一、再会、そのあとに(2)
「おそらく街へ行ったとは思うが、もしかしたら書斎にいるかもしれない。あとで行ってみると良い」
「懐かしいですね。では、後ほど行ってみます」
好奇心が旺盛なのも相変わらずか。荒人の口元が緩んだ。
「そなたに確認したい」
唐突に声色を変え、黎明が姿勢を正して言った。
「はい」
即座に荒人も背筋を伸ばす。
「巴慧との縁談だが、そなたは良いのか?真に望むことか?」
目を真っ直ぐに見据えて問うと、
「はい。私がそう望んでおります」
と、荒人は即答した。
「真か?」
「偽りございません」
「それなら良い。そなたの父が無理を言っているのではないかと思ってな。互いに子を成し、男児と女子ならいずれは夫婦に……。そんな話をしていたが、親の口約束に子が翻弄されるべきではない。そなたの人生は、そなたのものだ」
「父上と黎明様がそのような話をされていたことは存じております。しかしながら、巴慧との縁談を望んだのは私自身です。父上の意志は関係ございません。黎明様がお許しくださるなら、巴慧と共に生きていきたいと願っております」
「その言葉を聞き安心した。そなたが傍にいてくれるなら私も心強いし、これほど嬉しいことはない」
その言葉を聞くと、荒人の目にうっすらと涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
床に手をつき頭を下げる細い肩が、かすかに震えている。
「巴慧にはまだ話していないが、幼い頃から兄のようにそなたを慕っていた子だ。喜ぶ顔が目に浮かぶ」
黎明は目を細めた。
「そうなら良いのですが……」
春に咲く花のように顔をほころばせてくれれば、どれだけ幸せだろう。いくら兄妹のように育ったとはいえ、この数年は一度も顔を合わせていない。巴慧がどんな反応を示すか不安を感じないわけではなかった。
「できるだけ早く、祝言の儀を執り行いたいと思っております。黎明様にもそのように取り計らって頂きますよう、何卒、よろしくお願い申し上げます」
「そのようにいたそう。祝い事は早いほうが良い」
黎明は力強く頷いた。
職務に戻る黎明を見送り、上の間を出た荒人は安堵していた。これで巴慧と夫婦になれる。早く、早く祝言を挙げたい。もうすぐだ、もうすぐ夢が叶う。高ぶる感情を抑え、なんとか冷静な面持ちを保ちながら荒人は書斎へ向かった。
広い邸宅の縁側を歩きながら空を見上げる。連なる雲が紅く染まってきてはいるが、日没にはまだ早い。もし街へ行ったなら、そろそろ戻ってくる頃だ。
幼い頃、街へ行くと言ってきかない巴慧に付き添い、荒人もよく比永の街へ出かけたものだった。黎明様が心配なさるから早く帰ろうと言っても、「まだ大丈夫と」言って、興味の赴くままにあちこちへ行ってしまう巴慧に振り回されてばかりだった。付き人の与佐子が「さあ、帰りますよ!」と手を引っ張り、力尽くで連れ帰らなければならないことも度々あった。巴慧を守らなくてはと気合を入れて巴慧に付き添う荒人ではあったが、いつも帰途に就く頃にはへとへとに疲れていた。
那祁家の当主である黎明の邸宅は、比永の中心から十里ほど離れたところにある。八方を山に囲まれた広大な土地を有する那祁家は「巳玄の国」随一の力を誇り、その当主である黎明は実質、国を統べる者である。その役名は「国司」と言い、巳玄国府の最高位である。
元来、巳玄の国では貴族の娘が自由に外出することは稀である。治安は安定しているが、年頃の娘が奔放に出歩くことを良しとしない風習が今なお強く残っているからだ。
(巴慧はただの貴族ではない。この国の国司の、たったひとりの愛娘だ。本人にその自覚があるかは甚だ疑わしいが)
巴慧がいかに特殊な環境下で育てられているかを、荒人は比永を離れて初めて知るに至った。
(那祁家の娘が自由気ままに街中を歩き回っているなど、誰も想像すらしないだろうな)
巴慧は幼い頃から自由に外へ出ていた。幼い頃は特に何も思わなかったが、ある程度成長して世の理が分かってくると、それがいかに稀有なことであったかを理解するようになった。そして、不思議に思った。黎明は巴慧を目に入れても痛くないほど可愛がっている。心配ではないのだろうか。可愛いからこそ縛らずに、自由を謳歌させてやりたかったのだろうか。しかし、今や巴慧は十七になる。若い娘がたった一人の付き人を従えて街に繰り出すというのは、あまりに自由が過ぎないか。
通路を渡りきり、草履を履いて庭に出ると、春を待ちきれずに咲いてしまった花が風に揺れている。石で縁取られた池の周りを半周して左の方へ進んで行くと、遠目に大きな建物が見えてきた。玉砂利が敷き詰められた小道をゆっくりと進む歩調とは対照的に、脈は激しく波打っている。
(情けない……。震えが止まらないとは)
右手を握りしめてから大きく息を吐いた。これほど緊張するとは思わなかった。巴慧が街ではなく、書斎にいることを予感しているからかもしれない。荒人の知る巴慧は本が好きな子だった。じっとしていることを苦痛に感じるほど活発な子が、唯一、本を読むときだけは大人しく座っていられた。一心不乱に書物を読む目は煌々と光り、知識を得ることに貪欲だった。街中を散策するときも同じだ。目に留まるものすべてに興味を持ち、疑問に感じることがあれば納得するまで追求した。
「世界がね、ぶわぁって広がっていく感じがするの」
腕を広げながら話す姿が鮮明に蘇る。大人になったら色んな国を旅したいとも言っていた。それが夢だと言って笑った顔を、そうかそうかと目を細めて眺めていた。
(夫婦になってからも、ある程度は自由にさせてやろう)
あの目から輝きを奪いたくはない、そう思った。
那祁家の書斎には、貴重な書物が多数保管されている。数百年前から受け継がれる書物に加え、龍円府の文書館から贈呈されたものも数多くあり、巳玄の国のみならず「十貴国」すべての国々にとって貴重な書物を那祁家は有している。当然ながらすべての書物は厳重に管理されており、平民が立ち入ることは許されない。入館できるのは一部の役人と高官ぐらいで、その者たちですら事前に許可を得る必要がある。そして、館内の書物を持ち出すことは、いかなる理由であろうが固く禁じられていた。




