第五話 人形の恋
サビ猫の昼寝亭を拠点にしてから、一週間ほどが経った。
俺たちは、その間に近隣の町をいくつか見て回った。
特に目的はない。
「せっかく異世界に来たんだから、見られるところは見ておこう。」
それだけだった。
サビ猫の昼寝亭に戻れば、女将が飯を出してくれる。
ソプラノは暇な時間に料理を教わっている。
そして、あの卵は――
「まだ孵らないな。」
「うん。」
ソプラノが卵を抱えている。
今日は俺ではなく、彼女が持つことになった。
「重くないか?」
「大丈夫。」
「落とすなよ。」
「落とさない。」
「絶対だぞ。」
「しつこい。」
最近、ソプラノは少し口が悪くなってきた。
悪いことではない。
むしろ、少しずつ普通の子供らしくなっている気がした。
俺たちは街道を歩き、隣町へ向かった。
昼過ぎ。
町が見えてきた。
城壁は低く、門も開け放たれている。
商人や旅人が行き交っていた。
「結構大きいな。」
「何があるのかな?」
「知らない。」
「……また?」
「行ってみれば分かる。」
俺たちは町へ入った。
広場には露店が並び、果物やパン、衣服などが売られている。
ソプラノは目を輝かせている。
「お兄さん。」
「なんだ?」
「あれ。」
指差した先には、焼き菓子。
「買う?」
「……うん。」
「一個だけな。」
「二個。」
「一個。」
「一個半。」
「そんな注文できるか。」
結局、二個買った。
ソプラノは満足そうに一つを食べている。
「甘い。」
「そうだな。」
平和だった。
異世界に来てから、こんな時間は初めてかもしれない。
しばらく町を歩いていると、広場の隅で人だかりができているのが見えた。
「何だろう?」
ソプラノが近付く。
俺も後を追った。
人だかりの中心には――
一体の人形がいた。
古びたドレス。
長い金色の髪。
人間の女性を模した、美しい人形だった。
だが。
その人形は――
動いていた。
ゆっくりと歩き。
広場の中央にある噴水の前で立ち止まる。
そして、誰もいない場所を見つめていた。
「……あれ、人形?」
「うん。」
「動いてるな。」
「うん。」
「魔法か?」
「たぶん。」
町の人々は慣れているようだった。
誰も近付こうとはしない。
やがて人形は、静かに噴水の縁へ腰掛けた。
誰かを待つように。
「毎日ああなんだよ。」
隣にいた老人が教えてくれた。
「毎日?」
「ああ。」
「何をしてるんです?」
老人は少し困ったように笑った。
「待ってるんだよ。」
「誰を?」
「……愛した男を。」
老人はそれ以上何も言わなかった。
俺は人形を見る。
人形は微動だにせず、噴水の向こうを見つめている。
「……ちょっと聞いてくる。」
「え?」
ソプラノが驚く。
俺は人形の前まで歩いた。
「誰を待ってる?」
人形の首がゆっくり動いた。
青い瞳が俺を見る。
「……彼を。」
「彼って?」
「私の愛した人。」
「どこにいる?」
人形は答えなかった。
ただ、微笑んだ。
「もうすぐ帰ってくるわ。」
「そうか。」
「ええ。」
俺はそれ以上聞かなかった。
戻ってくる。
その言葉が、妙に引っ掛かった。
その夜。
俺たちは町の宿に泊まった。
食事をしていると、宿の主人が話しかけてきた。
「昼間、人形に話しかけていたね。」
「ああ。」
「珍しいな。」
「何か知ってるのか?」
主人は少し考えた。
「この町では有名な話だよ。」
そして語り始めた。
昔、この町に一人の人間の女性がいた。
彼女はエルフの男を愛した。
二人は長い間、一緒に暮らしていた。
しかし――
人間とエルフでは寿命が違う。
やがて彼女は老いていく。
一方、エルフの男はほとんど歳を取らない。
それを見た彼女は、恐れた。
「どうしたら、彼の長い人生に寄り添えるのだろう。」
彼女は考えた。
考えて。
考えて。
そして――
人間であることをやめた。
魔法と錬金術を使い、自分そっくりの自動人形を作った。
そして自らの魂を、その身体に定着させた。
「……成功したのか?」
俺が聞く。
主人は頷いた。
「成功した。」
「じゃあ、二人はずっと一緒に?」
「……そうなるはずだった。」
主人は少し黙った。
「だが、先に死んだのはエルフの方だった。」
ソプラノが顔を上げた。
「……エルフなのに?」
「そうだ。」
「どうして?」
「病だったとも聞いている。詳しいことは誰も知らない。」
人形になった女性は、それを受け入れられなかった。
彼は旅に出た。
きっと帰ってくる。
そう信じた。
だから毎日、噴水の前で待った。
十年。
二十年。
五十年。
そして――
百年。
「百年……。」
ソプラノが呟く。
「人形だからな。」
主人が答える。
「彼女には時間というものが、ほとんど意味を持たなかった。」
「じゃあ、今も……?」
「ああ。」
主人は静かに頷いた。
「待っている。」
その夜。
俺は眠れなかった。
窓から月を見る。
人間が人間であることを捨ててまで愛した相手。
それなのに。
結局、一人になった。
「……皮肉だな。」
隣のベッドではソプラノが眠っている。
その時。
コン。
小さな音がした。
卵だ。
俺は振り返った。
「……お前も寝ろ。」
返事はない。
翌朝。
俺たちはもう一度、噴水へ向かった。
人形は今日もそこにいた。
「彼は来るわ。」
「……そうか。」
「約束したもの。」
俺はしばらく黙っていた。
そして聞いた。
「その人は、最後に何て言った?」
人形の表情が止まる。
「……。」
「覚えてるか?」
「もちろん。」
「何て?」
人形は胸に手を当てた。
「また、帰ってくる。」
「そうか。」
「だから待つの。」
俺は答えられなかった。
その時だった。
ソプラノが、人形の前に立った。
「ねえ。」
「何?」
「その人のこと、好きだった?」
人形は笑った。
「ええ。」
「今も?」
「ええ。」
「じゃあ……。」
ソプラノは少し考えた。
「歌ってもいい?」
「歌?」
ソプラノは頷いた。
「なんとなく。」
俺は首を傾げる。
「何の歌だ?」
「分からない。」
「分からない?」
「でも、歌わなきゃいけない気がする。」
ソプラノは目を閉じた。
そして歌い始めた。
静かな歌だった。
言葉は知らない。
聞いたことのない旋律。
けれど、不思議と胸に染み込んでくる。
町の喧騒が遠ざかっていく。
人形が動きを止める。
青い瞳から、一筋の光が流れた。
「……ああ。」
人形が呟く。
「この歌……。」
ソプラノは歌い続ける。
人形の身体から、淡い光が溢れ始める。
「彼が……。」
人形が空を見上げる。
「帰ってきた。」
誰もいない噴水の向こう。
そこに、誰かがいるように。
「ずっと……待っていたの。」
声が震える。
「でも……もう、いいのね。」
ソプラノの歌が終わる。
静寂。
人形の身体にひびが入った。
「ありがとう。」
人形が笑った。
「やっと……会える。」
その身体が、光の粒になっていく。
崩れることもなく。
苦しむこともなく。
ただ、静かに。
消えていった。
噴水の前には、小さな金属の欠片だけが残った。
ソプラノが目を開く。
「……終わった?」
「ああ。」
「何だったんだろう。」
「さあな。」
俺にも分からない。
ただ――
あの人形が最後に見せた笑顔だけは、覚えている。
ソプラノは卵を抱え直した。
その瞬間。
卵の表面に、ほんの一瞬だけ光が走った。
「……また光った。」
「今度は俺も見た。」
二人で卵を見る。
何も起こらない。
「いつになったら孵るんだろうね。」
「さあな。」
「名前、考えておいた方がいいかな。」
「まだ早いだろ。」
「でも、名前がないと困るよ。」
「……お前、気が早いな。」
ソプラノが笑う。
俺たちは町を出る。
背中には、まだ孵らない卵。
隣には、記憶を失った少女。
そして俺には――
帰る場所はない。
けれど。
旅の途中で立ち寄れる場所なら、少しずつ増えてきた。
それでいい。
今は、それで十分だった。




