第十四話 =ツムグ=
時間はあっという間に過ぎていく。と言うのは虚実であり実際は感じる側、つまり人間の精神状態によってそう錯覚してしまうだけだ。
一秒が十秒になる事もないし、十秒が一秒になる事も無い。世界のリズムは乱れる事は無く、人間が感情によって錯覚を生み出しているに過ぎない。
だが、そんな理屈は今はどうでも良い。とにかく、雪菜にとって「あの事件」から今日までの数日は、それほど早く感じられた、というだけだ。
優次郎との一件があってから、雪菜は数日を綾瀬川宅で過ごし、あれよあれよと言う間に科学都市での住居、転校先の学校まで決定して、本日日曜日、正式にこの町を去る事となった。
「学院長、会長さん、瞳先輩…………本当に、今までお世話になりました」
綾瀬川家玄関で、雪菜はその場にいる三人に感謝を告げ、頭を下げた。
それに対し、叶が優しい笑みを浮かべて答える。
「当然の事よ。こんな事になるなんて、思ってもみなかったから…………私の監督不行き届きもあったし、申し訳なかったわ」
言うと、叶は深々と頭を下げる。
普段の雪菜ならば、ここで慌てて頭を上げる様に促すであろうが、今はただ乾いた笑みを浮かべているだけだった。まだ、彼女の心は癒えていないのだろう。
当然と言えば当然なのだが、たった数日で彼女の傷が癒えるわけがない。
「雪菜さん……すぐには無理だという事は承知で言うけれど、科学都市に行っても元気でね。向こうにも、アナタの味方になってくれる人は必ずいるわ。もし居なかったとしても、いつでも私に連絡していいんだからね?」
「瞳先輩……ありがとうございます」
最後まで。自分が魔術師では無くなった今でも、瞳は自分の身を案じ、大切に思ってくれている。それをひしひしと感じ取った雪菜は、涙が流れそうになったのをこらえる様にお辞儀をした。
そして、その隣。向かって左端に立っている生徒会長の顔を見据える。いつも朗らかな彼女だが、今は憂い顔を隠さずに俯いている。
大橋芽衣。この人にも、本当にお世話になった。
「会長さん……本当にありがとうございました」
「え? あ、うん…………」
急に名を呼ばれ、ハッとした様子で顔を上げた芽衣は、珍しく不器用な笑顔を浮かべる。
その後もう一度顔を伏せ、しばらくして何かを決意したように顔を上げた。
「ねぇ、雪菜ちゃん」
「? はい、何ですか?」
雪菜が答えれば、芽衣は目を泳がせる。先ほど見えていた決意は、徐々に薄れている様に見受けられた。
「く………………」
「え?」
芽衣が何を言いたいのか分からず、雪菜は思わず首を傾げた。
すると、芽衣は軽く頭を振り、苦しい笑みを浮かべる。
「ごめん、やっぱ何でもない!
えっと、これから辛い事も多いと思うけど、頑張ってね!」
「? はい、ありがとうございます」
らしくない態度に心を突かれながらも、雪菜はぺこりと頭を下げた。
その時、ブロロ……と聞きなれない音が耳に届く。振り返れば、そこにあったのは科学の時代の代表的物質の一つである『車』だった。
叶が直々に科学都市へと赴き、責任者に頭を下げて手配してもらったものだ。当然、叶がそんな経緯を人に伝えるわけが無く、転校先からのご厚意となってはいるが。
いずれにせよ、今の雪菜にそんな事はどうでも良い。目の前にある、科学時代の代物をみれば、再び実感も沸いて来る。
あぁ、自分はこれから科学都市に行くんだ。もう、魔術師にはなれないんだ、と。
溢れだしそうな涙をぐっと堪え、雪菜は再び3人に目を向けた。
「では、これで……本当にお世話になりました」
もう一度、深々と頭を下げる。三者三様に表情を動かすのが分かった。
本当に、この人たちには世話になった。優次郎の事で落ち込んでいた自分を優しく包んでくれた叶、自分を護り、最初で最後の夢を叶えてくれた瞳。自分の負の感情を疎ましく思っていた自分に、感情の大切さを教えてくれた芽衣。この世界が歩んできた時間の中での、ほんの一瞬の出来事だったが、それでも雪菜にはかけがえのない大切な時間だった。それが、堰を切って自分へと流れ込んでくる。
あぁ、ダメだ。三人の顔を、もう見れそうにない。
もう一度見てしまえば、間違いなく自分は泣いてしまう。
もう、自分は魔術の人間では無いのだ。自分が泣けば、目の前にいる恩人の三人にいらぬ心配と精神的不安を与えてしまう。それは、絶対にダメだ。
気が付けば、雪菜は顔を上げると同時に、迎えの車へと歩み寄ってきた。
タイムマシンにでも乗り込む様な気分だ。字面だけみればワクワクするが、今はどうもそんな気にはなれない。
機械的にトランクへと手荷物を乗せ、そのまま運転手に一礼し、車の中に乗り込む。
乗り込んだ後も、三人の方は視ない様にした。そのため、綾瀬川家とは反対方向の窓側へと座り、そちら側をじっと眺める。
そして―――――――瞠目する。
カタカタと体が震えるのが分かる。それが怒りなのか、怯えなのか。それは分からない。
雪菜の見開かれた瞳には、綾瀬川家の向かいに立つ校舎の屋上からこちらを見下ろす、悪魔の微笑みが、後者が見えなくあった後も、鮮明に焼き付いていた。
雪菜を乗せた車が見えなくなった後も、優次郎はその場所をしばらく見つめたままだった。
その薄い笑みの中に、何が見えているのだろう。
雪菜の行く末なのか。雪菜への負い目なのか。それとももっと別の事象なのか。
その答えを知る術は、優次郎以外の者には持ち合わされていない。
「…………桜も、もう枯れちゃったなぁ」
花びらが散って一ヶ月ほど経つと言うのに、優次郎はそんな事を口にする。どうやら、既に視線は校庭の桜の木へと移っていた様だった。
そして、そんな季節外れな独り言の後、優次郎は身体を反転させ、フェンスに腰掛ける。そのまま右手でカッターシャツの内ポケットに入っているモノを取り出した。
それは、便箋。宛名は、書かれていない。
さらさらと、少し強めに吹いた風が優次郎の身体をすり抜けていく。
そして、同時に。
彼の手に持たれていた便箋は、まるで風に切り刻まれていくかの様に、その姿を消した。
「渡さなくて良かったりしちゃったの? ミナセ君」
その時だ。優次郎にとって聞きなじみのある声が届いたのは。
「やぁ、玲央先輩」
問いには返さず、いつも通りの笑みを浮かべてそう言う優次郎に、玲央もまた、返答を期待していなかったかの様に笑みを浮かべた。
「行っちゃったみたいだね、ツキシロちゃん」
「えぇ、今しがた」
「やっぱり寂しかったりしちゃってる?」
「んー……ちょっとだけ」
苦笑を浮かべる優次郎の隣、フェンスに上体を預ける玲央。
「よく言うね、自分でやっちゃったりしちゃった事なのに」
「あれ、玲央先輩は知ってるんですか?」
「まぁね。学院長から直々に聞いちゃったりしちゃったし。僕以外にはシーナちゃんと、後は福原先生くらいかな?」
玲央の言葉に、そうですかと短く答える。
「……何も聞かないんですか?」
「聞いたら答えてくれるのかい?」
「うーん……ダメかな?」
いたずらっ子の様な笑顔を咲かせる優次郎に、玲央は微笑んだ。
「さっきシーナちゃんにも会っちゃったりしたんだけどさ、あの子も言ってたよ。『水瀬の狂った行動は、今に始まった事じゃない』だってさ」
「あはは! しーちゃんは辛辣だな」
「そうだね」
「まぁ、正当な評価でもあると思うけど」
「……そうだね」
ちらりと優次郎を見れば、彼は相変わらず笑顔だった。
この子は、本当によく笑う。喜怒哀楽などと言う言葉があるが、彼はその中の喜と楽が大半を占め、他の2つは『その他』と言った扱いなのだろう。
一体いつからこうなのだろうかと、玲央は1人思う。
自分が知り合った当初は、まだ喜怒哀楽の比率はおおむね平等だった筈だ。
何が、今の彼を笑わせているのだろうか。
それは玲央に――――――否、優次郎以外の人間にとって、霧を掴む様な話だ。それを分かった上で、玲央はその答えを知りたがっている。
何故? 答えは分からない。
後輩だからなのか。同業だからなのか。一魔術師としての興味本位なのか。
それもまた、水瀬優次郎と言う深い霧に包まれている。
「……まぁ、キミが何故ツキシロちゃんから魔術を奪い取ったのかは分からないけど、キミの事だ。何か理由があるんだろうけど、今は聞かないであげちゃったりしようかな」
「そうしてもらえると有り難いです。この判断が吉と出るか凶と出るかは、ボクにもまだ分からないですから」
「そっか……」
そう言うと、玲央は体を起こし、出口へとそれを向けた。
「もう行っちゃうんですか?」
「保健医にも、色々仕事があったりしちゃうからね…………あぁ、そうだった」
思い出したように言うと、玲央は身体を反転させ、優次郎と向き合う。
「最後にさ、これだけは聞きたかったりしちゃんだけど」
「? 何ですか?」
キョトンとした顔で、優次郎は首を傾げる。
一拍おいて、玲央は告げる。
「キミにとって――――――ツキシロちゃんはどういう存在?」
優次郎の表情が、消えた。ただただ、魂が抜けた様な目を玲央へと向ける。
そう言えば、あの時の彼もこんな目をしてたな。
玲央がそんな事を考えていると、
「雪菜ちゃんはとっても危険で、それでいて真っ白で、透き通って、純白で――――――――――大切な人、ですかね」
大切な人。
それは、自分にとってかけがえのない存在に対して使う言葉だ。
優次郎は今、こういったのだ。自ら魔力を奪い、魔術の世界から追放した雪菜が、自分にとってかけがえの無い存在である、と。
しばし、玲央は無言で彼の顔を見つめる。そこには、先ほどまでの冷たい悪魔はいない。とても幼く、それでいて綺麗な、美しい笑みがあった。
ふぅ、と息を吐き、玲央は身体を背ける。
「そっか。答えてくれてありがとう、またね」
去りゆく玲央の背中を、扉が閉まるまで見つめていた。
そしてガチャンと音を鳴らせば、それが合図であったかのように、優次郎は空を見る。
昨日と今日の激動など知らぬ顔で、空は青々と晴れ渡っていた。
空はいつだってこうだ。こちらの事など気にせず、自分の思い思いの表情を浮かべる気分屋だ。
まぁ――――――それは自分も同じなのだろうが。
「それにしても、玲央先輩も人が悪いなぁ……雪菜ちゃんの顔を見れば、魔力の枯渇に気づいただろうに。そして、その犯人がボクだって事も」
優次郎は思う。
玲央ほどの魔術の使い手だ。医務室に運ばれた雪菜を見れば、傷の度合いも、魔力の枯渇も、そしてその原因も、全て把握できていたはずだ。
黒岩玲央が天才的な治癒魔術師だと言われる所以は、そこにあるのでは無いかと優次郎は推測する。
彼は魔力が人並み外れて多いわけでも無ければ、技術がずば抜けて高いわけでもない。確かに治癒魔術の腕は超一流だ。その分野では、自分は到底及ばない。だが、世界は広い。技術だけなら、玲央と同等か、あるいは上回る治癒魔術師がいても不思議ではない。
だが、彼は魔術的観点から治癒魔術を見ていないし、図面的、教科書的に人間の身体を見ている訳でもない。
彼は、会話をしているのだ。人間の身体、そして魔力と。
彼の頭の中には人間の臓器が余すことなくインプットされ、それが一繋ぎになっている。傷口だけを見て治癒魔術を施すのでは無く、相手の身体の状態、傷の度合い、魔力の状態を瞬時に感じ取り、最善の場所に最善の魔力量で治癒を施しているのだ。
その瞬時の判断適応能力が、玲央は他のどの治癒魔術師よりも高い。そんな方法で長年治癒魔術師として活躍していれば、嫌でも見ただけで分かる様になるだろう。
そんな玲央が、魔力の枯渇とその原因に気が付かなかった筈はない。そして東京魔術学院の保健医として、それをすぐに雪菜や叶、瞳にも報告出来たはずだし、した所で誰も咎めない。優次郎すらもそうだろう。
だが、彼はそうしなかった。
何故なのかは、優次郎にも分からない。だが、確かな事が一つある。
「玲央先輩は、もう辿りついてたんだろうな…………雪菜ちゃんの望んだ『答え』に」
雪菜。月城雪菜。
優次郎が初めて出会った生徒、古なじみの瞳を除けば、初めてちゃんと話した生徒、初めて自分の講義を受けに来た生徒、そして―――――――囚人では無くなった優次郎の、初めての犠牲者。
いつもの様に、ボーっと空を眺めながら、この数週間で見た彼女の顔を、一つ一つ思い出していく。
呆気にとられた様な表情、困った様な笑顔、素直に流れ出す涙。最後に、自分につかみかかってきた時の、憎悪にまみれた表情。
「―――――――おめでとう、雪菜ちゃん」
ゆっくりと釣り上げられた唇から漏れた言葉は、誰に届くことも無く、魔術によって回る世界へと溶けていった。
ほんっっっっっっっっとうに長い間、お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした(土下座→土下寝)
いいわけですが、去年の暮れから、私事でトラブルが起きてしまい、小説を更新する事が出来ませんでした。
改めて謝罪します。何の連絡も無しに半島以上お待たせしてしまい、本当に申し訳ありません。
と言うわけで、これにて一つの区切りを迎えました。
次回からですが、もう少しこの世界に踏み入った話に入っていきます。今回、戦闘パートが短く、瞳や芽衣や叶が魔術を行使するシーンも少なかったので、次章では瞳を含む生徒たちによる魔術使用シーンもいれていければと思います。
優次郎のイカレ具合と殺傷能力の高さは今回で分かって頂けたと思います。出鱈目ですよ、コイツ。
更新はなるべく早めに、と思っています。先述した私事の方も落ち着きましたので、もう少しペースを速め、お待たせする事の無いように努めてまいりますので、よろしければ、これからも拙作をよろしくお願いします。