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万器一身 〜無名の武術家、異世界を往く〜  作者: タダ ユキ


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第三話 記憶を失くした少女

研究所を出てから、二日。


俺は街道を歩いていた。


背中には旅袋。


その中には食料と水。


そして――


「……重い。」


袋から少しだけ顔を出している白い卵。


「お前なぁ。」


卵に話しかけても、当然返事はない。


ただ、時々。


コツ。


と、内側から音がする。


「生きてるんだよな?」


返事はない。


「まあ、死んでたら動かないか。」


そう呟いて、また歩く。


目的地は決めていない。


とりあえず隣国を目指しているだけだ。


勇者になれなかった。


国から追い出された。


魔王を倒す理由もない。


ならば、しばらくこの世界を見て回ればいい。


そんな程度の考えだった。


「……平和だな。」


そう思った直後だった。


森の奥から悲鳴が聞こえた。


「――助けて!」


足が止まる。


「……。」


関わらない。


そう決めて、そのまま歩こうとする。


だが。


もう一度。


「誰かぁ!」


聞こえた。


俺は空を見上げる。


「……じいちゃん。」


返事はない。


当たり前だ。


「余計なことに首を突っ込むなって言ってたよな。」


少し考える。


「……でも、見ちまったもんな。」


ため息。


俺は森へ入った。


しばらく進むと、開けた場所に出た。


そこには少女がいた。


十歳くらいだろうか。


薄汚れた白い服。


長い白色の髪。


紅い瞳。


その少女を囲むように、三人の男が立っている。


「大人しくしろ!」


「ガキ一人なら高く売れる!」


「妙な服着てやがる。どっかの金持ちの娘だろ!」


少女は怯えている。


手には何もない。


逃げ道もない。


「……三人か。」


俺は木の陰から眺める。


男の一人が少女へ手を伸ばした。


その瞬間。


「その子から離れろ。」


三人が振り返る。


「なんだ、お前?」


「一人で何しに来やがった?」


「旅人か? 荷物置いて失せろ。」


俺は背中の旅袋を下ろす。


「それは困る。」


短剣を抜く。


先日の暗殺者から奪ったものだ。


男たちが笑う。


「そんな短剣一本で俺たちとやる気か?」


「一本あれば十分だろ。」


一人が斧を振り上げる。


大振り。


俺は踏み込む。


斧の軌道から身体を外し、柄に手を添える。


勢いを殺さず、そのまま相手の体勢を崩す。


男が地面へ転がる。


「なっ――」


二人目が剣を抜く。


速い。


だが、速いだけだ。


刃をかわし、手首を取る。


身体を寄せる。


男の肘が伸び切る。


「痛っ!」


短剣を喉元へ突き付ける。


「次は刺す。」


男が青ざめる。


最後の一人が逃げようとした。


「おい。」


振り向く。


男は止まった。


「……逃げていいのか?」


男は一瞬迷った。


そして走った。


「そうか。」


追わなかった。


少女の方を見る。


「怪我は?」


少女は首を横に振った。


「……大丈夫。」


声が小さい。


「家は?」


少女は黙る。


「家族は?」


また黙る。


「名前は?」


少女が俯く。


「……分からない。」


「分からない?」


少女は自分の胸元を握った。


「何も……思い出せないの。」


俺は黙った。


服は汚れている。


身体には小さな傷。


だが、大きな怪我はなさそうだ。


「いつから?」


「……分からない。」


「ここに来る前は?」


「……分からない。」


「親は?」


「……分からない。」


全部分からない。


困った。


俺には子供の扱い方なんて分からない。


祖父ならどうするだろう。


そう考えたところで、ふと思い出す。


昔、祖父が言っていた。


『腹が減ってる奴に難しい話をするな。』


「……腹、減ってるか?」


少女が少しだけ顔を上げる。


小さく頷いた。


俺は旅袋から干し肉を取り出した。


「食べるか?」


少女は恐る恐る受け取る。


一口。


そしてもう一口。


よほど腹が減っていたのだろう。


夢中になって食べ始めた。


「……ゆっくり食え。」


少女が顔を上げる。


「お兄さんは……食べないの?」


「俺は大丈夫。」


本当は腹が減っている。


だが、この年頃の子供に食わせないほど困ってはいない。


少女はしばらく干し肉を見つめた。


「……ありがとう。」


「どういたしまして。」


妙な気分だった。


異世界に来てから、誰かに礼を言われたのは初めてかもしれない。


食事が終わる。


少女は少しだけ表情が和らいだ。


「これからどうする?」


「……分からない。」


「だよな。」


俺も分からない。


二人して黙る。


やがて少女が尋ねた。


「お兄さんは?」


「俺?」


「名前。」


「ああ。」


自分の名前を名乗る。


少女は小さく頷いた。


「……私は。」


そこで少女の表情が変わった。


眉間に皺を寄せる。


何かを思い出そうとしている。


「……ソプラノ。」


「ん?」


「ソプラノ……。」


少女は自分の胸に手を当てる。


「たぶん……私の名前。」


「ソプラノ。」


口にしてみる。


「変わった名前だな。」


少女は少しだけ笑った。


「……そう?」


「ああ。」


しばらく沈黙。


俺は森の向こうを見る。


日が傾き始めている。


「行くところはあるか?」


少女は首を横に振る。


「そうか。」


俺は立ち上がった。


旅袋を背負う。


そして歩き出す。


数歩進んで、後ろを見る。


少女はその場に立ったままだった。


「……来ないのか?」


少女が驚いた顔をする。


「一緒に……行っていいの?」


「行くところないんだろ?」


少女は頷いた。


「なら来ればいい。」


「……いいの?」


「嫌なら置いていくけど。」


「行く!」


即答だった。


俺は少し笑った。


「じゃあ、決まりだ。」


少女が駆けてくる。


俺の横に並ぶ。


「ねえ。」


「なんだ?」


「どこへ行くの?」


「決めてない。」


「……。」


「とりあえず隣の国。」


「そのあとは?」


「知らん。」


少女が少し考える。


「変なの。」


「よく言われる。」


二人で歩き始める。


しばらくすると、背中の旅袋から音がした。


コツ。


少女が振り返る。


「今の音、なに?」


俺も振り返る。


「……卵。」


「卵?」


「研究所で拾った。」


「何の卵?」


「知らん。」


「……。」


「俺も知りたい。」


少女は旅袋から覗く白い卵を見つめる。


そして――


そっと手を伸ばした。


指先が卵に触れる。


瞬間。


淡い光が走った。


「……え?」


俺は足を止める。


少女も驚いて手を引っ込めた。


卵は何事もなかったように静かになった。


「今、光ったよな?」


「……うん。」


二人で卵を見る。


「何なんだ、これ。」


答えはない。


ただ、少女だけが。


胸の奥に、何か温かいものを感じていた。


それが何なのか。


彼女自身にも分からない。


遠い記憶の中で――


誰かが歌っている。


聞いたことのない旋律。


そして、誰かの声。


『――ソプラノ。』


少女は胸元を押さえた。


「……今、誰かが呼んだ。」


「誰が?」


「……分からない。」


少女は空を見上げた。


夕暮れの空に、一番星が浮かんでいる。


その頃。


遠く離れた王都では、一枚の紙が掲示板に貼られていた。


――聖女ソプラノ、行方不明。


捜索隊を派遣せよ。


そしてその紙には、小さくこう記されていた。


「発見した者は、決して本人に知らせることなく、直ちに神殿へ連絡せよ。」


まだ二人は知らない。


自分たちが拾ったものが何なのか。


そして、自分たちがこれから何に巻き込まれていくのかを。

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