156話:甘い香りの居場所
156話:甘い香りの居場所
室内は外観同様、こぢんまりとしていながらも温かみのある空間だった。
ノアが玄関でパーカーを脱ぎ、黒いタンクトップ姿になると、ヒナは思わず視線を逸らした。
タンクトップ越しにわずかに浮かぶニップルピアスの凹凸と、引き締まった腹筋が視界に飛び込んできたからだ。
タンクトップは短めで、細い腰に引き締まった腹筋、そしてきれいな形のおへそが無防備に露わになっていた。
薄い布地の裾が揺れるたびに、肌がちらちらと覗く。
まるで「撫でて」と言わんばかりに腹を見せる犬のような無防備さだった。
「あっ……えっと……。」
ヒナが戸惑いながら目を泳がせると、ノアはきょとんと首をかしげる。
「……? ヒナちゃん、顔赤いよ?」
「な、なんでもありませんっ!」
慌てて首を横に振るヒナだったが、気まずさを誤魔化しながら、ちらりと再確認するようにノアを見直した。
――柔らかなピンクの髪に、垂れ気味の桃色の犬耳に開けてあるピアス…、瞳は髪と同じ桃色で、下の方に淡く赤紫が溶け込んでいるように見えた。
尻尾はふわふわと落ち着きなく揺れていて、無邪気な表情がどこから見ても美少女のように見える。
けれど、タンクトップから覗く引き締まった腹筋やしなやかな腰のラインには、少女らしい柔らかさはない。
声も耳に心地よい中性的な高さで、決して低くはないが、ほんのわずかに男性的な響きを含んでいた。
(……えっと、男の子、なんだよね……?)
ヒナは心の中でそっと確認するように呟いた。
「あれ? ほんとにどうしたの?」
ノアが首をかしげながら近づいてくると、再びふわりと鼻をひくつかせる。
「……ヒナちゃん、すっごく強い甘い匂いがする。焼きたてのマドレーヌどころじゃない。まるで——イチゴのミルフィーユに、はちみつかけたみたいな甘さ?」
「え?」
ヒナが瞬きを繰り返す間に、ノアはにこっと笑い、ぽつりと呟いた。
「濃い香り。……ねえ、ヒナちゃん、リオくんと魔力譲渡してるんでしょ?」
「っ——!!」
「そう。今育ててるって話ししなかったっけ?」
リオンが肩をすくめると、ノアは目を細めて小さくうなずいた。
「リオくん、意外と面倒見いいんだよねぇ。優しいとこ、おれだけが知ってると思ってたのに。」
ノアは中性的で美少女に見える外見に加え、リオンへの態度が親愛そのものだ。「リオくんっ!♡」と無邪気に駆け寄り、リオンも邪険にせず自然に受け入れている。
ヒナは、リオンに甘えるノアの仕草を見て、心の奥がざわついた。
(こんなに可愛い子が、リオンさんに懐いてるなんて……。)
リオンも邪険に扱うどころか、親しげに受け止めている。その姿が、どうしようもなく胸に刺さる。
「……お腹空いてない? リオくん、どうせ朝から何も食べてないでしょ?」
ノアが尻尾をぱたぱたと揺らしながらリオンを覗き込むと、リオンは苦笑しながら首を振った。
「別に平気、そんなに腹も減ってない。」
「ダメ! リオくん、食に無頓着なんだから! ちゃんと食べないと、おれが困るんだから。」
「困るのはお前だけだろ。」
「リオくんが元気じゃないと、嫌だもん。ほら、座って待ってて。ヒナちゃんも!」
そう言って、ノアは軽やかな足取りでキッチンへと向かい、手慣れた動きで鍋を火にかけ始めた。
「ノアさんって、料理得意なんですね……。」
ヒナが驚いて呟くと、ノアは笑いながら肩をすくめた。
「リオくん、好き嫌いはないけど適当だからね。ちゃんと食べてくれないから、おれが料理覚えたの。最初は失敗ばかりだったけど……リオくんが『うまい』って言ってくれたときは、ほんとに嬉しかったなぁ♡」
「昔から世話焼きだよな、お前は。」
リオンは呆れたようにため息をつきながらも、どこか懐かしそうに目を細めた。
その言葉に、ヒナは胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
(……リオンさんにとって、ノアさんって特別な人なんだ……。)
自分が知らないリオンの一面を、目の前の可愛らしい獣人は知っている。親しげな態度も、信頼に裏打ちされた距離感も、ヒナには眩しく映った。
ヒナが言葉を探していると、不意に戻ってきたノアがテーブルに手をつき、そのまま伏せるようにぐったりと力を抜いた。
「ノアさん!?」
「……ん、大丈夫。ちょっと、力が入らなくなっただけ……。」
ノアは弱々しく笑いながら、ちらりとリオンを見上げる。
「発情期…入ってて…。抑制剤……切れちゃったんだよね。ミアちゃんの涙で作ってるやつ。」
「やっぱりか。」
リオンは腕を組み、険しい表情でノアを見下ろした。
「……ごめんね、ヒナちゃん。こんな個人的な話、気持ち悪かったら無視していいから……。」
「え、そ、そんな……!」
ヒナは戸惑いながらも、胸の奥がざわざわと波打つのを感じた。
「発情期」なんて繊細な話題に、どんな反応をしていいかわからず、ぎこちなく視線を彷徨わせる。
「ミアちゃんのお父さん、精霊王だったんでしょ? すごい力だよね。ミアちゃんの涙は色んな種族を助けてるんだ。」
ノアはぼんやりと天井を見上げ、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「現代の悪魔が比較的おとなしいのは聖水のおかげだし、悪魔の継続的な魔力譲渡のデメリット緩和のための精神安定剤にもなる。それに、ボクみたいな獣人の発情期を抑える抑制剤でしょ?」
「今はミアちゃんが眠ってるから、どれも希少な品だけど……たくさんの種族を救ってきたのは間違いないよ。」
その言葉を聞きながら、ヒナは夢の中のミアの微笑みを思い浮かべた。
(…あの人は、どんな意見や価値観も否定せずに受け入れてくれる、ボクもその不思議な魅力や言葉に癒されてた…。そんな力を受け継いでるからこそ、ああいう人柄なんだろうな…。)
ノアはふっと目を細め、尻尾をぱたりと床に落とした。
「……ミアちゃん、早く目を覚ましてくれないかなぁ……。」
リオンは無言でノアの頭をぽん、と軽く撫でた。
まるで「大丈夫だ」と伝えるような、優しい仕草だった。
その姿を見つめるヒナの心に、小さな棘が刺さったような痛みが走る。
(ボクは……リオンさんにとって、どんな存在なんだろう……?)
この家にいると、ノアとリオンの間に流れる信頼の空気が、ヒナにはどうしようもなく遠く感じられた。




