第2話 来なかった男
神戸線の高野駅に着いたのは、集合時間の二十分ほど前だった。
想像していたよりも小さな駅だった。
改札口は一つしかなく、駅前にはコンビニすら見当たらない。
小さなロータリーと古びたベンチ、それから日に焼けた観光案内板があるだけだ。
「本当にここで合ってるよな……」
スマートフォンを取り出し、啓介から送られてきたメッセージを確認する。
――集合場所は、現地に一番近い神戸線の高野駅。金曜の午後一時。
間違っていない。
時計を見ると十二時四十分だった。
「悠希!」
聞き慣れた声に振り返る。
小野寺美咲が、大きめのバッグを肩から下げてこちらへ歩いてきた。
「早いな」
「悠希こそ。もっとギリギリに来ると思ってた」
「二泊三日なんだから、さすがに遅刻しないよ」
「啓介君は?」
「まだ来てない」
「珍しいね。こういうのだったら一番乗りしてそうなのに」
「確かにな」
美咲の荷物を見る。
俺より明らかに多かった。
「何持ってきたんだよ」
「着替えとタオルと食べ物。それから懐中電灯でしょ。モバイルバッテリーも二つ持ってきた」
「完全装備だな」
「だって電気ないんでしょ?」
「そうらしい」
「楽しみだなあ」
美咲は本当に嬉しそうだった。
「廃病院に二泊するのが?」
「うん」
「怖くないの?」
「怖いよ」
あっさり答えられた。
「怖いからいいんじゃない」
啓介と同じことを言っている。
俺にはいまだに理解できない。
わざわざ怖い場所へ行き、怖い思いをする。
しかも金曜から日曜まで、二泊三日だ。
幽霊を信じているわけではないが、だからといって真夜中の廃病院を歩き回りたいとは思わない。
「何も出ないと思うけどな」
「出たらどうする?」
「逃げる」
「早いよ」
「当然だろ」
「私を置いて?」
「それは……置いてかないけど」
美咲が笑った。
集合時間が近づくにつれて、駅前には何人か人が集まり始めた。
大きなリュックを背負った男。
小さなキャリーバッグを引いた女性。
若い男が一人。
そして、少し離れた場所でスマートフォンを見ている若い女性。
互いに話している様子はない。
たぶん全員、同じツアーの参加者なのだろう。
午後一時になった。
しかし、啓介は来ない。
「遅いね」
「何やってんだ、あいつ」
電話をかけてみる。
出ない。
一分ほど待って、もう一度かける。
やはり出ない。
「寝坊かな?」
「このツアーで寝坊するようなやつじゃないと思うんだけどな」
むしろ俺よりずっと楽しみにしていた。
昨日も夜遅くまで、廃病院で撮影するためのカメラを持っていくだの、録音機を持っていくだのとメッセージを送ってきていた。
その啓介が何の連絡もなく遅れている。
少し気になり始めたところで、スマートフォンが鳴った。
画面には啓介の名前が表示されている。
「おい、何やってんだよ。もう一時過ぎてるぞ」
『悪い』
いつもの声ではなかった。
「どうした?」
『親父が倒れた』
「え?」
『さっき救急車で運ばれてさ。今、母さんと病院にいる』
文句を言う気が一瞬でなくなった。
「大丈夫なのか?」
『まだ分からない。検査してるところ。悪いけど、今日は行けそうにない』
「そんなの気にするなよ。そっちにいろ」
『俺から誘ったのにな。本当に悪い』
「仕方ないだろ」
美咲が心配そうにこちらを見ている。
俺は口だけを動かして、
「啓介、来られないって」
と伝えた。
美咲が驚いた顔をする。
『美咲にも謝っといてくれ』
「分かった」
『お前らだけでも楽しんできてくれ』
「楽しめるかどうか知らないけどな」
『大丈夫だろ。ツアー会社の人もいるんだろ?』
「建物まで案内したら帰るって話だったじゃん」
『……ああ、そうだった』
「お前がいるから大丈夫って言ったの、誰だよ」
『悪かったって』
啓介が小さく笑う。
それでも声には元気がなかった。
「まあいいよ。親父さんのそばにいてやれよ」
『ありがとな。また連絡する』
「ああ」
電話を切った。
「お父さん?」
「倒れたらしい。今、病院だって」
「それじゃ来られないね」
「仕方ないな」
そう答えながら、胸の奥が少しざわついた。
正直、かなり頼りにしていた。
啓介は普段こそ適当なところがあるが、オカルトに関してだけは異常に詳しい。
廃墟へ入るときに気をつける場所や、危険そうな床の見分け方。
持っていったほうがいい道具。
何かあれば無理をせず撤退すること。
そういうことだけは、なぜか妙にしっかりしている。
俺が今回の話を最終的に断らなかった理由の一つも、啓介がいるからだった。
「どうする?」
美咲が尋ねた。
「どうするって?」
「啓介君、来られないんでしょ?」
「まあ……そうみたいだな」
「悠希、帰りたい?」
一瞬、答えに詰まった。
本音を言えば、帰りたかった。
今ならまだ間に合う。
電車に乗れば普通に家へ帰れる。
そもそも俺は、心霊スポットなんか好きじゃない。
啓介が一緒なら何か起きてもあいつに任せればいい。
そんな気持ちがあった。
その啓介がいない。
これから行くのは、人里から離れた山奥の廃病院だ。
無理をしてまで行く必要なんてない。
けれど。
美咲を見る。
さっきまで楽しそうだった顔に、少しだけ不安が混じっていた。
ここで俺まで怖がったらどうする。
彼氏なんだから、せめて美咲の前くらいでは平気な顔をしていたかった。
腹の底に残っていたわずかな勇気をかき集める。
「大丈夫だよ」
「え?」
「啓介がいなくても、俺がいるから」
言った。
言ってしまった。
自分でも驚くほど頼もしい言葉だった。
もちろん、そんな自信はどこにもない。
できることなら今すぐ啓介へもう一度電話して、
――やっぱり何とかして来てくれ。
と言いたいくらいだった。
けれど、美咲は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「うん。そうだね」
「何かあったら、すぐ会社に連絡すればいいし」
「頼りにしてるね、悠希」
「……任せとけ」
もう引き返せなくなった気がした。
そのときだった。
「宿泊型心霊ツアーへご参加の皆様でしょうか」
背後から声をかけられた。
振り向く。
一人の女性が立っていた。
六十歳を少し過ぎているだろうか。
白髪の混じった髪を後ろでまとめ、紺色のジャケットを着ている。
旅行会社の案内役というよりは、どこかの施設の職員といわれたほうが納得できそうな、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「はい」
俺が答えると、女性は丁寧に頭を下げた。
「本日は、当社の第一回宿泊型心霊ツアーへご参加いただき、誠にありがとうございます」
どうやらこの人が、今回のコンダクターらしい。
女性は駅前に集まっていた俺たちを順番に見回した。
「今回は試験的なモニターツアーとなっております。二泊三日の滞在後、簡単なレポートをご提出いただきます。皆様からいただいたご意見は、今後の企画運営の参考にさせていただきます」
話し方はしっかりしている。
少なくとも、怪しげな心霊ツアーを企画している人には見えなかった。
「なお、建物内では安全を最優先してください。危険だと感じる場所には立ち入らないようお願いいたします。緊急時の連絡方法につきましては、現地到着後に改めてご説明いたします」
それを聞いて少し安心する。
最低限、安全について考えてはいるらしい。
「それでは、皆様お揃いですので移動いたします」
「全員?」
思わず聞き返した。
女性がこちらを見る。
「はい」
「一人、来られなくなったんですけど」
「伺っております」
俺は少しだけ首を傾げた。
啓介が旅行会社にも連絡したのだろうか。
まあ、それくらいはするか。
「こちらへどうぞ」
女性について歩く。
駅の横にある小さな駐車場に、白いマイクロバスが停まっていた。
改めて周囲を見る。
俺。
美咲。
大きなリュックを背負った男。
キャリーバッグを持った女性。
若い男。
そして、もう一人の若い女性。
参加者は俺たちを含めて六人だった。
マイクロバスへ乗り込むと、出発前に簡単な自己紹介をすることになった。
「じゃあ、俺から」
妙な沈黙が続くのも嫌だったので、最初に口を開いた。
「西岡悠希です。大学生です。よろしくお願いします」
隣に座った美咲が続く。
「小野寺美咲です。私も大学生です。こういうツアーは初めてなので、すごく楽しみにしてます」
「楽しみにしてるんだ」
向かい側の男が笑った。
大きなリュックを持っていた男だ。
「佐伯直樹です。会社員です。廃墟巡りは何度かやったことがあります」
「じゃあ、こういう場所には慣れてるんですか?」
美咲が尋ねる。
「まあ、多少は。でも泊まるのは初めてですね」
次にキャリーバッグの女性が軽く頭を下げる。
「森川奈緒です。よろしくお願いします」
若い男も続いた。
「藤田翔太です。俺もこういうイベント初めてなんで、ちょっと楽しみにしてます」
最後の女性は、
「水野沙耶です。私も初めてです」
と小さく頭を下げた。
これで六人。
大学生もいれば社会人もいる。
特別変わった人物はいない。
どこにでもいそうな、ごく普通の人たちだった。
コンダクターの女性が運転席の横に立った。
「それでは、これから稲田峰望病院へ向かいます」
その名前を聞いた瞬間、美咲が俺の腕を軽くつついた。
「いよいよだね」
「まだ着いてもないだろ」
「悠希、ちょっと顔固くない?」
「気のせいだって」
「本当に?」
「本当」
そう言いながら、窓の外を見る。
マイクロバスの扉が閉まった。
ゆっくりと車が動き出す。
高野駅が後ろへ遠ざかっていった。
最初のうちは住宅や店もあった。
けれど、十分も走らないうちに建物は少なくなり、道路の両側を木々が覆い始めた。
さらに進む。
山道へ入るにつれて、すれ違う車もほとんどなくなった。
「ずいぶん奥まで行くんだな……」
思わず呟いた。
「だからいいんじゃない」
美咲は楽しそうに窓の外を眺めている。
俺はスマートフォンを取り出した。
電波はまだ入っている。
緊急連絡先も教えてもらえる。
二泊三日が終われば、このマイクロバスが迎えに来る。
何も心配することはない。
ただのモニターツアーだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は窓の外を流れていく山の景色を眺めていた。
このときの俺はまだ、
啓介が来られなくなったことを、
ただ運が悪かっただけだと思っていた。




