10.噂の魔物
「きみは? なぜこの山へ来たんだい?」
友好的な顔で、青年は尋ねた。
見た目は穏やかで、不審な部分はない。でも、何かがおかしい気がする。
「あたしは……」
セスティアが答えようとした時、馬が大きくいなないた。必死になって、くくられている綱を外そうともがいている。さっきよりも、目が血走っていた。
「どうしたっていうのよ。さっきから……」
さっきから? それまでおとなしかったのに。この人が現れる少し前から、急に暴れ出してる。……この人、この山で暮らしているって言った? ここは人が住めるような所じゃない。何かおかしいか、わかった。
ここは、そんな平和な場所じゃないっ。
あまりにも普通に、まるで角を曲がって現れたかのようだったから、ほんの一時でも「あ、人が現れた」と、何でもないように思ってしまったのだ。
セスティアは、青年の方に向き直る。
青年はにこやかな顔をしているが、彼が現れてからセスティアは自分の足元に冷たい空気が流れている気がした。身体を包むように、その冷気がセスティアにまとわりつくのだ。
自覚した途端、寒気がした。
「あなた……何者?」
冷気を振り払うように、セスティアは強い語調で尋ねた。
心なしか、青年の目が異様な光を帯びてきている。顔を見た時は気にしなかったが、赤くなってきているような。
「おや、さっきも言ったじゃないか。名はキトラウザだ、と。声が届かなかったかな?」
「そのキトは、この山の名でしょ。あなた……魔物ね、ここに棲んでいる……」
人がいないはずの山で暮らしていると話す、人間ばなれした美しさを持つ青年。この冷気。馬の怯え方……全部、普通じゃないわ。
そして、青年自身も、次第に普通ではなくなりつつあった。
「そう、あたり。五百年前からここにいる。昔はよく人間が来ていたが、ここ三百年程、誰も来なくなってね。ここは危険だ、とか何とか言って。人間はつまらない噂が好きだからな。ああ、久し振りの食事だ。それも、若い女ときている」
青年が舌なめずりした。その舌が、気持ち悪い程に長い。しかも、二つに割れている。まるで爬虫類だ。
目付きはもう、完全に魔物のもの。瞳孔が異様に細い。獲物を吟味するように、舐め回すようにセスティアを見ている。
一瞬、その目にぞくっとしたセスティアだが、気を取り直して魔物を睨んだ。
「悪いけど、あたしはお前のエサになる気はないわ。あたしを待ってる人がいるのよ」
「そんなもの、待たせておけばいいじゃないか」
魔物はセスティアの抜いた剣を見ると、美しかったその姿を崩した。
顔は不気味に歪み、口が裂け、そこから舌がちろちろと出ては入るを繰り返す。
人間の腕の形が崩れ、ヌメヌメした触手のようなものになった。それを、セスティアへ向かって伸ばす。表面がナメクジみたいに見えた。
き、気持ち悪いーっ!
どう見ても、気分のいいものではない。さすがに、セスティアも今度こそ全身に鳥肌が立った。襲いかかられることより、見た目がいやだ。
最初に美形の人間の姿で現れたのは、少しでも油断をさせるためだろうか。美しかった顔が崩れていき、人間が驚くところを見て笑うつもりかも知れない。
どういう理由にしろ、悪意ありき、だろう。
伸びて来た触手を、セスティアは剣で叩き斬った。にごった悲鳴が響き、毒々しい紫の血が飛び散ると、周りの草木を染める。
「私の身体を傷付けたな。たかが人間の分際で」
つぶれたような低い声が、裂けた口からもれる。あの美声は、完全にどこかへいってしまった。本当にいい声に思えたので、それだけはちょっともったいない気がする。
「魔物がいる話は、本当だったって訳ね。まさか、噂の真実を自分の目で確かめることになるなんて、思わなかったわ」
「お前はもう、ここから帰れん。今まで、無事に戻った者はないのだからな」
「それも聞いた。だけど、いつまでも同じことは起こらないわ」
セスティアは、新たに伸びてきた触手を斬り付けた。しかし、まるで蛇か何かのように、次から次へと伸びてはセスティアにからみつこうとしてくる。
「このっ……」
こいつ、手が何本あるのよっ。……違う、再生してるんだわ。
セスティアが斬り落とした触手は、見ていると本体へ戻って行くのだ。そして、元の状態になる。
元には戻るけど、最初に斬った時以外、悲鳴はあげない。もしかして、にせものかしら。でも、ちゃんと動いてるみたいだし。
真相がどうであれ、このままではこちらが疲れるだけだ。恐らく、致命傷を与えない限り、これが繰り返されるのだろう。
「セスティアッ」
後ろの方で、ユーバスの声が聞こえた。心配して、また追って来てくれたのだ。さっき、キトラウザが上げた悲鳴で、こちらにいると判断したのだろう。
でも、振り向く余裕がない。
「こいつがこの山の魔物なの。こいつを倒せば、泉があるはずよ」
「ふん。泉が見付かる前に、お前達は死ぬさ。エサが増えて、嬉しいねぇ」
触手を伸ばす方向がセスティアだけでなく、三方になった。
脇腹からも腕が生え、それらが新たに現れた獲物へ向けられる。ユーバスやディストも、同時に喰うつもりだ。
視界の端に、ディストやユーバスが苦戦しているのが映る。斬っても斬っても、やはり同じことが繰り返されるだけなのだ。
「さっさとあきらめて、私のエサになれ」
三人をいたぶるように、魔物は触手を伸ばし続ける。
どうして倒せないのよ。この剣は魔を斬る剣だって王は言ったのに。こいつ、倒れないじゃないのっ。
「うわっ」
いつまでも同じ戦いが繰り返され、うんざりしていた時。横でディストの声が響く。
セスティアがそちらを向くと、ディストが左手の甲を傷付けられていた。ヌメヌメしていた触手の先が、剣のように鋭くなっていたのだ。
見ただけでは鋭そうに見えないので、ディストも甘く見ていたのだろう。
ディストはしつこく伸びてくる触手を斬るが、左手は添えているだけで力が入らない分、動きがにぶくなっている。
近くにいるユーバスが助けに行こうとするが、自分の方へも触手が伸びてくるので、行くに行けない状態だ。
「この……よくもディストを」
怒ったセスティアは、伸びて来た触手を今までより力を込めて斬ると、次の触手が伸びる前に魔物本体へ向かって走り出した。
何かまずいと感じたのか、他の触手が近付くのを邪魔しようとする。それらも簡単に斬り捨て、完全に魔物の姿になった青年へ、セスティアは斜めに剣を浴びせた。
「……は?」
魔物が呆けた声を出す。まさか、という目でセスティアを見ていたが、次第にその姿をなくしていった。
あの三人の兵士姿をした魔物のように、砂になって散っていったのだ。
同時に、ユーバスやディストを襲っていた触手も消えた。
「やった……」
セスティアは、肩で息をする。
今まで必死だったので麻痺していたのだろうが、さっきまでの苦戦が急にこたえてきた。
思ったよりも長い時間、戦っていたのだろう。なぜ、すぐにこうやって消せなかったのかが不思議だ。
「ディスト、大丈夫かっ」
ユーバスの声で、セスティアは我に返った。
そちらを見ると、ユーバスがディストの傷口の上をしばっているところだった。
「そんなにひどくはやられてないから、どうってことないよ」
ディストは平気な顔で言ったが、セスティアは首を振る。
「だめよ、ディスト。甘くみないで。魔物に傷付けられたんだから」
早く泉を見付けなければ。ケイジェスのように、他にケガがないからいいようなものの、放っておいてもこの傷は治らない。
「魔物に遭ったんだもの、この近くに水があるはずだわ」
あの魔物も、泉の存在を匂わすようなことをちらりと言っていた。あるのは間違いない。
セスティアはこれからどこへ向かうべきか、周りを見回した。
「あっ……」
「どうした?」
「ばあちゃんの言ってた……紫の葉だ」
セスティアが指差す方には、魔物の血で染まった茂みがある。飛び散った紫の血で、緑だった草も紫に染められていたのだ。
「きっと、このことよ。だとしたら、この近くに癒しの水があるはずだわ」
「魔物の血がかかった、というだけじゃないのか?」





