一、再会、そのあとに(4)
中へ入ると、大きな机に向かい、ひとり静かに読書をする女性の後ろ姿が目に触れた。上質な着物と綺麗に結われた髪から、身分の高い女性であることが窺える。その姿を目にした途端に胸は高鳴り、脈が激しく打ち始めた。
―巴慧だ。
間違いない。巴慧、その人である。会いたいと切に願い、辛い日々を耐え忍んだ。寝ても覚めても会える日を夢見た、その人だ。荒人は声をかけぬまま、ゆっくりと近づいていった。
窓の隙間から侵入した風が髪を揺らした。その人は顔を少し上げて、長く艶やかな黒髪を手で押さえながら、ふとこちらを見た。白い肌が美しく煌めき、鈴のような目がまっすぐ向けられている。思わず足を止めた。そして立ちすくんだまま、その人を見つめた。
(あぁ……、巴慧だ)
目頭が熱くなった。しばらくの間、二人は見つめ合った。このまま永遠に続いてほしいと願うほど、流れる時は穏やかで静かだった。
「荒人?」
「……あぁ。久しいな、巴慧」
深みを増した声が琴線に触れて、荒人は言葉に詰まった。
「本当に荒人なの?どうしてここに?」
勢いよく立ち上がると、桃のような顔を綻ばせながら巴慧は駆け寄って来た。
「どうして?いつ来たの?驚いた!」
一瞬で幼い頃に戻ってしまった。くるくると目を動かしながら話す巴慧を見ていると、無理して表情を取り繕っているのが馬鹿らしくなる。
「ははは!なんだ、ちっとも変わらないじゃないか。立派な女性になったと思ったのに」
「立派な女性よ。背だって伸びたでしょ?」
確かに。背筋を伸ばしてみたが、目線がほとんど変わらない。
「本当だ。おかげで、顔がよく見えるな」
「そうでしょ?ここ数年ですごく伸びたんだから」
笑うと陶器のような肌が艶めき、水晶のような目が優しい光を放った。細く整った鼻筋の下にある小さな紅い唇に目が触れると、荒人はそっと視線を反らした。
「今日は街へ出かけたんじゃなかったのか?」
「出かけるつもりだったんだけど、気が変わったの。今日は読書の日」
そう答えると巴慧は眉間に皺を寄せて、頬を膨らませた。
「荒人が来るって、お父様は知ってたはずよね?言ってくれればよかったのに」
「黎明様は、客人が来るから部屋で待つように言ったとおっしゃっていたよ」
「え」
「ちゃんと聞いてなかったな?」
「そういえば言ってたかも……。でも、荒人が来るとは思わないもの!ちゃんと教えてくれれば迎えに行ったのに」
「迎えに?どこまで?」
「比永の街までよ」
「本当か?それは惜しいことをしたな」
そう言って、二人は子供の頃のように笑いあった。
再会の喜びに浸っていると、あっという間に時間が経ってしまった。ふと外を見ると、日はとっくに沈んでいる。
「かえろっか」
幼いころ何度も繰り返した言葉を口にすると、この空白の数年間が泡のように消えてしまった。とうとう、帰ってきたんだ。そう思うと、荒人は喜びのあまりに苦しくなった。
部屋へ戻り食事を取っていると、「荒人、全然変わってないから安心した」と、巴慧が嬉しそうに言った。
「変わってないとは失礼だな。変わっただろう?もう十九だ」
立派になった、見違えたと言われると思っていたのに、拍子抜けもいいところだ。
「変わってないよ。優しい表情も、穏やかな話し方も、品の良いところも、全然変わらない」
「良い部分が変わらないということか。それなら、悪くはないな。誉め言葉として受け取っておこう」
「もちろんよ」
色とりどりの料理に舌鼓を打ちながら、酒をくいっと飲み干す。体の芯からじわりと熱が広がるのを感じながら、こんなに幸せでいいんだろうかと荒人は夢見心地で思った。
「お父様も一緒に食べられたらよかったのに」
いつも別室でひとり、ぽそぽそと食事を取る巴慧は寂しそうな表情を浮かべた。
「仕方ないさ」
国司の一日は長い。黎明が深夜まで仕事をし、夜が明ける前に起床していることはよく知っている。
「お父様は働きすぎなのよ。この前なんか目の下が真っ黒になるまで無理してたんだから」
そう言いながら巴慧は次々と食べ物を口へ運んだ。相変わらずよく食べるなと思いながら、荒人は箸をおいた。
「大丈夫だよ。もうすぐ、この家に優秀な補佐が来るから」
「優秀な補佐って?」
「それは今後のお楽しみ」
人差し指を口元に当てる荒人を、巴慧は不思議そうに眺めた。
翌朝、巴慧が身支度を整えて居間へ行くと、荒人と黎明が並んで着席していた。
「お父様?どうしてここに?」
挨拶するのも忘れて目を丸くしていると、
「久しぶりに一緒に食べようと思って、ここへ運んでもらった」
と言って、黎明は微笑んだ。
「嬉しい!三人で食べるの、いつぶりかしら!」
着物の裾を蝶のようにひらひらさせながら入ってくると、巴慧は落ち着かない様子で着席した。
「おはよう、お父様。よく寝れた?」
春の暖かい陽光が娘の黒髪にきらきらと反射しているのを愛でながら、黎明はゆっくりと頷いた。
「あぁ。いつになくよく眠れたよ」
「それはよかった。荒人は?ちゃんと眠れた?寒くなかった?旅の疲れは取れた?変な夢は見なかった?」
「いきなり質問攻めだな。おかげさまで、ぐっすり眠れたよ」
朗らかに笑う幼馴染と父の顔を交互に見ながら、巴慧はうずうずと爪先を動かした。
「では、いただこう」
手を合わせ、三人は箸を持った。声を弾ませながら食べてはいるが、やはり巴慧も良家の娘である。箸の使い方、お椀を手に取る所作、すべてが美しい。
(さすがは黎明様の娘だな)
幼馴染の成長を誇らしく思いながら、荒人は振舞われた料理を味わった。
食事を終えると、黎明は荒人に目配せをした。
「巴慧、大事な話がある」
「大事な話?」
寛いだ様子で湯呑を持ったまま尋ねる娘に、「大事な話だから、しっかりと聞きなさい」と、黎明はいつになく厳格な面持ちで言った。
「はい、お父様。どのようなお話でしょうか」
姿勢を正して尋ねると、黎明は隣にいる荒人を見てから深みのある声で言った。
「荒人と再会できて、どうだ。おまえも嬉しいだろう?」
「もちろんです。こうやって一緒に過ごせて、とても嬉しく思っています」
「幼い頃から兄妹のように育った。気心も知れているし、誰よりも信頼できる男だ」
「それはそうですが…」
何かと思えば、荒人が兄のような存在であることは今に始まったことではないし、畏まって言うようなことでもない。父の意図が見えずに巴慧は困惑した。
「おまえもよく知っていることだが、荒人の父である啓史は同じ学府で学問を修めた級友だ。切磋琢磨しながら武術の修行にも勤しんだ。私にとって啓史は唯一無二の友であり、兄弟のようなものだ」
隣で誇らしげに聞いている荒人を一瞥してから、「はい、存じております」と、内心首を傾げながら巴慧は相槌を打った。
「啓史と私は学業を終えたときに、ある約束をしたのだ。いつの日か子を成し、男と女であったなら祝言を挙げさせようと」
娘の反応を探るように、ここで一旦、黎明は口を閉じた。当の娘は意味を理解しているのか否か、大きな目をぱちぱちと開けては閉じている。
「無論、友人同士のたわい無い口約束に過ぎぬが、こうやっておまえたちを見ていると、夫婦として力を合わせて歩んでいけるように思うのだが、そうは思わぬか?」
ようやく意味を理解した巴慧は身を反らし、後ずさりした。




