154話:揺らぐ境界
エリンは静かにヒナの手を包み込みながら、柔らかく微笑んだ。
「……今すぐ答えを出さなくてもいいよ。ヒナがどうしたいのか、ゆっくり考えてみよう。」
ヒナは唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……はい。」
胸の奥に渦巻く不安は、まだ完全には晴れない。
それでも、エリンの穏やかな声はヒナの心をわずかに軽くした。
「今日はもう休もう。お互い、少し頭を冷やしたほうがいいかもしれないね。」
そう言ってエリンは立ち上がり、ヒナの頭をそっと撫でた。ヒナはその優しい手の温もりに目を閉じ、安堵の息を吐いた。
「……おやすみなさい、ご主人様。」
「おやすみ、ヒナ。」
そうして、2人はそれぞれの部屋へと戻った。
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エリンが部屋で静かに窓の外を見つめていると、軽くノックが響いた。
「……開いてるよ。」
扉がゆっくりと開き、リオンが無造作に肩をすくめながら入ってきた。
「随分と真剣な顔してるね、エリン。」
「……少し、考え事してただけだよ」
リオンはくつくつと笑いながら、部屋の隅に寄りかかった。
「ま、そんなことだろうと思った。だから、ちょっと相談があってさ。」
エリンが眉を上げると、リオンはわざとらしく肩を竦めた。
「ヒナ、少し外に連れ出そうと思うんだけど……いいよね?」
「……外? どこに?」
「ノアの家だよ。あいつならヒナにとって悪い影響はないし、気分転換にもなるだろ?」
リオンの言葉に、エリンは少し考え込むように目を伏せた。
「……ヒナは、何て?」
「まだ言ってないよ。でも、拒むタイプじゃないでしょ、あの子は。」
「……。」
エリンは小さく息を吐き、窓の外の静かな夜空を見上げた。
「……リオン。ヒナを頼んでもいい?」
「もちろん。オレがちゃんと見てるよ。」
リオンは悪戯っぽく笑いながら、エリンの前に小瓶を差し出した。
「そうそう、これ。精神安定剤。ヒナの部屋から取ってきた。元々お前にやる予定だったやつだから、いざってときは飲みなよ。」
エリンは瓶を受け取り、僅かに苦笑した。
「……ありがとう。」
「…どーいたしまして。ヒナ、借りてくね。」
リオンは軽く手を振ると、部屋を後にした。
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翌朝、ヒナがリビングで紅茶を飲んでいると、リオンが椅子の背に腕をかけながら、からかうように口元を歪めた。
「ねぇヒナ、今から息抜きにデートでもしようか?」
「……えっ?!」
驚いて顔を上げるヒナに、リオンは唇の端を持ち上げる。
「冗談だよ。でも、ちょっと付き合ってくれない? 面白いもの、見せてあげるからさ。」
ヒナは戸惑いながらも、リオンの赤い瞳に見つめられると、断ることができなかった。
「……わかりました。ご主人様には伝えましたか?」
「もちろん。エリンから許可はもらってる。」
その言葉に、ヒナは安心したように頷いた。
「じゃあ、行きましょう……。」
リオンは満足げに笑い、軽くヒナの頭を撫でた。
「素直でいい子。行こう、ノアの家までね。」
ヒナが立ち上がると、リオンはさっと窓辺に歩み寄り、何の躊躇もなく窓を開けた。
「えっ……?」
「歩いて行くのは面倒でしょ? ほら、つかまって。」
リオンは軽やかに手を差し出し、ヒナをひょいっと抱き上げる。心の準備もないまま体が宙に浮き、ヒナは反射的にリオンの肩にしがみついた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
「待たないよ。しっかり掴まってて。」
ふわりと風が舞い上がり、2人の姿は朝靄に溶けるように空へと舞い上がった。
ヒナはリオンの首元にぎゅっとしがみつきながら、下を覗き込んで青ざめた。屋敷の屋根がどんどん遠ざかり、周囲の森の木々が一面の緑に変わっていく。
「……ノアさんの家って言ってましたよね。どんな方なんですか?」
必死に不安を誤魔化すように問いかけると、リオンは少し考える素振りを見せた。
「ノアは犬の獣人とエルフの混血。人懐っこくてうるさいけど、何よりおれに忠実。」
リオンは淡々と答えながら、風を切って進む。ヒナは腕の中で身体を小さくしながら、続きの言葉を待った。
「ヒナに渡した安定剤も、あいつが見つけてきてくれたし、ミアを探すのも手伝ってくれてる。……いい奴だよ。」
ふっと、リオンの口元が緩む。
いつもの皮肉めいた笑みではなく、どこか柔らかく、懐かしさを含んだ表情だった。
ヒナはその変化に驚き、思わずリオンを見上げた。
けれど、飛行中では顔を正面から確認することはできず、代わりに少し低くなった声音に優しさを感じ取るだけだった。
「……リオンさんが、そんなふうに言うのは珍しいですね。」
ヒナがぽつりと呟くと、リオンはくすっと笑い、腕の力を少しだけ強めた。
「へぇ? オレ、そんな冷たいイメージだった?」
「い、いえ……! そういうわけでは……!」
リオンは笑いながら、さらに高く舞い上がった。
ヒナは慌てて彼の服をぎゅっと握りしめる。
「大丈夫。ノアはお利口だからさ。オレが『待て』って言えば、ちゃんと従うよ。」
「……待て、って……犬じゃないんですから!」
ヒナは思わずムッとしたように眉を寄せたが、その表情にリオンは楽しげに目を細めた。
「いや、実際犬みたいなもんだよ、あいつは。半分、犬の獣人だしね。」
ヒナは呆れたようにため息をつき、リオンの首元に顔を埋めた。相変わらず、この人はからかうことにかけては容赦がない。
けれど、リオンの腕の中は不思議と安定していて、心地よい温もりがあった。冷たい朝の風に吹かれながらも、ヒナの胸に広がるのは不安よりも、わずかな期待だった。
──ノアという人物に会えば、何かが変わるかもしれない。
ヒナは、そんな根拠のない直感に身を委ねることにした。
「……どんな人か、楽しみです。」
ヒナの小さな呟きに、リオンはただ黙って空を滑るように飛び続けた。
ノアの方舟編




