一、再会、そのあとに(3)
幼い頃、巴慧とともに頻繁にこの書斎に出入りしていた荒人だったが、一度だけ、一冊の本を持ち帰り、父にこっぴどく叱られたことがあった。たった一冊の本を持ち出しただけで何故そこまで怒られるのか理解できなかったが、それが掟だから守らなければいけないよと、黎明に言われたことを覚えている。
そしてもう一つ、禁じられていたことがあった。広い建物の中には数十もの書室があり、その膨大な数の書物は題材ごとに細かく分類されている。機密文書が保管されている書室や、どのような書物があるかは不明だが、一部の者にしか閲覧が許されていない書室もあり、その辺りは特に厳重に警備されていた。そして、そのさらに奥深くに、ひとつの古びた扉があった。例のごとくお得意の好奇心を発揮し、各書室を散策し回っていた巴慧が見つけてきたのだ。「あの扉はなぁに?」と幼い巴慧は尋ねた。しかし、それを聞いた看守は表情を一変させ、「絶対に近付いてはなりません」と厳しく言いつけた。すばしっこい子供が、たまたま監視の目をくぐり抜けただけであったが、看守にとっては予想だにしない出来事だったらしい。普段は優しい看守が初めて見せる厳格な顔であった。
その翌日、「ねぇ、何があるか知りたくない?」と巴慧が耳元で囁いた。荒人はため息をついた。入るなと言われて、「はい、わかりました」と引き下がるはずはないと思っていたが、ちと早すぎやしないか。
「だめだよ。絶対に近寄っちゃいけないって言われたばかりだろ?」
「良い考えがあるの」
巴慧の目が光った。どうせろくな考えではないな。そう思ったが、黙って続きを聞くことにした。
「日が暮れたら、ここにいる人たち家に帰るでしょ?その前に棚の裏側に隠れるの。で、みんないなくなったあとに秘密の部屋に行けば、入れると思う」
やれやれ。また現実味のないことを言い出した。
「無理だよ。扉には鍵がかかってる。しかも厳重な鍵だ」
「もちろん知ってるわよ。でもね、ここだけの話だけど」
ここで巴慧は意味深な表情を浮かべた。
「あの中に、なにかいると思う」
「なにかって?」
「わからないけど、気配を感じるの」
「犬でも飼ってるっていうのか?」
「犬なら吠えたら分かるでしょ」
「じゃあなんだ。人か?」
「分からない。人か獣か、それとも」
ここで巴慧は息を止めた。
「魔物、とか」
荒人は思わず噴き出した。何を突拍子もないことを……。屈託なく笑う荒人を睨み、巴慧は口を尖らせた。
「いいわよ!行ってみればわかるんだから。鍵がかかってても関係ないわ。だって、戸を叩いたら、中のものが答えてくれるかもしれないじゃない」
「その、中のもの、が本当にいればね」
荒人は端から信じていなかった。かと言って巴慧をひとりで行かせるわけにはいかない。二人は夕刻まで書物を読み、日が沈む少し前に書斎を出るふりをして、出口の近くにある棚の隙間に身体を忍ばせた。息を潜めてじっとしていると、次第に役人たちがひとり、またひとりと帰って行った。
「なぁ、そろそろ大丈夫じゃないか?」
「しっ!まだ誰かいるかもしれないでしょ」
ひたすらに耐えながら、完全に人がいなくなるのを待つ。
「よし、行こう」
真っ暗な中を二人は奥へ歩いて行った。小さな右手で荒人の左手を握り、半歩前を行く巴慧の息遣いから緊張が伝わってくる。人のいない書室はどこも静まり返り、小さな足音だけが響いた。次第に鼓動は早くなり、手が汗ばんできた。
「ここより先へ行ってはなりません。巴慧様、荒人様」
不意に呼び止められた二人は、「わぁっ」と後ろにひっくり返り、派手に尻餅をついた。「いててて」と、打ったところをさすりながら起き上がると、看守が仁王立ちをして行く手を阻んでいる。
「迷われたのですかな?出口はあちらですよ」
「いや、あの、まだ読みたい本があって」
しどろもどろに言葉を紡ぐ巴慧を看守は厳しい目つきで見下ろした。
「もう帰るお時間ですよ。出口までお供いたします」
看守の圧力に二人は屈するほかなかった。背中を丸めながら書斎を出ると、
「このことは私の胸に留めておきます。しかし、今回限りでございます。この意味を重く受け止めるように」
冷たく言い放った看守の言葉に巴慧の顔は真っ青になった。
「ごめんなさい」
涙に濡れる頬をこすりながら謝る巴慧の横で荒人もがっくりとうなだれていた。そうして、意気消沈した二人は看守の視線を背に感じながら、すごすごと書斎を後にしたのであった。
それからというもの、巴慧は書斎の中では大人しく振舞うようになった。荒人のことを巻き込んでしまったことを申し訳なくも思っているようだった。よほど恐ろしかったのか、看守を見ると萎縮してしまう巴慧を見て荒人は心が痛んだ。もっとちゃんと止めていれば良かったのだ。巴慧が望むなら、どこへでも共に行きたいと願ってしまう自分の愚かさを責めた。
そんなことを思い出しながら歩いていると、あっという間に書斎の前に着いてしまった。もっと距離があったように思うが、大人になるとあらゆるものが小さくなるらしい。
歩を止めて、威厳を感じさせる立派な建物を仰ぎ見た。その堂々たる佇まいは畏怖の念すら抱かせる。だが同時に、人里から隔離されてじっと息を潜めている巨大生物のようにも見えた。巨大な樹々が今にも襲い掛かってくるような錯覚を覚えて、荒人は急いで石段を上った。
扉を開けると、看守に許可証を出すよう言われた。若く、初めて見る顔だった。言われたとおりに署名し、中へ入って行くと、数十万もの書物が目に飛び込んできた。
―わぁ!
思わず息を呑んだ。視界が本で埋め尽くされている。あまりの光景に、荒人は懐かしさ以上に衝撃と感銘を受けた。本棚の中で秩序正しく並べられている書物がまるで夜空にきらめく星のようだ。本を追いかけて目線を上げていくと、天井に彫られた数々の模様が降ってくる。しばらくの間、呆然と模様を仰ぎ見た。一瞬だけ近くに感じた天井は、やはり子供のころと変わらず高かった。
(これほど、すごいものだったのか)
まるで別世界へ足を踏み入れたみたいだ。眩暈を覚える。やはり、子供のころとは違うなと荒人は思った。成長とともに真の価値が分かるようになったらしい。
「これは……、時間がいくらあっても足りないな」
幼子のように目を輝かせながら書物を見て回る荒人の脳裏には巴慧の姿が思い描かれていた。昔は遠い異国の話が好きだったが、今はどんなものを読んでいるのだろう。巳玄や十貴国についても読むようになっただろうか。国の成り立ちについてか、あるいは皇族についてか。いや、巴慧のことだ、英雄たちの話かもしれない。
巴慧が関心を示しそうなものを探していると、「国史の書室」に辿り着いた。幼い頃は難しすぎて手に取らなかった書物の数々が今は宝の山に見える。




