第十六話 成長
「全く、誤解だったのですよ、ヴィクトル様。旦那様と奴隷の方との間の問題でしたら、何の問題もありません。どうぞ、お帰りください」
目の前に立つ、温厚そうな顔立ちの兵隊長が、ヴィクトルに笑顔を向け、牢獄の外へと続く道を開けた。
ヴィクトルの漆黒のスーツは泥に汚れ、無残な姿を晒していた。彼は軽く衣服を払い、背後のラファエルと奴隷商人に目をやった。
先程、街中でラファエルと戦闘になった際、クケン市の兵士に身柄を拘束されてしまったのだ。幸い、事の経緯を説明したところ、兵士たちは事情を理解し、彼らを解放してくれた……。
いや、正確には、クケンが事態を把握し、自ら駆けつけてくれたから、事は丸く収まったのだ。街の支配者である彼にとって、数人の人間を釈放することなど、造作もないことなのだから。
しかし、ヴィクトルは、人に借りを作ることを好まない。今日一日、クケンの世話になった上、午後の騒動では、更なる迷惑をかけてしまった。紳士として、それは看過できない。
「手を煩わせたな、クケン」
「滅相もございません。私としても、旦那様をもてなすものが何もなく、僅かでもお役に立てたのなら幸いです。そういえば、竜人種の奴隷を買い取るご予定でしたね? 先方は無償で譲ると仰っていましたが、それではやはり、旦那様にご迷惑がかかりますでしょう……。つきましては、私の方で代金を支払っておきましたので、どうぞ、奴隷の方をお連れ帰りください」
「……」
ヴィクトルは言葉を失い、僅かに笑みを浮かべた。ここで下手に恩を返そうとするのは無粋だろう。相手の厚意は素直に受け取り、後日、然るべき機会に恩返しをすればいい。
そう考えたヴィクトルは、クケンの申し出を甘んじて受け入れることにした。クケンに改めて別れを告げると、彼は馬車の中から笑顔で手を振って見送ってくれた。馬車が走り去ろうとした瞬間、クケンは突然、再び幕を引き上げ、先程までの朗らかな表情から一転、神妙な面持ちで告げた。
「そういえば、大変失礼いたしました。肝心なことをお伝えするのを忘れておりました……。旦那様がフィローン市を通られる際はお気をつけください。確かに風光明媚な街ではありますが、長居は無用かと……」
「ほう?」丁度帽子を被ろうとしていたヴィクトルは、クケンの口にしたフィローン市の名前に興味を惹かれ、問い返した。「何か注意すべきことでも?」
クケンは曖昧に笑い、言葉を濁した。
「私の杞憂かもしれません……。ただ、そこの領主は、少々変わった人物だと聞いております。旦那様のような才能ある人物を殊の外、気に入るかもしれません。そうなると、色々と時間を取られてしまうやもしれません」
「なるほど、承知いたしました」
ヴィクトルは改めてクケンに別れを告げ、クケンの馬車が街路の彼方へと消え去るのを見送った後、奴隷商人の元へと歩み寄った。奴隷商人は、幼い竜人種を繋ぐ鎖を手に、ひきつった笑顔を浮かべて立っていた。
「あ、あの、旦那様、こちらが奴隷と奴隷紋章でございます。ご査収ください」
ヴィクトルは奴隷紋章を受け取らず、代わりにラファエルを一瞥した。
「お前との取引の対価だ。処分はお前に任せる。ただし、手間取るな」
ラファエルは僅かに戸惑いながらも、急いで奴隷紋章の革紐を掴み、勢いよく引き千切った。奴隷商人は、奴隷紋章が破棄されるのを見て、僅かに眉をひそめたが、何も言わずに、繋いでいた幼い竜人種の鉄鎖を地面に落とした。そして、ヴィクトルたちに深々と頭を下げ、逃げるように去っていった。
ラファエルは、傷だらけの幼い竜人種を見下ろした。しゃがんで同じ目線になろうとしたが、左足の傷が酷く痛み、僅かに腰を屈めるだけに留めた。竜語で優しく問いかける。
「名前は? どこの部族?」
「……キュール……。北枝の……森で、お母さんと喧嘩して、飛び出しちゃった……」
竜人部族の間でも、僅かに訛りがあるようだ。ヴィクトルは、幼い竜人種の言葉遣いに、僅かな文法的な差異を認めた。
「そうか……」
ラファエルは、傍らで何も言わずに立っているヴィクトルを見た。彼のスーツは、先程とは見違えるように綺麗になっている。先程、彼が……自分を抱き上げたせいで、泥だらけになってしまったのに。そう思うと、何故か言い出しにくくなってしまったが、意を決してお願いした。
「この子を、街の外まで送ってくれませんか? 私たちがここを発つ時に……」
ヴィクトルはラファエルを一瞥し、僅かに笑みを浮かべた。
「罰を二倍にすると約束したお前の頼みだ。気分が良いから、明日の出発時に、街の外まで送って行くとしよう。ただし、今夜の食料は、お前の分から分け与えるんだな……。今は、私と共に宿に戻る。身体と衣服を洗い清めるぞ」
人間の男の口調は相変わらず意地悪だが、ラファエルは今回は素直に頷いた。傷ついた左腕を庇いながら、幼い竜人種に振り返り、優しい声で告げた。
「大丈夫。明日には、お家に帰れるから」
……
……
馬車があるのだから、本来なら宿を借りる必要などない。しかし、今は着替えと身体を洗い清めることが最優先事項だった。旅先では、何かとお金がかかるものらしい。
「……どうして、部屋を一部屋しか予約しなかったんですか?」
ラファエルは湯船に浸かりながら、湯気が立ち込める浴室で、唐突に問いかけた。木の仕切りの向こう側、もう一つの浴室から、ヴィクトルの声が聞こえてきた。
「風呂に入るだけなら、二つ浴室があるこの部屋が最適だろう?」
決して、節約などという滑稽な理由ではない。ただ、今ある資源を最大限に活用するためだ。
先程、馬車に戻り、身なりを整え、夕食を済ませ、泥だらけになった荷物を整理した後、ヴィクトルは身体を洗い清めるために宿の部屋を予約した。ついでに、洗濯物をメイドに渡し、クリーニングを依頼した。当然、追加のチップが発生する。
「お風呂、あがりました……」
ヴィクトルの返事を聞いて、ラファエルは小さく呟いた。木の仕切り一枚隔てているだけとはいえ、やはり落ち着かない。
背後から赤い尾が水面から現れた。彼女は俯き、腕の傷口を見つめた。痛みは依然として残っている。ふと、理解できない感情が湧き上がる。なぜ自分は、あれほど全力でヴィクトルを殺そうとしたのに、彼はまるで何事もなかったかのように、まるで気にも留めていないのだろうか。
自分が弱すぎるから、彼の目には、自分の刺殺が、ただの子供の戯れにしか映らなかったのだろうか?
彼のような人間が、子供の遊びに感情を揺さぶられるはずがない。
ラファエルは立ち上がり、傍らに用意された『バスタオル』という布で、丁寧に鱗を拭き始めた。背中を拭いていた時、ふと、僅かに息を呑んだ。傷口ではない。鱗が剥がれているわけでもない。なのに、痺れるような痛みが走ったのだ。
まるで、何かが成長しているかのようだ。
それは、竜人種が成人に近づいている証だった。成人の儀式を終えれば、身体能力は完全に覚醒し、その部分の鱗は、鎧のように硬質化する。
もし部族にいたら、母は盛大な成人<
はい、承知いたしました。第十六章の翻訳の続きを以下に示します。
儀を執り行ってくれただろうに……。
もっとも、人間に捕らえられていなければ、きっと盛大な儀式など真っ平御免だっただろうけれど。
ラファエルは小さく口角を上げ、そう思った。
「コンコン……」
突然、扉をノックする音が響き、ラファエルはびくりと肩を跳ね上がらせた。思考の海から無理やり引き戻される。
「終わったか?」
「……」ラファエルは慌てて麻の粗末な衣服を身につけながら、返事をした。「終わったわ。何よ?」
「忘れたのか? 今夜は罰の時間だろう……」
ラファエルの衣服をまとう手が、僅かに動きを止めた。




