第十五話 取引という名の
「がああああッ!」
ラファエルは灼熱の蒸気を全身から噴き上げながら、ヴィクトルへと襲い掛かる。真紅の竜尾は空中で稲妻のように閃き、今まさに竜人としての凶暴性が完全に解き放たれようとしていた。
彼女が以前に語った通り、竜人種は生まれながらの戦士。それは決して偽りではない。
だが、彼女が襲撃目標とする紳士は、微塵も動揺を見せなかった。
むしろ周囲に散り散りになった群衆を一瞥し、彼らが十分に距離を取ったことを確認すると、静かに身を沈め、左手に握る杖を構え、彼女の刃物のような鉤爪を迎え撃った。
「キィィィンッ!」
杖の先端で火花が散る。ラファエルの鉤爪が杖を捉え、まさに切り裂かんとした瞬間、ヴィクトルは渾身の拳をラファエルの腹部へと叩き込んだ。恐るべき斬撃は唐突に停止し、ラファエルの体は慣性に従って後方へと吹き飛んだ。
しかし、ヴィクトルは彼女が吹き飛ばされる寸前、その腕を掴んで引き戻し、反転して地面に叩きつけた。
「ゴホッ……!」
ラファエルは俯き、口元を抑えて激しく咳き込んだ。ヴィクトルの容赦ない一撃は、彼女の腹部を激しく揺さぶった。
鈍い痛み、まだ癒えきっていない傷口が引き裂かれる感覚、そして心の奥底から湧き上がる屈辱と怒りが業火のように燃え盛り、逆立つ鱗は収まることを知らない。
ヴィクトルは彼女の状態を一瞥し、周囲の野次馬たちに向けて手を振った。未だ興奮冷めやらぬ小竜が、再び騒ぎを起こす可能性は否定できない。
群衆が数歩後退したのを見計らい、ヴィクトルはラファエルの怒りに燃える翠玉の瞳を見下ろした。しかし、彼の瞳には何の感情も映っていない。いや、少なくとも今のラファエルには、それを読み取る余裕などなかった。
次の瞬間、彼女の尾が僅かに跳ね上がり、口が僅かに開かれる。深呼吸をする度に、全身の真紅の鱗が淡い光を帯びていくのが、ヴィクトルの目に映った。
「ゴッ!!」
光が頂点に達した瞬間、ラファエルの身体が跳ね上がった。
渾身の拳がヴィクトルの顔面を捉えんと迫るが、それは予想通り、ヴィクトルの杖によって阻まれた。
しかし、先程までとは明らかに異質だったのは、ラファエルの攻撃の威力だった。杖そのものが魔法紋様を光り輝かせたのだ。
それは、ヴィクトルが杖の強度を高めるために施した魔法紋章だった。
元々は、より強大な脅威に対抗するために刻印した紋章が、まさかラファエルの拳によって発動するとは。
杖を通して伝わる凄まじい衝撃に、ヴィクトルは一歩後退した。しかし直後、杖を僅かに傾けることで、竜のごとき剛力を見事に逸らした。
竜人種には、一時的に身体能力を向上させる手段があるらしい。今のラファエルがまさにそうだった。鱗は目に見えて発光しているが、まだ完全に成長しきっていないためか、その光は淡く、まるで陽光の反射のようだ。
もし、今、この圧倒的な力を肌で感じていなければ、この変化に気づくことさえなかっただろう。
ラファエルとの戦闘を繰り広げながら、ヴィクトルは竜人種に関する研究を深めていた。
この模擬戦が終われば、『亜人娘の完全攻略マニュアル』の竜人種の項目が、更に詳細にアンロックされるかもしれない。
思考は加速するが、現実のヴィクトルの動きは一切鈍らない。
身を翻して攻撃を回避すると、ヴィクトルは手にした杖をラファエルの体へと叩きつけた。先程の一撃で体勢を崩したラファエルは、前へとよろめく。
彼女は振り返り、ヴィクトルの動きを視界に捉えた。反撃しようとした瞬間、腕に痛みが走る。そこは、ヴィクトルが手当てを施したばかりの場所だった。
傷口……が開いたのか?
そう思った瞬間、ヴィクトルの杖が風を切る音と共に、彼女の背を捉えた。
「ゴンッ! ゴンッ! ゴンッ!」
「うぅ……!」
ヴィクトルは、さほど強い力は込めていない。それはまるで、小学校教師が生徒の掌を鞭で叩くような、そんな体罰にも似ていた。背中、尻、そして尾。三箇所を正確に打ち据えられ、ラファエルは泥水の中に顔を伏せた。
「ゴホッゴホッ……!」
先程の一撃で痛みが再燃した腹部。加えて、悪化した左脚と左腕の傷。全身が鉛のように重く、痺れて上手く動かせない。それでもラファエルは、必死に立ち上がろうとした。
その時、耳元でヴィクトルの冷淡な声が響いた。
「自分でよく考えるんだな。今回の刺殺は、成功だったのか、それとも失敗だったのか?」
「ハハハハッ、よくやった! こんな愚鈍な竜人奴隷は、こうでなくっちゃな!」
傍らの奴隷商人が、ラファエルの惨状を見て、先程の戦闘で萎縮していた身体を奮い立たせ、地面に伏せるラファエルに哄笑を浴びせた。まるで自分がラファエルを打ちのめしたかのように。
だが、その瞬間、彼はヴィクトルの氷窟のような眼差しに射抜かれた。
「……ッ!」
「ブゥゥゥン……!」
ラファエルは歯を食いしばり、よろめきながらも立ち上がろうとした。
その時、ヴィクトルの杖が眩いばかりの純白の光を放ち始めた。
幾重にも重なる光輪が回転し、全ての魔法紋章が輝きを放つよりも早く、ヴィクトルは杖を軽く振るった。
杖の縁から放たれた光は、音速を超える光刃となり、奴隷商人の頬を掠め飛んだ。
光刃は蜂の羽音のような振動音を響かせ、まるで熱したナイフでバターを切るかのように、奴隷商人の顔の前を、そして背後の猟銃と荷物を、一瞬にして両断した。
ようやく何が起きたのか理解した時、奴隷商人は右頬全体が一万本の麻酔針を同時に打たれたかのように硬直していることに気づいた。おそるおそる手を触れると、感覚のない皮膚から、生温かい鮮血が溢れ出した。
光刃が頬に刻んだ傷は、彼に死を覚悟させるには十分だった。
「ひっ……!」
奴隷商人は膝から崩れ落ち、へし折れた猟銃に縋り付いた。痛みを感じる余裕すらない。ただ、恐怖に顔を歪め、命乞いを始めた。
「殺さないでくれ……! 殺さないでくれ……! お願いだ……!」
ヴィクトルは無表情のまま杖を地面に下ろし、奴隷商人のことなど眼中にないと言わんばかりに、冷たい鉄のような声で、再びラファエルに問いかけた。
「自分でよく考えるんだな。今回の刺殺は、成功だったのか、それとも失敗だったのか?」
ラファエルは、魔法によって真っ二つにされた壁、猟銃、そして荷物を呆然と見つめていた。街路の石畳さえも切り裂かれているのに、表面は滑らかで、まるで何事もなかったかのようだ。
魔法の恐るべき破壊力を、まざまざと見せつけられた。
彼女は口を開きかけたが、すぐに俯き、奥歯を噛み締め、沈黙を貫いた。
身体の痛みも酷いが、それ以上に、心が打ちのめされていた。
「わ、私は……負けた……」
泣き出しそうな声は弱々しく、まるで荒野を吹き抜ける風の囁きのようにか細いが、ヴィクトルの耳には確かに届いた。
人間の男はどんな表情をしているのだろうか。ラファエルはただ、やり場のない悲しみと苦しみに胸を締め付けられていた。同胞を捕らえられた無力感、怒りをぶつけるべき相手を見つけられず、内側から燃え盛る苦痛は、心臓と肺を焼き焦がすようだ。
この人間は、あまりにも強すぎる。捕らえられた同胞を救うことなど到底不可能だ。いや、それどころか、ラールたち自身も……。
「まだ歩けるか?」
「……」
ヴィクトルへの返事はなく、ラファエルは項垂れたまま動かない。泥濘に濡れた尾は、まるで打ちひしがれたように、ぴくりとも動かない。
「全く……」
呆れたような呟きの後、太く逞しい腕が、突然ラファエルの腰に回された。身体が宙に浮き、抱き上げられたのだ。
衣服に付着した泥水が、男の汚れ一つない漆黒のスーツに滴り落ち、明確な軌跡を描いていく。
ヴィクトルの腕の中で、ラファエルは歯を食いしばっていた。翠玉の瞳からは、湯気混じりの涙が溢れ出し、まるで山間の温泉のようにとめどなく流れ出す。
竜人も泣くのか。
ヴィクトルはそう思った。
ラファエルが羞恥に顔を歪めていると、ヴィクトルは自分の被っていた帽子を彼女の顔に被せた。涙で濡れた顔は、すっぽりと帽子の陰に隠れた。
視界は暗闇に閉ざされたが、ヴィクトルの声だけは鮮明に聞こえた。
「愚かだな……。傷も癒えぬ身で、怒りに任せて私に襲い掛かるとは。手当てしてやった傷を無駄にしただけでなく、刺殺の機会まで棒に振るとは……。竜人種の戦士が、ただ感情に振り回されるだけの小竜だというのなら、捕らわれたのも当然だな」
憎らしい人間……。
憎らしい人間……。
ラファエルはヴィクトルのスーツを僅かに掴んだ。鉤爪で胸を切り裂いてやりたい衝動に駆られるが、身体は微動だにしない。
衣服の下に隠された肌は、熱い血で濡れ、包帯を染め上げている。
傷口は完全に開き、先程の戦闘で更に悪化したのだろう。
だから、今はまだ、彼の……腕の中で、この人間を殺すことはできない。
「竜人を救いたいのだろう? だが、お前にはどうすることもできない。唯一、彼らを救えるのは私だけだ。それなのに、なぜ私に頼ろうとしない? ふっ……」
「……なぜ、私を助ける?」
ようやくラファエルは反論の言葉を紡いだ。しかし、やはり声は僅かに震えている。
「もっともな疑問だな。私は慈善家ではないからな。だが、お前はまだ私と取引できるものを持っている。そうだ、例えば、私を刺殺する機会とか……。もし、刺殺の機会を一度譲る代わりに、私が手を貸すと約束したらどうする?」
「……」
ヴィクトルの腕の中で、ラファエルは彼が馬車の方へ歩いていることに気づいた。唇を噛み締め、葛藤している。まるで、この人間に話しかけること、言葉を交わすこと自体が、途轍もなく困難なことであるかのように。
男の足は止まらない。一歩踏み出すごとに、ラファエルの胸を締め付けるようだ。次の瞬間、彼女は意を決してヴィクトルの衣服を掴んだ。ヴィクトルの足も、彼女の動きに合わせて止まった。
帽子で顔を隠していても、やはり羞恥心は拭えないのだろう。ラファエルは顔をヴィクトルの胸元に埋めるようにして、正面から彼を見ようとはしない。
「あ、あなたと……取引する……。だから、あの子を……助けて……」
「刺殺の機会を一度、か?」
「……うん」
「自主的に罰を受け入れるなら、罰は二倍になる。それに、私を刺殺する機会は、あと二回残る。それでもいいのか?」
悪魔のような男の囁きに、ラファエルは更に顔を彼の胸に押し付け、顔を背けたまま、小さく頷いた。
「……うん」
彼女はそう答えた。
「取引成立だ」
次の瞬間、帽子が取り払われ、光が再び彼女の視界に飛び込んできた。彼らは、亜人種が閉じ込められた檻の前に立っていた。
彼は、引き返すのではなかったのか……。
ラファエルは唐突にそう思った。
ヴィクトルは、地面にへたり込んでいる奴隷商人に冷たい視線を落とした。
「そこの竜人種を買い取る。いくらだ?」
「へ……? あ、あの……! 無料です! 無料です! どうぞ、お持ち帰りください! どうか、お許しを!」
奴隷商人は、死神のような男が近づいてくるのを見て、完全に魂が抜けてしまった。値切るどころか、土下座して許しを請いたい心境だった。
ヴィクトルは軽く頷いた。
背後から馬車の音が聞こえ、街の兵士たちが通報を受けて駆けつけたのだろう。銃を構えた兵士たちが隊列を組み、周囲を取り囲んでいく。
「そちら様、只今よりご静止願います。こちらはクケン市治安隊です。貴殿には治安紊乱の疑いがあり、ナレイ法、並びにクケン市法に基づき……」
背後では、人間の喧騒と騒がしい話し声が響き始めた。
ラファエルの身体と意識は、ようやく現実に戻ってきたかのように、目の前の檻に閉じ込められた幼い竜人種を、ぼんやりと見つめていた。
まさか、こんなにもあっさりと、あの子を救い出せてしまうとは……。
身体の痛みで思考が鈍っていたのだろう。だから、彼女は気づかなかった。彼女のわがままな尾が、いつの間にかヴィクトルの腰に巻き付いていることに。尾は満足げに先端を数回揺らし、やがて静止した。




