【本編・前編】:偽りの平穏と、破られた封印
「お父様、みて! お庭で綺麗なお花が咲いていたの!」
幼い娘の可憐な声に、エスタロッサは膝を折り、差し出された一輪の花を受け取った。
聖女フローネとの間に生まれた娘、エリス。天使のように愛らしい笑顔は、間違いなく自分と妻の愛の結晶のはずだった。
「あぁ、綺麗だね、エリス」
娘の頭を撫でながら、エスタロッサは優しく微笑む。
だが、その笑顔の裏で、胸の奥底にはいつだって「冷たく暗い穴」がぽっかりと空いていた。
王国の英雄、聖女を妻に持ち、愛らしい子供にも恵まれた完璧な生活。誰もが羨む幸せの真っ只中にいるはずなのに、彼はどこかでずっと、自分の人生が「作り物」であるような違和感を拭えずにいたのだ。
「エスタロッサ様、そろそろお昼の時間ですわ」
庭園のテラスから、妻となったフローネが柔らかな笑みを浮かべて呼びかける。
そのとき、娘のエリスが「あ!」と声を上げた。
「お父様、お花が折れちゃった……」
「大丈夫だよ、どれ……」
エスタロッサが受け取った花——それは、庭の片隅にひっそりと咲いていた、一輪の白薔薇だった。
指先に触れた、白薔薇の冷たい花弁。
その瞬間、風が強く吹き抜けた。
(……さようなら、私の愛しい人。私を忘れて、どうか光の中を生きて……)
『!?』
頭の芯を、激しい落雷が貫いた。
視界が白く染まり、強烈な頭痛がエスタロッサを襲う。膝をつき、激しく喘ぐ彼に、フローネが顔色を変えて駆け寄ってきた。
「エスタロッサ様!? どうなさったのですか!?」
「あ……ぐ、あああああッ!!」
脳裏に、怒涛の勢いで「消された記憶」が雪崩込んでくる。
冷たい石造りの聖域。ガラスの棺の中に横たわる、サファイアの瞳を持った儚い青年。
男同士で重ねた、息が止まるほどに熱く柔らかい唇。
地下牢の鉄格子越しに見た、一筋の涙。
そして——自分の命と引き換えに、愛する思い出のすべてを捧げて去っていった、あの愛しい存在の名前。
——リュシール。
「リュシール……! リュシール、リュシール……!!」
エスタロッサの口から、妻でも娘でもない「誰か」の名前が漏れ出す。
それを聞いた瞬間、フローネの顔から血の気が完全に引いた。
「な……なぜ……? 忘れたはずですわ! あの男の魔法は完璧だったはず……!」
「フローネ……まさかお前が……俺たちのことを、国王に密告したのか……!?」
記憶を取り戻したエスタロッサの目が血走り、黒い瞳に激しい憤怒が宿る。胸を突き破らんばかりの裏切りへの怒りがこみ上げ、思わずフローネの肩を強く掴み上げた。
「俺からリュシールを奪い……俺の記憶を奪わせ……嘘の幸せを抱かせたのかッ!?」
「ひっ……! 違います、私は……私はあなたを救いたかったの! あんな禁忌に溺れるあなたを正したかったのよ!!」
恐怖に怯えながらも狂ったように叫ぶフローネ。
その隣で、急変した事態についていけず、幼いエリスがボロボロと大粒の涙をこぼして泣き出した。
「お父様……? こわいよ、お父様……!」
「……っ!!」
娘の悲痛な叫び声が、エスタロッサの頭を冷やす。
肩を掴む手に力が抜け、彼はゆっくりと膝をついた。
密告された怒り。奪われた年月への悔恨。
だが同時に、目の前にいる泣きじゃくる娘と、自分を愛するがゆえに狂っていった妻。この数年間、自分が彼女たちに注いできた温かな情愛もまた、決して嘘ではなかったのだ。
怒りと、情と、罪悪感。激しい葛藤がエスタロッサの胸を激しく引き裂く。
彼は頭を抱え、長く、重い息を吐き出した。血走っていた瞳から怒りの色が引き、そこには深く、絶望的なまでの「赦し」だけが残っていた。
「……いや、違うな。お前を責めても……何も始まらない」
エスタロッサは掠れた声で呟き、静かにフローネを見つめた。
「俺を殺させないためにしてくれたことなのだろう。……俺を愛するがゆえの必死さだった。だから、密告したことも、記憶を奪わせたことも……君を責めはしない。許そう。君と過ごしたこの数年間、俺は確かに君を、そしてエリスを愛していたんだ」
「エスタロッサ様……!」
フローネの瞳に、すがるような光が宿る。だが、エスタロッサは悲しそうに、けれど二度と覆らない拒絶を込めて首を振った。
「だが……俺の欠けた心を埋められるのは、世界でただ一人、リュシールだけなんだ。俺が生かされたこの光の中で、彼だけがすべてを失って影を歩いている。そんな世界で、俺がこのまま幸せに生きていけるわけがない」
「嫌……! お願いです、エスタロッサ様! 思い出しても、行かないで……! 私たちにはエリスがいるのよ!? この子の父親を奪わないで!!」
「お父様……? 行っちゃうの……?」
泣き叫び、しがみついてくるフローネ。服の裾を小さな手で必死に掴むエリス。
エスタロッサは胸を締め付けられながらも、娘の目を優しく見つめ、その小さな手をそっとほどいた。
「救世の勇者としての名誉も、莫大な金銭も、この屋敷も……すべて君たちに与える。俺には何一ついらない。……だから頼む、俺のことは忘れてくれ」
「そんなもの要りませんわ! あなたがいてくださらなければ……!!」
取り乱すフローネの悲鳴を背に、エスタロッサは静かに背を向けた。
腰の剣だけを携え、一度も振り返ることなく、彼は白薔薇の香る風の中へと歩みを進める。
光に満ちた王国を捨て、温かな家庭を捨て、人は彼を「狂った裏切り者」と呼ぶかもしれない。
だが、どれほど責められようとも構わなかった。
すべてを犠牲にして自分を救った、あの愛しい青年を追って——勇者は静かに、けれど強い意志とともに旅立った。




