第42話 月明かりに照らされて
放課後の図書室。いつもの大きな机には、見上げるほどの分厚い本の山と、重苦しい沈黙が広がっていた。
「殿下。優雅にお茶を飲んでいないで、そろそろレポートに手をつけてはいかがですか?」
「テオは心配性だな。焦らずとも、完璧な構成はすでに頭の中にある」
「それを白紙に書き起こしてください」
涼しい顔で微笑むリュシアン殿下に、テオ様が眼鏡の奥で深くため息をつき、こめかみを押さえた。
一ヶ月後に控えた修了パーティーのことで頭がいっぱいになりがちだが、私たちにはその前に、一年を締めくくる最大の関門である学年末試験がそびえ立っているのだ。
学年末試験は通常の期末試験よりも専門科目に比重が置かれ、進路にも直結する重要な試験となっている。
殿下やテオ様のいる政務科は、隣国の社会情勢や今後の外交方針に関する膨大なレポート提出。ルーカスのいる騎士科は、近衛騎士団への入団査定にも大きく響く、苛烈な剣術の実技試験。
そして、私やロザリアがいる普通科は、自身の得意分野を深く掘り下げる自由研究の発表だ。私はかねてより調べていた、ハーブの種類と効能、そして領地での活用法についてまとめている。
しかし、どうしても手元の資料に集中しきれずにいた。
(ルーカスをパーティーに誘いたい……でも……)
チラリ、と斜め向かいの席を盗み見る。
そこには、真剣な眼差しで教本に向かうルーカスの姿があった。
「ふぅ……少し休憩にしましょうか」
ロザリアの提案で、皆に温かい紅茶が振る舞われる。
張り詰めていた空気が緩んだところで、「そういえば」と殿下が口を開いた。
「試験が終われば修了パーティーだな。またロザと特別な時間を過ごせると思うと待ち遠しいよ」
「もう!殿下ったら」
ロザリアが呆れたように、けれど愛らしそうに微笑むと、テオ様がまた一つ深いため息をつく。
「殿下がロザリア様と二人だけの世界に浸っている裏で、お二人に群がろうとするご令嬢方の牽制が大変でしたけどね」
殿下はテオ様からの小言を躱して、私の方に視線を向けた。
「リリア嬢とルーカスは、中等部の頃は誰かと踊っていたのかい?」
「私は……第一、二学年の時は、普段から親しくしていた令息の方々からお声掛けいただいて踊りました。三学年の時は、直前に熱を出したため欠席してしまいましたが」
私が先にそう答えると、ルーカスが続ける。
「私は一度も踊っておりません」
「へぇ、意外だね。ルーカスは中等部の頃より令嬢たちから山のような誘いがあったんじゃないのかい?」
殿下が少し驚いたように言った。
「騎士科の友人達も踊っていませんでしたし、何より試験のことで頭がいっぱいでしたから」
すると、テオ様が何かを思いだしたように、ルーカスを見る。
「そういえば、昨年のパーティーで壁際から一歩も動かずに、次々とくるご令嬢方のお誘いを見事な笑顔で断られていたのをお見かけしましたよ」
テオ様の言葉に驚いてルーカスを見ると、彼は涼やかな顔のまま、静かに口を開いた。
「それは……踊る気分ではなかっただけで、特に理由はありませんよ」
淡々と事実だけを述べるようなその言葉に、私はそっと息を吐き出し、手元の資料へと視線を落とした。
♢♢♢
勉強会がお開きになった後、寮へ帰るロザリアたちと別れ、私は自由研究で使うハーブの成長記録をつけるために大温室へと足を運んでいた。
「外はもう暗いですし、私が付き添いますよ」と、護衛を買って出てくれたルーカスと一緒に。
静まり返った夜の温室には、薄っすらと月明かりが差し込んでいる。
ルーカスは入り口に備え付けられていた小さなランプを手に取ると、私が観察しやすいようにすぐ隣でハーブの葉を優しく照らしてくれる。
私はハーブの状態を確認しながら、図書室での彼の涼やかな横顔を思い出していた。
剣術の鍛錬に力を入れているルーカスは、もしかするとダンスやパーティーといった行事自体に興味がないのかもしれない。
(私がパートナーに誘ったら、困らせてしまうかな……)
いつもなら、ここで一歩引いてしまう。迷惑をかけないよう、気心の知れた幼馴染という安全な位置に収まろうとするのが、これまでの私だった。
けれど――。
(このまま何もしないで、他の誰かが彼の隣に立つのを見るのは、嫌だ……)
私を気遣ってランプを照らしてくれる彼の優しさを、誰かのものにしたくない。
それを独り占めしたいと思ってしまう自分の気持ちに、もう嘘はつけなかった。困らせてしまったとしても、ほんの少しだけ我儘になって、勇気を出してみたい。
(誘うなら、今しかない……!)
私は意を決して、ルーカスを見上げた。
「あのさ、ルーカス」
「ん?」
「試験が終わった後の、修了パーティーのことなんだけど……」
その言葉を口にした瞬間、ルーカスの目がわずかに見開かれた。
続きを紡ごうと唇を開きかけた時、視界に入ったランプを持つ彼の手のひらに、視線が引き寄せられてしまった。
そこには、最近の猛特訓で新しくできたであろう、痛々しいマメや、小さな擦り傷がいくつも刻まれていた。そしてよく見れば、ランプの光に照らされた彼の顔には、連日の鍛錬と勉強の疲労が色濃く滲んでいた。
(近衛騎士になるために、血の滲むような努力をしている彼に、気を遣わせたくない)
「……いや、なんでもないわ」
喉まで出かかっていた「パートナーになってほしい」という言葉をゴクリと飲み込んだ。
そして、とびきり明るい声を張り上げた。
「剣術の試験、応援してるね!」
「え……?」
「毎日すごく遅くまで鍛錬しているんでしょ?無理しすぎないようにね。試験が無事に終わったら、お疲れ様会を開きましょう!私、とびきり美味しいお茶を淹れるわ!」
胸の前で両手をきゅっと握り合わせて明るい笑顔を作ってみせると、ルーカスは一瞬だけ呆然とした後、まるで全て察したように柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう。君は本当に、優しいね」
「そ、そうかな」
「リリアも、自由研究頑張って。……落ち着いたら、一緒にお茶を飲もう」
今はまだ、この心地よい距離のままでいい。
夜の温室で、私たちは互いの健闘を祈りながら、その言葉の奥に隠した本当の想いにそっと蓋をしたのだった。




