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稲田峰望病院――あなたには、誰が見えていますか  作者: ハイエント


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11/13

第11話 二日目の朝

 三階から二階へ戻るころには、足がかなり重くなっていた。


 怖かったから、というのもある。


 だが、それ以上に単純に疲れた。


 一階から始めて、二階、三階。


 美咲と水野さんに連れ回されるようにして、見られる場所はほとんど見てきた。


「疲れた……」


 二階へ下りたところで、思わず声が漏れた。


「悠希、まだそんなに歩いてないじゃん」


「十分歩いただろ」


「病院の中だけだよ?」


「暗いところ歩くのは普通の倍疲れるんだよ」


「何それ」


 美咲が笑う。


 水野さんも少し笑っていた。


「でも、私もちょっと疲れました」


「ほら」


「水野さんを味方につけないでよ」


「事実だろ」


 俺たちはそのまま西側の廊下を進み、食堂へ戻った。


 中には佐伯さん、森川さん、藤田がいた。


 テーブルには飲み物や菓子が置かれていて、三人ともそれぞれ休んでいたらしい。


「お、帰ってきた」


 藤田がこちらを見る。


「どうでした?」


「どうもこうもないよ」


 俺は椅子を引いて座った。


「疲れた」


「西岡君、ずっとそんな感じだったんじゃない?」


 森川さんが笑う。


「いや、本当に結構見てきたんですよ」


「一階だけじゃなかったのか?」


 佐伯さんが聞いた。


「三階まで行きました」


「全部?」


「入れるところは、ですけど」


 俺はスマートフォンを取り出した。


 メモアプリを開く。


 一階。


 二階。


 三階。


 確認した場所が、それなりの量になっていた。


「うわ、本当に書いてる」


 藤田が横から覗き込んでくる。


「西岡さん、ずっとメモしてたんですよ」


 水野さんが言った。


「こういうところ、すごく真面目で」


「真面目っていうか、あとで分からなくなるのが嫌なんですよ」


「一部屋見るたびに書いてたよね」


 美咲まで余計なことを言う。


「だから、あとで分からなくなるのが嫌なんだって」


「で?」


 佐伯さんが俺のスマートフォンを見る。


「結局、どうだった?」


 俺は画面を見ながら答えた。


「一階は、見られるところはだいたい見ました」


 受付。


 待合室。


 診察室。


 処置室。


 検査室。


 薬局跡。


 事務室。


 休憩室。


 倉庫や物置。


 細かい部屋もいくつか。


「ただ、入れない部屋もあります。ガラスが散らばってたり、棚が倒れてたり、扉が歪んでたり」


「それは無理に入らないほうがいい」


 佐伯さんがすぐに言った。


「はい。そうしてます」


 俺は少し画面をスクロールした。


「それと、出口ですけど」


 佐伯さんの表情が変わった。


「東側に職員通用口があります。でも、その手前で天井が崩れてて通れません」


「やっぱり駄目か」


「西側の非常口も、廊下の床が大きく崩れてて行けません。南側の搬入口も、防火扉の向こうが何かで塞がってました」


「つまり一階からは、正面以外まともに出られないってことか」


「そうなります」


 佐伯さんは露骨に嫌そうな顔をした。


「本当にひどいな、この会社」


「二階の非常階段も、普通に降りられる状態じゃないですし」


「ああ」


「外の踊り場からかなり崩れてます。階段も途中が壊れてました」


「素手であそこを降りるのは危なすぎるな」


「ですよね」


「東と南は最初から防火扉で通れない。使えるのはこの西側だけです」


「三階は?」


 森川さんが聞いた。


「東と西は歩けました」


 美咲が答える。


「ほとんど病室だったよ。二階みたいな一人用じゃなくて、四人部屋とか六人部屋」


「何かありました?」


 藤田が少し期待した顔で聞く。


「何かって?」


「ほら。変なものとか」


「古いベッド」


「それは普通ですね」


「車椅子」


「それも普通だなあ」


「割れた窓」


「……普通ですね」


 藤田が残念そうに言う。


「何を期待してるんだよ」


「せっかくの心霊ツアーじゃないですか。何か一個くらいあってもいいかなって」


「なくていい」


 俺が言うと、美咲が笑った。


「悠希はずっとそれ」


「何もないのが一番だろ」


「でも屋上、入れなかったね」


 水野さんが言った。


「屋上?」


 森川さんが聞き返す。


「三階の上に階段があって、屋上へ続いてました。でも扉に鍵がかかってて」


「よかったじゃん」


 俺は言った。


「何が?」


「行く場所が一個減った」


「まだ行く気だったのか、小野寺さん」


 佐伯さんが呆れたように言う。


「鍵が開いてたら、ちょっとくらい見たかったです」


「やめといたほうがいい。屋上なんて一番危ないぞ。柵が腐ってるかもしれないし、床だって分からない」


「ほら」


 俺が言う。


「佐伯さんも言ってる」


「分かったって」


 美咲は少し口を尖らせた。


 俺はスマートフォンをテーブルに置いた。


「とりあえず、見られるところはそんな感じです」


 佐伯さんが画面を見ながら腕を組む。


「一階の出口も駄目。非常階段もあの状態。屋上は鍵。正面玄関は外から施錠」


「そうですね」


「……何かあったら、本当に電話しかないな」


 その言葉で、少しだけ空気が重くなった。


 昼間なら、そこまで気にならなかったかもしれない。


 日曜には迎えが来る。


 緊急連絡先もある。


 そう思っていたからだ。


 でも実際に自分たちで建物を回ってみると、改めて分かる。


 ここから自力で外へ出る方法は、ほとんどない。


「まあ」


 藤田が明るい声を出した。


「何かあったら電話すればいいじゃないですか」


「それはそうだけどな」


 佐伯さんが答える。


「電波もあるし」


 藤田はスマートフォンを見た。


「ほら。普通につながってますよ」


「緊急連絡先も二十四時間だったよね」


 美咲が言う。


「そう説明されてた」


「じゃあ大丈夫じゃん」


 美咲が俺を見る。


「ね?」


「俺に聞くなよ」


「いつも大丈夫って言ってるから」


「……まあ、大丈夫だろ」


「ほら」


「その言葉、便利に使うな」


 また少し笑いが起きた。


 そのくらいの空気が、ちょうどよかった。


 あのコンダクターのことも。


 ゼロから五までに見える数字のことも。


 建物から簡単には出られないことも。


 一つ一つ考えれば気味が悪い。


 でも、六人で明るい話をしている間は、まだ普通の旅行の延長みたいに思えた。


     *


 夕食は食堂で取った。


 イベント会社が用意していた保存食や栄養補助食品、ゼリー飲料。


 それに、それぞれが持ってきた菓子や飲み物。


 棚にはカップ麺も置かれていた。


 ただ、電気は通っていない。


 湯を沸かすなら、誰かが持ってきた携帯用のガスコンロを使うしかなかった。


「二泊三日でこれって、結構あるよな」


 藤田が棚を見ながら言う。


「余るんじゃないですか?」


「そのくらいでいいんじゃない?」


 森川さんが答える。


「足りないよりは」


「水もありますしね」


 水野さんが言う。


「洗面所の水も出るし」


「飲むなら持ってきた水のほうがいいと思うけどな」


 佐伯さんが言った。


「古い建物の水道なんて、配管どうなってるか分からないぞ」


「やっぱり?」


 美咲が持参したペットボトルを見る。


「じゃあ大事に飲まなきゃ」


「二日なら十分だろ」


 俺はそう言った。


 結局、その日はすぐに食べられるものを適当に選んだ。


 栄養補助食品。


 パン。


 ゼリー飲料。


 それぞれが持ってきた菓子。


 豪華とは言えないが、一晩過ごすだけなら困るほどでもない。


 その夜は、特に何も起きなかった。


 少なくとも。


 俺が自分の部屋へ戻り、眠りにつくまでは。


     *


 翌朝。


 目を覚ましたとき、最初に何時なのか分からなかった。


 カーテンを閉めているせいで、部屋の中は薄暗い。


 スマートフォンを見る。


 午前八時十二分。


「……寝たな」


 体を起こす。


 思っていた以上に疲れていたらしい。


 廃病院のベッドなのに、意外とよく眠れた。


 顔を洗い、着替えてから部屋を出る。


 隣の美咲の部屋を軽く叩いた。


「美咲?」


「起きてるー」


 すぐに返事があった。


「食堂行くけど」


「私も行く」


 少し待つと、美咲が部屋から出てきた。


「おはよう」


「おはよう」


「眠れた?」


「思ったより」


「私も。もっと何か出るかと思ってた」


「朝一番にそれ言う?」


「何もなかったんだからいいじゃん」


 並んで食堂へ向かう。


 中にはすでに佐伯さんと森川さんがいた。


「おはようございます」


「おはよう」


 森川さんが笑う。


 昨日よりずっと落ち着いた顔をしている。


「水野さんは?」


「まだみたい」


 俺たちが席についた少し後、水野さんもやってきた。


「おはようございます」


「おはよう」


「よく眠れました?」


 美咲が聞く。


「途中で一回起きましたけど、結構寝られました」


「私も」


 それぞれが適当に朝食を選び始める。


 俺も保存食と飲み物を取った。


 人数分の椅子。


 テーブル。


 昨日と同じ食堂。


 特に変わったところはない。


 俺は椅子に座りながら、何となく周囲を見た。


 佐伯さん。


 森川さん。


 水野さん。


 美咲。


 俺。


 そこで、ふと気づいた。


「……あれ?」


「何?」


 美咲が俺を見る。


 俺はもう一度、食堂の入口へ目を向けた。


 誰も来ない。


「藤田さん、まだ来てないんだ」

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