160話:従順な心、愛に惑わされて
夜は静かに更けていく。
ヒナが外出してくると言ってノアの家を出て行った後、ノアは身体に残る寂しさと甘えから、無意識にリオンの部屋へと足を向けていた。
リオンはシーツに身を沈め、ゆっくりと穏やかな呼吸を繰り返していた。昼間の飄々とした態度とは打って変わり、無防備な寝顔にはどこか幼さすら滲んでいる。長い銀髪が枕に広がり、毛先の紫が淡い光を受けて霞むように見えた。
「……リオくん……」
小さく呟きながら、ノアはそっとシーツを握りしめた。胸の奥がじくじくと熱を持ち、息を吐くたびに下腹部が切ない痛みに襲われる。
発情期。
それは半年に一度、否応なく訪れる生理現象だった。抑制剤があれば耐えられる。けれど、今はそれも手に入らない。
「……苦しい、よ……。」
ノアは膝を抱えたまま、そっとリオンの顔に顔を寄せた。鼻先をリオンの首元にすり寄せ、ふわりと立ち昇る香りを胸いっぱいに吸い込む。
──悪魔のフェロモン。
ノアはそう呼んでいた。この甘くも鋭い香りに触れるだけで、体の疼きが一層強くなる。喉の奥が焼けるように乾き、心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。
「……好き……。」
ぽつりと漏れた言葉に、自分で驚く。
好き、なんて。昔はよく言っていた言葉なのに。
けれど、今はずっと言えなくなっていた。リオンがもう、そういう言葉を求めていないことを知っているから。
「抱きしめて、欲しいよ……。」
細い腕が、リオンの胸元を探るように伸びる。けれど、触れる寸前で止まる。
──待て。
耳元で、過去のリオンの声が蘇る。
『今はダメ。待て、ノア。』
その一言に、どれだけ心を縛られてきただろう。
「……もう、やだ……。」
喉の奥から嗚咽が漏れそうになるのを堪えながら、ノアは自分の身体を抱きしめた。抱きしめることで、少しでもこの熱を鎮めようとするかのように。
けれど、それでは足りない。
唇を噛み締め、ノアはゆっくりと下腹部に手を滑らせた。
「……っ……リオ、くん……。」
声を押し殺し、薄く汗ばんだ額をリオンの肩に押し付ける。指先が敏感に反応し、背筋を震わせるたびに涙が滲んだ。
リオンは、微動だにしない。
「……すき……こんなの、嫌なのに……。」
犬のように鼻をすり寄せ、リオンの胸元に顔を埋める。耳の奥で心臓の鼓動が響く。あたたかくて、強い音。
「おれ、役に立てるなら、それでよかったのに……。」
そう思おうとするたび、心がひび割れていく。
──役割を超えた、この気持ちは何?
犬の獣人としての本能か、エルフの血が求める心の繋がりか。
答えは出ない。
ただ、夜は静かに更けていく。
一時的な慰めを終え、ノアは涙をこぼしながら孤独な温もりの中で、ただひたすらにリオンの存在にすがり続けた。
沈黙を貫いていたリオンは目を開き、気だるげに目を細めてノアの髪を静かに撫でた。
「……ノア。」
その呼びかけに、うとうとしていたノアが、ぼんやりと瞼を持ち上げる。
「……リオ、くん?」
「役に立ってるよ。お前は、十分すぎるくらいに。」
ノアの桃色の瞳が大きく揺れる。まるで、信じられないものを見たかのように。
「……ほんと?」
リオンは肩をすくめて、少しだけ唇の端を持ち上げた。
「嘘ついてどうすんの。バカ。」
ノアは、安堵したように微笑むと、そのままリオンの胸に顔を埋める。
「……なら、もう少しだけ、そばにいてもいい?」
「勝手にしなよ。」
小さな寝息が聞こえ始める頃、リオンは静かに目を閉じた。




