第50話 大きな一歩
うららかな春の陽射しが差し込む、学園のサロン。
新学期が始まり、親しい顔ぶれで囲むティーテーブルには、紅茶の香りと和やかな笑い声が満ちていた。
「それで、春休みに殿下と観劇に行ったのですけれど……あら?」
楽しげに話していたロザリアが、ティーカップを持とうとした私の手元を見て、不思議そうに小首を傾げた。
「ねえ、リリア。なんだか少し、日焼けした?それに、その手……」
「えっ!」
私は慌てて、自分の両手を背中の後ろに隠した。
日焼け対策を行い手袋もはめていたけれど、連日の駆除液の仕込みと土作業の爪痕は隠しきれなかった。春休み前と比べて肌の色は黒くなり、手には小さなマメができてしまっていた。
「ご、ごめんなさい、お見苦しくて。実は春休みの間、ずっと領地の畑で害虫駆除や土壌改良の検証をしていたの……」
笑顔で退路を絶ってきたお母様の姿を思い出し、私が少し遠い目をしながら説明すると、テオ様とロザリアが驚いたように目を丸くした。
「休みを返上して、領民と共に畑で汗を流していたとは……素晴らしい心がけですね」
「ええ、本当に。領地の方々を想って頑張った証ですもの、ちっとも見苦しくなんてありませんわ!」
二人に続き、殿下も言葉をかけてくれる。
「ああ。貴族の令嬢でありながら、自ら領地のために土に触れるとは。本当に立派だと思うよ」
「そ、そんな……立派だなんて……」
三人の真っ直ぐな称賛に、私は恥ずかしさでますます俯いてしまった。
しかし、いくら領地のためとはいえ、令嬢の手がごつごつしているなんて、やっぱり恥ずかしい。そう思って身を縮こまらせていると、斜め向かいに座っていたルーカスと目が合った。
「領地の人々のために尽くした、美しい手です。私も、とても素敵だと思います」
ただ静かに紡がれたその言葉は、春の陽だまりのように温かく私の胸に染み込んでいった。
彼の誠実な眼差しに、隠していた手から少しだけ力が抜けた。
「……そうだ。リリア嬢、植物の知識を見込んで、君に一つ相談があるんだ」
照れくさい沈黙を破るように、殿下が真面目な顔つきで切り出した。
「実は、来月行われる建国記念祭に向けて、生徒会を手伝ってくれる特別委員を探しているんだ。今年の祭りは例年以上に規模を大きくして、国民との交流を深める予定でね」
「建国記念祭の、委員ですか?」
「ああ。街を彩る花の調達や飾り付けと、広場で子供たちに配るお菓子の考案などを手伝ってほしい。リリア嬢の知識があれば、非常に助かるのだが……」
殿下の言葉に、テオ様も深く頷いている。
「後日、各クラスの朝会で正式に立候補者を募る予定だ。それまでに、少し考えておいてくれないか?」
強制するのではなく、一人の学生として考える時間を与えてくれる殿下の誠実な提案に、私はしっかりと前を向いて頷いた。
「はい、ありがとうございます。考えておきます」
そう答えながらも、私の胸の内では、すでに答えは決まっていた。
♢♢♢
それから数日後。新しいクラスでの朝会の時間。
教壇に立つ教師から、建国記念祭の特別委員の募集がかけられた。
「生徒会と連携して、街の装飾や催し物の準備に携わる重要なお役目です。どなたか、立候補される方はいませんか?」
教室の中が、ざわざわと少しのどよめきに包まれる。
目立つ役回りを敬遠する空気が漂う中、少し前の私なら、皆と同じように目を伏せていたはずだ。平穏な学園生活を送るためなら、それが正解なのだから。
けれど——。
『自分の持つ力で、誰かを笑顔にできる女性になりなさい』
領地の夕暮れで聞いたお母様の優しい声。
私の作った駆除液に目を輝かせた領民たちの笑顔。
そして、少し硬くなった私の手を、真っ直ぐに肯定してくれたみんなの温かい言葉。
(私にできることで皆を笑顔にしたい)
私は迷うことなく、背筋を伸ばし、真っ直ぐに右手を挙げた。
「私に、やらせてください」
凛と響いた自分の声は、少しも震えていなかった。
貴族の娘として、そして一人の女性として。確かな一歩を踏み出した私の前には、希望に満ちた大祭への道が、鮮やかに広がっていた。




