第48話 手荒れの理由(前編)
修了パーティーから数日が経った。春休みで実家へ戻ってからも、あの夢のようなひとときの余韻に包まれて、私の心はどこか浮ついたままだった。
自室のベッドに寝転がり、柔らかいクッションに顔を埋めては、無作法だとわかっていても足をパタパタとさせてしまう。
目を閉じれば、ルーカスとのダンスが鮮明に蘇ってくるのだ。ひんやりとした夜風の匂い、重ねられた手の温もり、甘く優しく揺れる彼の瞳。思い出すだけで顔が熱くなり、どうにかなってしまいそうだった。
その時、コンコン、と優雅なノックの音が響き、扉が開かれた。
「あらあら、リリア。朝からとってもご機嫌ね」
「お母様……!」
ふんわりとした上質なドレスを身に纏い、にこにこと柔らかな笑みを浮かべたお母様が室内に入ってくる。
「実はね、あなたが先日提出した自由研究……『ハーブの種類と効能、および領地での活用法』を拝見させてもらったの。私とっても感動したわ。よくあそこまで細かく調べ上げたわね」
「えっ、本当ですか?ありがとうございます!」
思いがけないお褒めの言葉に、私は顔を輝かせた。頑張って文献を調べた甲斐があった。
しかし、お母様は満足そうに微笑んだまま、トーンを変えずに言葉を続けた。
「ええ。だからこそ、紙の上だけで終わらせるなんて、あまりにももったいないわ!……というわけで、明日から領地へ赴き、実際に現地で試してみましょうね」
「……え?」
にっこりと完璧な笑顔のまま放たれた言葉に、私の思考はフリーズした。
「あ、明日からですか!?あの、春休みは王都で少しゆっくりしようかと……」
「あら?」
控えめな抵抗の瞬間、部屋の空気がフッと数度下がった気がした。お母様の顔を見れば、口角は美しく上がっているものの、その目は全く笑っていなかった。
「領民たちの暮らしを豊かにしながら、自分も成長できる素晴らしい機会ですもの。まさか、やらないなんて言わないわよね?」
「……は、はい。喜んで行かせていただきます……」
「ふふ、いいお返事。馬車の手配はもう済ませてあるわ。ね、ニーナ?」
「はい、奥様。お嬢様のお荷物はすでに八割方まとめ終わっております」
いつの間に入ってきたのか、部屋の隅に控えていた侍女のニーナがトランクの蓋をパタンと閉めた。
こうして反論の隙すら与えられないまま、あれよあれよという間に、土と緑の匂いが漂う地方の領地へと連行されたのだった。
♢♢♢
王都から馬車に揺られることまる一日。景色が街並みから豊かな田園風景へと変わる頃、私たちはようやく領地の中央にある屋敷へと到着した。
「奥様、リリアお嬢様。長旅、お疲れ様でございました。よくぞおいでくださいました」
長年この地を任されている初老の執事長が、使用人たちと共に深く頭を下げて出迎えてくれた。
挨拶もそこそこに、私たちはサロンへと案内され、長旅の疲れを癒やすために用意された紅茶を口にする。
すると、カップを置いたお母様が、執事長へ鋭い視線を向けた。
「先ほどから気になっていたのだけれど……領地もお屋敷の雰囲気もなんだか少し暗いわね。何かあったのかしら」
壁際に控えていた執事長はひどく申し訳なさそうに眉を下げ、重い口を開いた。
「……実を申しますと、今年は春先の気温変化が激しく、村の重要な作物に厄介な害虫が大量発生しておりまして。高価な薬品を購入する予算もなく、領民たちは今年の春の収穫は絶望的だと、すっかり肩を落としているのです」
「害虫被害……」
執事長の言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に、図書室で読み漁った植物図鑑の知識が閃いた。
(……もしかしたら、あの方法で解決できるかもしれない)
ハッとして顔を上げた私に気づき、お母様が微笑みながら口を開いた。
「リリア。あなた、何か試してみたいことがあるのではないかしら?」
「えっ……あ、はい。確証はありませんが、本で読んだ知識で試してみたいことが……」
私が控えめに頷くと、お母様は満足そうに扇子を合わせ、「では執事長、後ほどリリアをその畑へ案内してちょうだい」と指示を出した。
「えっ、リリアお嬢様をですか!?しかし、畑は泥だらけで……」
「構いません。少しでも、私にできることがあるならお役に立ちたいのです」
そうして案内された村の畑は、想像以上に悲惨な状況だった。
青々としているはずの若葉にはびっしりと虫がたかり、葉脈を残して食い荒らされている。畑の脇では、領民たちが生き残った作物を前に、絶望したような顔で座り込んでいる。
私と執事長が近づくと、彼らは慌てて立ち上がり、慣れない動作で頭を下げた。
「お嬢様……こんな泥臭い畑に、一体何の御用で……」
「今年の春は、もう諦めるしかないんです。お嬢様のお口に入るような美味しい野菜は、作れそうにありません……」
諦めきった領民たちの声に、私は首を横に振った。
「待ってください。諦めるのはまだ早いです。この領地に自生しているペパーミントとドクダミを鍋で煮出せば、作物に害を与えずに、虫だけを追い払う特製の駆除液が作れます」
「く、駆除液……?」
真剣に提案したものの、領民たちは顔を見合わせ、どこか冷ややかで半信半疑な視線を向けてきた。
「お嬢様のお気持ちはありがたいんですが……王都の机の上で読んだ本の話でしょう?俺たちはずっとこの土と生きてきたんです。ただの草の汁で、この大量の虫がどうにかなるなんて思えません」
彼らの言う通りだ。土を知らない貴族の娘が突然やってきて、本の知識をひけらかしたところで、彼らが信用できるはずもない。
(……だったら、言葉じゃなくて行動で証明するしかないわ!)
私は屋敷の厨房を借りて、ニーナと共に集めたペパーミントとドクダミを大鍋でじっくりと煮詰めた。部屋中にツンと刺さるような独特のハーブ臭が立ち込める。
私はドレスから動きやすい簡素な服へと着替えると、完成した駆除液をたっぷりと入れた木桶を両手で抱えて、再び畑へと向かった。
「お、お嬢様!?一体何をされるおつもりで……っ」
驚く農民たちをよそに、私は躊躇うことなく泥だらけの畑に足を踏み入れた。
「この一角だけで構いません。私に任せてください。必ず、この駆除液の効果を証明してみせますから」
重い木桶の持ち手が指に食い込み、駆除液をすくう柄杓を握り続ける手のひらには、じんわりと熱を持つ小さなマメができ始めた。さらに、一株ずつ丁寧に液をかけて回るため、鍋のある厨房と畑を何度も往復しなければならない。
額に汗を流し、泥にまみれながら、それでも私は必死に作業を続けた。
遠巻きに見ていた領民の目に、少しずつ驚きと戸惑いの色が浮かび始めていたが、それに気づかないほど、私はただ無我夢中で土と向き合っていた。




