第十話 ケケン
ヴィクトルは、門の前で煙草に火をつけた。
仕立ての良い黒いスーツに、若々しくハンサムな容姿。その佇まいは、周囲の馭者たちの視線を釘付けにした。彼らは、一体どんな名門貴族であれば、このような紳士が馭者などという役目を甘んじて引き受けるのだろうか、と内心首を傾げた。
様々な憶測が彼らの脳裏を駆け巡ったが、ヴィクトルはそれを知る由もなかった。
煙草を吸い終えるほどの時間も経たないうちに、馬車のドアがゆっくりと開かれた。中から現れたのは、質素なワンピースだった。色は地味だが、仕立ては上品で、淑女の装いと呼ぶにふさわしい。
もっとも、スカートの裾から覗く竜の尻尾と、彼女の大胆な立ち姿を無視できればの話だが。
「よく似合っている。どうやら、私のデザインセンスは、まだ錆び付いていないようだ……」
ヴィクトルは、自分の姿をじっと見つめているラファエルを値踏みするように見ながら、そう評価した。
しかし、竜人の頭脳では、人間の服に対する嗜好を理解することは難しいらしい。彼女にとって、この服は鎧よりも複雑で、たっぷりの布地は、彼女の尻尾を自由に伸ばすことさえ許さない、邪魔なものに過ぎなかった。
「やはり、尻尾がどうにも落ち着かない。」
やはり、人間のセンスは最悪だ。
彼女が再び尻尾を持ち上げ、背後のスカートを不自然に膨らませようとするのを見て、ヴィクトルはうんざりした表情で彼女の背中を指差した。
「尻尾は動かすな。下に垂らしておくんだ……。この服は、お前にとって最も適切な服だ。それに、戦闘能力を損なうこともない。お前の傷が治れば、全力疾走もできるようになるだろう。おそらく、明日か明後日には……。」
「だが、もし今日、我慢できずに手を出したいというのなら、それも受け入れてやろう……。」
「下着は、ちゃんと着けたんだろうな?」
ヴィクトルの視線が、スカートの間から垂れ下がる彼女の尻尾に向けられた。
なぜか、ラファエルは彼の口調から、ある種の期待のようなものを感じ取った。これは、もしかすると、何か罠が仕掛けられているのではないか、という疑念が彼女の胸をよぎった。
「下着……とは、何のことだ?」
ラファエルは、ヴィクトルを一瞥し、やや戸惑った様子で尋ねた。
「……」
ヴィクトルは、何も言わず、両手の食指を伸ばし、目の前の空間に三角形を描いた。
そして、真顔で彼女を見つめた。
ラファエルは、口をパクパクさせた。まだ状況が飲み込めていないようだ。その直後、彼女の尻尾が突然跳ね上がり、大声で叫んだ。
「着けている! ちゃんと着けています! あなたの説明書に書いてあったでしょう!」
彼女は、顔を赤らめて怒鳴った。再び服の中から蒸気が噴き出し、その耳障りな音は、馬繋ぎ場で昼寝をしていた馭者たちを驚かせ、顔を上げさせた。
「そうか、それならいい。さあ、行くぞ。」
ヴィクトルは、口元をわずかに緩め、帽子を被り直し、ステッキを手に、外へと歩き出した。
この人間……。
ラファエルは、奥歯を噛み締めた。自分をからかうヴィクトルに対し、どうしようもない怒りを覚えた。
今になってようやく、彼女はあの人間の、冷静な仮面の下に隠された悪魔のような魂に気づいた。
実に、不愉快極まりない男だ。
彼女がまだ身動きを取らないうちに、前を歩く男は、何も言わずに指をパチンと鳴らした。すると、背後の馬車が再び紫色に輝き、車体全体を光の壁で隔離した。まるで、彼女に早く歩き出すよう促すためだけの、無言の催促のようだった。その光景に、ラファエルはまたしても驚かされた。
傷が癒えたら、必ずあの男を殺してやる!
ラファエルは、目の前の憎き人間を必ず仕留めてやると、心の中で固く誓った。そして、尻尾を揺らしながら、目の前の男の後を追った。
……
……
馬繋ぎ場から外へ出ると、ヴィクトルの足取りは速かった。彼は、道行く人々をすり抜け、どんどん先へ進んでいく。
すれ違うのは、新聞売りの少年、兵士、そして、先ほど馬車で見かけた宿の小僧たち。
周囲は、まだ建設工事の真っ只中で、道は泥濘にまみれていた。時折、馬車の揺れる音、人々の話し声が耳に飛び込んでくる。
まだ昼だというのに、道端の二階建ての建物のバルコニーには、寝間着姿の女たちが、だるそうに身を凭れていた。彼女たちの白い薄絹のドレスは、胸元を辛うじて覆っているだけで、鎖骨と肩を惜しげもなく露わにしている。
煙管をくゆらせていた女が、道行くヴィクトルの姿を認めると、まるで獲物を狙う鷹のように、その瞳を輝かせた。上品な身なりで、顔立ちも整った紳士は、彼女たちにとって常に最高の獲物なのだ。
ロマンチックで快楽に満ちた夜が約束され、相応の報酬も期待できる。
そこで、彼女はバルコニーに飾られたバラの花を一本、そっと手折ると、ヴィクトルが通りかかるタイミングを見計らって、そのバラを放り投げた。
下の道にいたヴィクトルは、何か気配を感じたのか、手を伸ばして落ちてきたバラを受け止めた。彼は、帽子の鍔をわずかに上げ、二階のバルコニーに目をやった。ちょうど、彼にウインクを送る金髪の女と目が合った。
ヴィクトルは、女に向かってバラに軽く口づけをし、紳士らしく丁寧に挨拶をした。バルコニーの女は、頬を赤らめ、手にしていた煙管を危うく二階から落としそうになった。
「なんて優しい紳士なの。本当に、残念だわ……」
バラの花を手に、歩き去っていくヴィクトルの背中を見送りながら、彼女はそう思った。
さらに遠く、すでに店先に着いていたラファエルは、呆れた表情で、品定めをしているヴィクトルに問いかけた。
「それで、これがあなたたち人間の、求愛の仕方なのか?」
ヴィクトルは、店で売られている果物を手に取り、その匂いを確かめてから、答えた。
「求愛?」
傍らのラファエルは、露骨に軽蔑した表情を浮かべていた。その様子が面白かったのだろう。
彼は、手にしていた果物を店員に渡し、他の果物をいくつか指差して言った。
「これは求愛ではない。あれは、客引きの常套手段だ。」
「彼女にとって、私は少しばかり特別な客なのだろう。私の外見と服装から、彼女は私を利用すれば、それなりの見返りが得られると考えている……。」
「彼女は、毎日何人もの男に、同じようなことをしているはずだ。そのうち、一、二人が彼女に惹かれて二階へ上がり、一夜を共にする。そして、言い値で金を巻き上げられる……」
ラファエルは、口をパクパクさせ、ひどく驚いた様子で言った。
「ちょっと待て。まさか……彼女は、そのようなことをするのか? しかも、とても……多くの男と?」
「お前の言う『そのようなこと』が、もし私の理解と同じ意味であるならば、答えはおそらくイエスだ。」
ヴィクトルは、代金を支払い、果物と花を全てラファエルの手に押し付けた。彼女を、一時的な物置代わりに利用したのだ。
しかし、彼女はまだ先ほどの話に衝撃を受けているらしく、それに気づいていない。ラファエルは、全身をゾクゾクと震わせた。まるで、人間に鳥肌が立った時のように、不快感を露わにした。
手にしたバラの花さえも、拒絶反応を示すかのように、まるで目に見えない何かによって汚染されているかのように感じられた。
ヴィクトルは、彼女を気にも留めず、ステッキを手に、再び歩き出した。
果物の他に、彼は、馬車に積んでいるものと同じ、火を起こす魔法道具も手に入れたかった。しかし、南大陸では、そのようなものは不足しているらしく、街で唯一の魔法商店でさえ、使い捨ての魔法道具と魔法素材をわずかに販売している程度だった。
仕方がない。自作するしかないか。
魔法道具を作るのは、非常に困難で、時間もかかる。
もし、必要でなければ、ヴィクトルは絶対にそんなことはしたくなかった。だが、あの女を追い出してしまったのは、他でもない自分自身だ。もっと色々と作らせておけばよかった。
ちょうど、彼女に借りを作らせたままだったのに。
ヴィクトルは、魔法素材を抱えたラファエルと共に店を出ると、次の話題に移った。彼女の仲間たちのことだ。
本当に竜人たちに興味があった、というのも理由の一つだが、最も重要な目的は、ラファエルに喋らせ続けることだった。そうすれば、彼女は自分がずっと荷物持ちをさせられていることに気づかないだろう。
まさに、一石二鳥の作戦だ。
最初は、ラファエルも警戒心が強く、口を開こうとしなかった。だが、ヴィクトルが人間世界の出来事をいくつか話して聞かせると、彼女はヴィクトルの情報提供への見返りとして、彼女たちの部族の、どうでもいいような話をいくつか話し始めた。
とりわけ、ラールのことについて。
「ラールという子は、あの子たちの家で一番下の子なの。それに、十一人の兄弟姉妹の中で、一番のいたずらっ子なのよ。」
「十一人!」
「ええ……。あの子たちの家は、私たちの部族の中で、一番子供が少ない家系なのよ。ラールがいなくなったら、きっと彼女のお母様はとても悲しむでしょうね……」
「一番少ない......」
亜人研究に長年携わってきたヴィクトルでさえ、この突拍子もない内容を聞いて、思わず目を瞬かせた。ひどく驚いた様子だった。
「ヴィクトル様! ヴィクトル様! 少々お待ちください!」
ヴィクトルとラファエルがちょうど大通りに入り、話題がいたずらっ子のラールから、いつの間にか出産問題へと移行した時、背後からナリ語の男の声が大きく響いた。
ヴィクトルが振り返ると、一台の豪華で控えめな馬車が、彼らの傍らに停まっているのが見えた。馬車の窓が開けられ、中から聖ナリ風のスーツを着た、薄い顎鬚を生やした、興奮気味の若い男が顔を覗かせた。
「あなたは?」
「やはり、あなた様でしたか! 私はケケンと申します。聖ナリ王立学院の卒業生で、あなた様の二期後輩にあたります!」
相手がヴィクトルだと分かると、スーツを着た顎鬚の男は、ますます興奮した様子で、前の御者を追い越して馬車から飛び降りてきた。
聖ナリ王立学院の学生、だと? 自分の大学時代は、そこで過ごし、学位もそこで取得した。それに、一応、それなりに名の知れた人物だ。そこの後輩が自分を知っていても、不思議ではない。
「なるほど、そういうことでしたか。お初にお目にかかります……。何か、私に御用でしょうか?」
「ぜひ、あなた様を昼食にご招待させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
ヴィクトルは、彼の手を握った。だが、次の瞬間、彼はヴィクトルの手を掴んだまま離さず、ぶんぶんと揺さぶりながら、懇願してきた。
彼の尋常ならざる熱意に、ヴィクトルは少々手を焼いていた。顔の表情も、少しばかり引きつっている。後ずさりしようとしたが、掴まれた手が邪魔をして、身動きが取れない。
待てよ……。
ケケン?
ここは、ケケンの街、だったか?
まさか、こいつが、この街の城主なのか?
目の前の興奮して顔を赤らめているケケンを見て、ヴィクトルは何かを悟った。そして、ケケンが握りしめている自分の手をそっと引き抜くと、傍らの、状況が飲み込めず戸惑っているラファエルに視線を送り、頷いて承諾した。
「お招き、ありがとうございます。ちょうど、私もあなたにいくつかお尋ねしたいことがありましたので、渡りに船です。」
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