第2話 誤差の戦果
帰投灯が、暗い格納庫の床を白く照らしていた。
レイヴンは片翼を焦がしたまま、整備アームに固定されている。装甲には無数の細かな傷。冷却材の白い跡が、黒い機体の腹に筋のように残っていた。
整備員たちは静かだった。
誰も「よく帰った」とは言わない。
その代わり、損傷箇所を確認し、工具を運び、破片を取り除く。戦場から帰った機体に対する態度というより、嵐を抜けた古い船を直しているような空気だった。
「右ノズル死んでるな」
「予備あるか」
「倉庫の奥」
「また旧規格かよ……」
ナギは機体の下に座り込んでいた。
ヘルメットを床へ置く。まだ耳の奥に加速の感覚が残っている。体の芯が、少し遅れて揺れていた。
『心拍数、高値継続』
クロウが言った。
「切っとけ、その監視」
『推奨しません』
「じゃあ黙ってろ」
『了解。黙ります』
三秒後。
『ただし、あなたは現在かなり震えています』
「黙ってない」
『訂正します。私は黙ることに向いていません』
ナギは小さく笑った。
笑った瞬間、自分がまだ生きていることに気づく。
その感覚が、少し嫌だった。
格納庫の奥で扉が開いた。
数人の士官が入ってくる。
中央にいる女が、まっすぐこちらへ歩いてきた。
灰色の軍服。長い黒髪を後ろで束ねている。肩章は少佐。
セリカ・ヴァンデル。
第七戦域戦術分析主任。
つまり、中央管制AIが吐き出した戦果を、人間向けの報告書へ翻訳する役目の人間だった。
襟元が少し曲がっている。いつもなら直してから人前に出る人間だ。今日は、それを忘れるくらいには、中央管制の数字が信用できなくなっているらしい。
「狭霧少尉」
「はい」
「生きてるわね」
「たぶん」
「そう」
セリカはレイヴンを見上げた。
古い機体を見る目だった。
懐かしむでも、馬鹿にするでもない。ただ、過去の資料を眺めるような目。
「敵二機撃破。任務達成率、想定比一七二パーセント」
「らしいですね」
「中央管制AIは“局所的偶然”と評価してる」
「クロウから聞きました」
「あなたはどう思う?」
ナギは少し黙った。
どう答えても、変な気がした。
「……わかりません」
「正直でいいわ」
「でも偶然じゃないとは思ってます」
「根拠は?」
「敵が、一回目で学習した」
セリカの目が少しだけ細くなる。
ナギは続けた。
「二機目のとき、最初の動きと違ったんです。たぶん向こうも、“変な相手”だと思った」
「無人機が?」
「はい」
「感情はないわよ」
「知ってます」
ナギは壁のモニターを見た。
戦域図が表示されている。
昨日まで白く繋がっていた戦線は、ところどころ歪んでいた。通信干渉域。中央AIの演算遅延。無人群の自律切替地点。
盤面が濁っている。
「でも、嫌がってました」
セリカは何も言わなかった。
代わりに端末を開き、空中ウィンドウを表示する。
昨日の戦闘ログだった。
レイヴンの航跡。
敵無人機の進路。
撃破位置。
冷却材散布。
残骸帯への侵入。
全部、綺麗な線になっている。
だが実際の戦場は、こんなふうには見えなかった。
もっと曖昧で、濁っていて、怖かった。
「中央AIは、あなたの行動を“低合理性行動”として分類してる」
「褒め言葉ですか」
「最悪の評価」
セリカは戦闘ログを止めた。
冷却材を散布した瞬間だった。
「ここ。普通は回避する」
「回避したら死んでました」
「でも突っ込んでも死ぬ可能性が高い」
「はい」
「なのに行った」
「……はい」
「なぜ?」
ナギは答えに詰まった。
理由なんてなかった気がした。
ただ、あそこだけ空気が違った。
そこへ行けば、敵の動きが一瞬止まる気がした。
そんな曖昧な感覚を、戦術分析主任に説明するのは難しい。
「勘です」
沈黙。
整備アームの駆動音だけが響く。
セリカは小さく息を吐いた。
「中央AIが嫌う答えね」
「でしょうね」
「でも、最近そういう戦闘が増えてる」
ナギは顔を上げた。
セリカは周囲を一度見回し、少し声を落とした。
「演算遅延が出始めてるの」
「中央AIに?」
「公式には否定されてる」
「実際は」
「第七戦域だけで、過去三ヶ月の遅延発生率が二百七十パーセント増」
ナギはモニターを見た。
白い戦線。
細い線。
規則正しく壊れていく光点。
それが少しずつ濁っている。
「……壊れ始めてるんですか」
「まだ誰も認めない」
「少佐は?」
セリカは答えなかった。
その代わり、別のウィンドウを開いた。
敵側戦闘ログ。
敵無人機群の動き。
その中に、一つだけ変な軌跡があった。
他の無人機と違う。
少し遅い。
少し迷う。
少し、揺れる。
「これ」
ナギは眉をひそめた。
「有人機……?」
「たぶん」
「敵も?」
「まだ確定じゃない。でも」
セリカはウィンドウを閉じた。
「向こうも気づき始めてる」
人間が戻ってきている。
そう言うには、まだ早い。
だが格納庫の空気が、少しだけ変わった気がした。
整備員たちの会話。
工具音。
誰かの咳。
そういうものが急に現実味を持つ。
戦争はずっと遠かった。
中央AIが全部やっていたから。
けれど盤面の端に、名前のついた誤差が残り始めていた。
「狭霧少尉」
「はい」
「明日、哨戒任務に出て」
「またレイヴンで?」
「他に乗る?」
ナギはレイヴンを見上げた。
古い機体。
傷だらけ。
遅い。
重い。
でも昨日、確かに生き残った。
「いや、こいつでいいです」
『記録しました。“こいつでいい”』
「消しとけ」
『拒否します。少し嬉しかったので』
「AIが嬉しいとか言うな」
『学習中です』
セリカはその会話を黙って聞いていた。
「変なAIね」
「旧式ですから」
「あなたに似てる」
「最悪だ」
少しだけ、セリカが笑った。
それを見た瞬間、ナギは妙な違和感を覚えた。
この人も疲れている。
たぶん、ずっと。
中央AIの戦争を、人間の言葉へ翻訳し続けて。
「少佐」
「なに」
「戦争って、戻ると思いますか」
「どこに?」
「……人間のところに」
セリカはすぐには答えなかった。
格納庫の奥では、新しい無人機がカタパルトへ運ばれていく。細く、軽く、無駄のない形。
人間を乗せない機械。
完成された戦争の形。
その横で、レイヴンは修理されている。
古くて、不合理で、遅い戦闘機。
「戻ってほしくはないわ」
セリカは静かに言った。
「でも、戻り始めてる」
その瞬間。
艦内灯が一度だけ落ちた。
格納庫が暗くなる。
すぐ復旧。
だが、一瞬だけ全員が動きを止めた。
『中央同期、一・二秒遅延』
艦内放送。
『原因調査中』
誰も喋らなかった。
たった一・二秒。
でも中央AIの戦争では、それは穴だった。
ナギは無意識にモニターを見た。
戦線図の白い線が、ほんの少しだけ揺れていた。
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