【本編・中編】:落ちた果実と、追憶の足跡
「かつての救世の勇者エスタロッサが、愛する妻と娘を捨てて姿を消した――」
その噂が王国の境界を越え、隣国の辺境にある小さな教会の庭にまで届くのに、そう時間はかからなかった。
世間は口々に彼を酷評していた。「栄光に目が眩んで狂った」「家族を捨てた薄情者」と。真実を知るのは、王都で泣き崩れた妻フローネただ一人である。
木漏れ日の下、教会で雑用をこなしていた老人が、その噂を耳にして手にしていた箒を落とした。
枯れ木のように痩せこけ、深く刻まれたシワと濁った瞳。かつて「白薔薇の王子」と呼ばれ、サファイアの如き美貌を誇ったリュシールの面影は、そこには微塵もなかった。
勇者の記憶という強大な概念を書き換えた「忘れの魔法」。その対価は、彼の膨大な魔力と膨大な「生命力」そのものだったのだ。魔法を放った直後から彼の身体は急速に衰え、今や見る影もない老人の姿へと成り果てていた。
(エスタロッサ……思い出してくれたのか……? 私を……私を探すために、すべてを捨てて……)
胸の奥底から、こみ上げてくる熱い歓喜。彼が自分を愛し続けてくれていたという事実に、震える唇から漏れ出たのは歓喜の吐息だった。
だが――次の瞬間、激しい罪悪感がリュシールの胸をナイフのように刺し穿つ。
(何を喜んでいるのだ、私は……! 彼の輝かしい未来を、英雄としての栄誉を、愛くるしい家族の幸せを……私は二度も壊してしまったのではないか!)
彼を救うために記憶を消したはずだった。それなのに、結局は彼を「家族を捨てた狂人」へと堕としめ、その人生を破滅させてしまった。
リュシールは震える手で、首から下げた紐を手繰り寄せた。そこには、かつてエスタロッサから贈られた小さな指輪が結ばれている。痩せ衰えてブカブカになってしまった指にはもう嵌められず、胸元に隠すことしかできない思い出の品。
(こんな……こんな老いさらばえ、醜くなった私の姿を彼に見せるわけにはいかない。私の罪を、これ以上彼に背負わせてはならない……!)
リュシールは静かに荷物をまとめ、教会を後にした。エスタロッサの手が届かぬよう、さらなる辺境へ、影へ、深い闇のなかへと逃げるために。
一方その頃。エスタロッサは、狂ったように風を切り、馬を走らせていた。
目撃情報を頼りにリュシールが潜んでいたという隣国の教会へ辿り着いたものの、そこにいたのは「数日前に旅立った、身寄りのない老人」の噂だけだった。
「……違う、サファイアの瞳をした美しい青年を探しているんだ!」
街の人々に詰め寄るが、誰もが首を横に振るばかり。
以前の姿のリュシールを探すエスタロッサと、老人の姿となって身を隠すリュシール。ふたりの距離は、すれ違ったまま遠ざかっていく。
それでも、エスタロッサは足を止めない。胸に残る白薔薇の香りと、消えない愛の記憶だけを道標に、彼は暗い旅路をどこまでも突き進むのだった。




