プロローグ
『アルファポリス様にも同時掲載中』
彼が笑う。愛おしむように、彼女と、二人の間に生まれた幼い娘に……。
彼は覚えていない。かつて僕に全てを捧げ、愛してくれたことを……。
僕は忘れない……君が僕を忘れ去ろうとも、いつまでも愛し続けると……君の幸せを願うと。
ーーこれは、かつて白薔薇の城に魔法で眠っていた王子と、その眠りを解くため数々の魔物と戦い城に辿り着き、運命のキスで目を覚まさせた勇者との愛の記憶ーー。
白薔薇の花びらが静かに散り敷く、冷たい石造りの聖域。
数々の魔物を退け、城の最深部へと辿り着いた勇者エスタロッサは、ガラスの棺を前にして言葉を失っていた。
そこに横たわっていたのは、噂に聞く「囚われの白薔薇姫」ではない。
絹のようにしなやかな金の巻き毛、長く透き通るまつ毛、そして薄紅色の美しい唇を持つ――ひとりの儚き青年だった。
「男……なのか……?」
「呪われた姫」を救い出せば国は繁栄を取り戻し、莫大な報奨金が約束されている。その触れ込みを信じてここまで来たパーティーだったが、棺の中にいたのは姫ではなく、ひとりの美青年であったのだ。
しかし、呪いを解く唯一の手段は、伝承に刻まれた「運命のキス」のみ。
後ろに控えるパーティーの聖女フローネが、苦々しい表情で促す。
「エスタロッサ様、迷っている暇はありませんわ。報奨金のためです、割り切って口づけを」
エスタロッサは黒い瞳を揺らしながらも、ゆっくりと顔を近づけた。男同士の口づけに戸惑いがなかったと言えば嘘になる。だが、息を止めて重ね合わせたその唇は、驚くほど柔らかく、温かかった。
触れた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。衝動的な熱が突き上げ、エスタロッサの心は瞬く間にその触感へ奪われていく。
直後、長いまつ毛が揺れ、まばゆいサファイア色の瞳が開かれた。視線が交差した、まさにその瞬間。ふたりの間に言葉は不要だった。雷に打たれたかのような衝撃とともに、運命の恋が芽生えたのだ。
「……助けにきてくださったのですね、私の勇者様」
「あぁ……君を救うために、俺はここへ来たんだ。……君の名は?」
「……リュシール。白薔薇の王子、リュシールと申します」
互いを慈しむように抱きしめ合う二人。だが、その光景を背後から見つめるフローネの瞳には、黒々とした嫉妬の炎が燃え盛っていた。
「神の愛し子」であるリュシールが目覚めたことで、王国には大いなる神の祝福が注がれた。長らく国を苦しめていた伝染病や飢饉は瞬く間に去り、大地は豊かな実りを取り戻して国全体が空前の繁栄に沸き立った。
無事に目的を果たしたエスタロッサたちは王都へと帰還し、約束通り莫大な報奨金を受け取った。
その後も、エスタロッサとリュシールは誰にも知られぬよう、慎ましやかに、そして甘く静かな時間を重ねていった。エスタロッサの雄々しい腕に抱かれ、リュシールは穏やかに目を細める。
「エスタロッサ、君と出会えて本当に良かった」
「俺もだ、リュシール。どんなことがあっても、君を守る」
しかし、幸福な時間は長く続かなかった。二人の密やかな密会に気づき、エスタロッサへの執着を捨てきれないフローネが、ついに国王へ密告したのだ。
「勇者エスタロッサ様とリュシール様は、あってはならない禁忌の情を交わしておられます」
当時、同性愛は絶対の禁忌。リュシールは冷たい地下牢へと投獄され、禁忌を犯した勇者エスタロッサには「処刑」の言い渡しがなされた。
だが、国王の本音は違っていた。魔物を倒せる唯一の「国家最高戦力」である勇者を失うことは国にとって痛手であり、処刑はあくまで体面上のパフォーマンスに過ぎなかったのだ。
その思惑を見抜いていたフローネは、鉄格子の向こうで佇むリュシールの元へ現れ、冷酷な取引を持ちかける。
「リュシール様。国王とて、国の英雄であるエスタロッサ様を本当に殺したくはありませんの。……貴方には二つの道がありますわ。このまま見せしめとして彼が首を撥ねられるのを見るか。それとも、貴方の持つ術でエスタロッサ様から『貴方に関する全ての記憶』を消し去り、自らは永遠に国を去るか」
勇者の記憶を消し、危険な「禁忌の存在」である王子が永遠に立ち去るのであれば、国王も勇者の罪を不問にし、英雄として生かす名分が立つ。
愛する人の命と未来か、二人の思い出か。リュシールに迷いはなかった。サファイアの瞳から静かに一筋の涙が零れ落ちる。
「……彼の命が助かり、光の中で生きていけるのなら、私は喜んで国を去りましょう」
処刑前夜。暗く冷たい牢のなかで、縛られたエスタロッサの前にリュシールは立った。
「リュシール……! なぜここに……逃げろ、君だけでも……!」
「いいえ、エスタロッサ。私は君を救いに来ました」
リュシールは愛おしそうにエスタロッサの頬を包み込む。これが、本当に最後の時間。二人は静かに唇を重ねた。
出会ったときの熱い呪いを解くキスとは違う。寂しさと、深い愛と、永遠の別れを込めた――「忘れの魔法」の口づけ。
(さようなら、私の愛しい人。私を忘れて、どうか光の中を生きて……)
愛の記憶が光の粒子となって抜け落ち、エスタロッサは意識を失った。
――数年後。
罪を免れ、目を覚ましたエスタロッサの胸には、ぽっかりと巨大な穴が空いていた。
「……俺は、何か大切なものを失ったような気がするんだ」
何かが足りない。思い出せない誰かの面影を求めて胸を締め付けられるエスタロッサに、フローネは献身的に寄り添った。
記憶を失った勇者は、言われるままにフローネと結婚し、やがて可愛い娘を授かった。国中は「勇者と聖女の完璧なハッピーエンド」に湧き立ち、祝福の花吹雪が街を埋め尽くす。
パレードの賑わいから遠く離れた、木陰の影。白いフードを深く被った青年が、ぽつりと佇んでいた。
エスタロッサはふと、何かに惹かれるようにその木陰へ視線を向けた。なぜか胸が、千切れるほどに痛む。だが、そこに立つ美しい青年の顔を見ても、何も思い出すことはできない。隣にいる妻と娘を、慈しむように抱きしめ直すことしかできなかった。
そんなエスタロッサの幸せそうな姿を見届け、リュシールはそっと微笑んだ。胸元に隠した、かつて彼から贈られた小さな指輪を、強く、強く握りしめながら。
(君が僕を忘れ去ろうとも、いつまでも君の幸福を祈り、愛し続けるよ……どんなときでも、君だけを愛している)
風が吹き抜け、白薔薇の花弁が舞い散るなか。孤独な王子は誰にも気づかれることなく、約束通り静かにその場を立ち去った。




