昼間なのに、廊下の奥はほとんど見えなかった。
「建物内には電気が通っておりません」
コンダクターが説明する。
「日没後は各自で懐中電灯などをご使用ください。また、スマートフォンなどの充電設備もございませんので、モバイルバッテリーをご利用ください」
「本当に電気ないんですね」
美咲が言った。
「はい。ただし、水道は一部使用できます」
「水は出るんだ」
「二階の洗面所と食堂の水道をご利用いただけます。ただし飲料用としては推奨しておりませんので、お飲みになる水は各自でご用意ください」
俺たちは荷物を持って建物の中へ入った。
一階には受付らしき場所が残っていた。
古いカウンター。
壁には文字の消えかかった案内板。
使われなくなった椅子が何脚か壁際へ寄せられている。
完全に放置されているわけではないらしく、床にはそれほど埃が積もっていなかった。
「一階は基本的に自由に見ていただいて構いません。ただし、立入禁止の札がある場所には入らないようお願いいたします」
コンダクターが廊下の奥を指す。
赤い文字で、
――立入禁止。
と書かれた札がいくつか見えた。
「床や天井が傷んでいる場所もございますので、安全には十分ご注意ください」
そこから階段を上がる。
二階は一階よりも少し明るかった。
廊下の両側に、病室の扉が並んでいる。
「皆様にお泊まりいただくのはこちらの階です」
最初の病室の扉を開ける。
中には古いベッドが一つあった。
ただし、その上には真新しいシーツが敷かれている。
枕もある。
「お一人につき一室ご利用いただけます」
「思ったよりちゃんとしてる」
森川奈緒が感心したように言った。
俺も同感だった。
外から見たときには、本当に泊まれるのかと思った。
しかし部屋の中は簡単に清掃されている。
少なくとも、ここなら寝ることはできそうだ。
「部屋は自由にお選びください。なお、寝具につきましてはこちらで交換済みです」
続いて案内されたのは食堂だった。
広い部屋に、長机と椅子がいくつか残されている。
壁際には棚が置かれ、その上にカップ麺やレトルト食品、缶詰などが並べられていた。
「こちらはご自由にお召し上がりください。ただし、量には限りがございますので、基本的には皆様がお持ちになった食料をご利用ください」
「結構あるね」
美咲が棚を覗き込む。
「これなら足りなくなっても何とかなりそう」
「お湯は?」
佐伯が尋ねた。
「カセットコンロとやかんを用意しております」
テーブルの端に、確かに置かれていた。
「火の取り扱いには十分ご注意ください」
そのあと、洗面所やトイレなども一通り案内された。
古い施設ではあるが、二泊するだけなら何とかなる。
最初に抱いていた不安も、少しずつ薄れてきた。
一通り説明が終わると、俺たちは再び一階の玄関へ戻った。
コンダクターが鞄から小さな紙を取り出す。
「最後に、こちらが緊急連絡先になります」
全員に一枚ずつ配られた。
電話番号が一つだけ印刷されている。
「体調不良、怪我、その他、滞在を続けることが困難になった場合はこちらへご連絡ください」
「夜中でも大丈夫なんですか?」
俺が聞く。
「はい。二十四時間対応しております」
それなら少し安心できる。
「また、最終日には皆様に今回のツアーについて簡単な報告書をご記入いただきます」
「報告書?」
「はい。設備についてお気づきになったこと、危険だと思われた場所、ツアーとして改善してほしい点など、自由にお書きください」
なるほど。
モニターだから無料なのだ。
「日曜日の午後に、こちらからお迎えに参ります。それまで自由にお過ごしください」
「特に何かやらなきゃいけないことはないんですか?」
藤田が尋ねる。
「ございません」
コンダクターは微笑んだ。
「肝試しをされても構いませんし、お部屋でお過ごしいただいても構いません。皆様それぞれの方法で、稲田峰望病院での二泊三日をお楽しみください」
その言い方が妙におかしくて、何人かが笑った。
俺も少しだけ笑う。
案外、大したことはないのかもしれない。
古い病院へ泊まる。
ただそれだけだ。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
コンダクターが玄関の扉に手をかけた。
「あ、本当に帰るんですね」
美咲が言う。
「はい。日曜日にまたお会いいたしましょう」
女性が外へ出る。
そして扉を閉める直前、もう一度こちらを振り返った。
「何かございましたら、先ほどの番号までご連絡ください」
「分かりました」
「それでは皆様、どうぞお気をつけて」
女性はそう言うと、右手を上げた。
開いた手のひらをこちらへ向け、そのまま軽く左右に振る。
俺には、ただの別れの挨拶にしか見えなかった。
俺も何となく軽く頭を下げた。
重い扉が閉まった。
ガタン。
外から金属の擦れる音が聞こえる。
続いて、
カチャン。
という音がした。
「……え?」
俺は扉を見る。
今の音。
まさか。
佐伯が玄関の扉へ近づき、取っ手を引いた。
動かない。
「鍵、閉めたみたいですね」
「外から?」
美咲が聞いた。
「たぶん」
一瞬、誰も何も言わなかった。
しかし藤田が笑う。
「まあ、そういうツアーなんじゃないですか? 勝手に途中で帰られないように」
「何かあったら電話すればいいんだしな」
佐伯もそう言って、扉から離れた。
確かにそうだ。
緊急連絡先はある。
電話をすれば迎えに来てもらえる。
二泊三日後には、向こうから迎えに来る。
何も問題はない。
俺はそう思いながら、ポケットに入れた緊急連絡先の紙を上から押さえた。
扉の向こうで、エンジンのかかる音がした。
少しして、その音も遠ざかっていく。
やがて何も聞こえなくなった。
山奥の廃病院に、
俺たち六人だけが残された。




