149話:暴かれた罪と愛の間で
屋敷の玄関が開く音がした。
「……ただいま。」
控えめに響いたエリンの声が、静かな夜の空気を切り裂く。
──その瞬間、ヒナの意識は一気に冷めた。
身体の芯まで染み込んでいた熱が、まるで氷水を浴びせられたかのように引いていく。
リオンの腕の中で、ヒナははっと息を呑んだ。
──なんで、また……。
頭の中で、何度も繰り返す。
どうしてまたこんなことをしてしまったんだろう。
どうして、こんな言葉を口にしてしまったんだろう。
「……正気に戻った?」
リオンがどこか愉快そうに、けれど冷めた目で嗤う。
目尻をわずかに持ち上げ、ヒナの動揺を楽しむような顔だった。
「……っ」
ヒナは声にならない声を漏らし、逃げようとした。
けれど、組み敷かれた身体は、簡単には動かない。
逃げたくても、逃げられない。
そんなヒナの様子を見て、リオンは短く息を吐いた。
どこか考え込むような表情を浮かべ、手のひらを軽く動かす。
「……本当は、使いたくなかったんだけどね。」
淡々とした声。
指先が宙をなぞると、薄紅色の魔法陣が静かに広がる。
──洗脳。
リオンが本来なら決して使いたくない魔法。
「お仕置き、ってことで。」
ふっと口元に嗤いを浮かべながら、リオンは舌舐めずりした。
その瞬間、エリンの意識が遠のく。
虚ろな足取りで、リオンの部屋のドアが開いた。
部屋の灯りが、ふわりとエリンの姿を照らす。
「───あ……。」
ヒナの喉が震えた。
全身から、血の気が引いていく。
見られたくなかった。
知られたくなかった。
これ以上、何も知られたくなかった──
目の前が真っ白になる。
呼吸すら、うまくできない。
「……おかえり。遅かったね」
リオンはエリンを見ながら、不敵な笑みを浮かべ、
そのままヒナの唇を舐める。
唇をなぞる熱に、ヒナはびくりと肩を震わせた。
その仕草が愉快だったのか、リオンは小さく息を吐きながら、ゆっくりと腕の力を緩める。
エリンの瞳が、かすかに細められた。
その変化は一瞬で、誰も気づかないほどわずかなものだった。けれど、リオンはその視線の奥に 冷えた感情が滲んだのを確かに見た。
──苛立ち、とまではいかない。
だが、確かにそこにあったのは、これまでのエリンにはなかった感情だった。
エリンの瞳が ほんの僅かに伏せられる。
長い睫毛が影を落とし、その下で、
指がゆっくりと強く握りしめられた。
無意識の反応──リオンは、見逃さなかった。
「……へぇ。」
リオンの唇が、愉快そうに持ち上がる。
低く抑えた声が、楽しげに揺れた。
この表情が見たかった
エリンの僅かな変化が、リオンにとっては何よりの答えだった。
心の奥底にある 「焦り」や「苛立ち」 が、確かに顔を出している。
だが、エリン自身はそれに気づいているのか──
それとも、気づかぬまま、無意識に抑え込もうとしているのか。
リオンは腕を組み、じっと彼の反応を見つめていた。
解放されたヒナは、一瞬の間を置いたあと、
慌てたようにシーツを手繰り寄せ、自分の身体を包み込むようにして丸くなる。
息が詰まりそうなほど心臓が跳ね、震える手で布を握りしめる。
まるで、自分の存在そのものを覆い隠すように。
その間リオンは壁際に腰をかけ、背をもたれかけると、脚を組みながら薄く笑みを浮かべ、ただ、静かに見ていた。
ヒナが怯えたように肩を震わせる。
重苦しい沈黙が落ちる。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
ヒナの小さな声が震える。
こぼれ落ちる涙は、止まらなかった。
「ヒナ、泣かないで。大丈夫だから。」
優しい声が降る。
エリンが、そっとヒナを抱きしめた。
ヒナは驚いた。
でも、その胸の温もりに触れた瞬間、耐えきれず、さらに涙がこぼれた。
「大丈夫、大丈夫だよ。ヒナ。落ち着いて。
魔力の譲渡、だよね。僕がしなかったから、代わりに──」
「ちが……違います……っ!」
ヒナは首を横に振った。
「譲渡はそう……なんですけど……代わり、じゃなくて……!」
何かを訴えようとするヒナの言葉に、リオンがわずかに眉を上げた。
少し意外そうな反応だった。
「ボクが悪いんです……甘えて……その温もりに……依存して……!
受け入れてもらえてるなんて勘違いに……抗えなくなってたから……!」
泣きじゃくるヒナを、エリンは強く抱きしめる。
ヒナの細い肩を包み込みながら、静かに語りかけた。
「……ヒナ、僕たちのために……ミアを救うために、無理させてばかりでごめん。
ヒナがその責任を持つ必要はないのに……頼ってばかりで……。
君が一番つらい立場なのに、何もしてあげられてなくて、本当にごめん。」
ヒナは泣きながら、首を横に振る。
「……ヒナは、まだ僕のこと好きでいてくれてる?」
ヒナの呼吸が止まった。
大きく目を見開く。
「恋愛対象として、って意味だけど。」
エリンがそう付け加えた瞬間、ヒナの涙が溢れた。
「……いつから、知ってたんですか……? なんで……どうして……?」
震える声で問いかけるヒナ。
エリンは微笑み、ヒナの頬を優しく撫でた。
「……気がつくのが遅くてごめんね。
最近になって家族という関係だけじゃなくて、
君の気持ちを受け止めて、一度、考え直してみようと思ったんだ。
今までヒナの気持ちを無視して「家族愛」を押し付けて…ヒナを個人として見ることと、ヒナの気持ちを尊重する事ができずに傷つけてきたから…。」
「僕は君のことが好きだよ。
家族として大切な気持ちは変わらないけど、君の気持ちに寄り添えるように、真剣に考えてみたくて。
ヒナはどう……?
まだ僕のこと、好きでいてくれてる……?」
ヒナは言葉を失った。
ずっと望んでいたはずの言葉。
なのに、今になって、何も言えなかった。
胸にぽっかりと穴が開いたような、痛み。
やがて、ヒナは震える声で口を開いた。
「……ボクが……言う資格なんてありません……。
でも、今までずっと……ご主人のこと大好きで、大切で……
叶うなら、結ばれたい、触れ合って……愛し合いたいって……思って、いました……」
その言葉を聞いたリオンが、棚の上に置かれていた小瓶を指先で浮かせ、ゆっくりと手元に引き寄せる。
─ヒナにあげたやつと別のやつ。今飲ませて─
リオンの指示が頭に浮かぶ。
小瓶を渡されると、エリンがヒナの手にそれを持たせた。
ヒナは一瞬、迷うように小瓶を見つめた。
「……ヒナ。ありがとう。ずっと想い続けてくれていて…。でもつらい時に1人で悩まないで、もう大丈夫だよ。」
エリンが優しく微笑む。
「君は本当によく頑張ってくれてる。
それは僕たちも分かってる。
だから……一人で抱え込まないで。
どうか、僕を頼って欲しい」
ヒナは、小瓶の中の液体をじっと見つめた。
その澄んだ色は、まるで月光を閉じ込めたように淡く輝いている。
──この小さな瓶が、ボクを救ってくれるんだろうか。
迷いながらも、そっと唇に触れさせ、液体を喉へ流し込む。
ひんやりとした感触が舌を滑り、胸の奥へと落ちていく。
その瞬間、じわりと広がる安堵感に、ヒナはかすかに息を震わせた。
──心が、嘘のように軽くなる。
胸の奥を締めつけていた重苦しさが溶けていき、
あれほどまでに揺らいでいた感情の波が静かに凪いでいく。
それと同時に、背中の羽がふわりと光を帯びた。
穏やかで柔らかな光が、静かに揺れる。
エリンとリオンが、その変化をじっと見つめていた。
ヒナは、自分の指先をそっと握りしめた。
心のどこかにあった後悔が、わずかに薄れていくのを感じながら──
けれど、すべてをなかったことにはしたくない、そう思った。
「ご主人様、リオンさん……ありがとうございます。」
ヒナは静かに顔を上げ、ふたりを見つめる。
「いつも、助けていただいて、導いてくれて、見守ってくれて……。」
声は震えていたけれど、その瞳には確かな決意が宿っていた。
「ボク、自分に恥じないように、
2人の家族として誇らしい存在だって思ってもらえるように、頑張ります。
迷ったり…悩んだり、間違えることもあるかもしれないけど……でも。」
握りしめた手に、ほんのわずか力がこもる。
「ボク、迷って落ち込む弱い自分は嫌いです。
天使の本能に揺らぐ自分も。」
ヒナは小さく息を吸い込んだ。
「でも…。
リオンさんの温もりに甘える自分は嫌だけど、
譲渡してもらってたことは……やっぱり、後悔したくありません。」
リオンが、僅かに目を細める。
まるで、おや?とでも言いたげな興味深そうな視線だった。
「それが支えてくれたリオンさんへの誠実さだと思うから、ボクは……後悔より、感謝したいんです。」
ヒナの言葉に、リオンの口角がわずかに持ち上がる。
──そういう考えに至るのか。
その強さが、意外だった。
「自分の間違いに、責任を持つことは大切だと思います。」ヒナは静かに続ける。
「ご主人様を大好きなのに、天使として成長する為にも魔力を補充する為にも…譲渡してもらうことは仕方ないことだって言い聞かせて、してもらってました。
罪悪感もありました。いつの間にか依存もして…。
でも、嫌じゃなかった……!」
自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出てきた。
いつの間にか、声が震えることもなくなっていた。
「愛が違うだけ、なのかもしれないです。」
ヒナの青い瞳が、真っ直ぐリオンを見つめる。
「ご主人様とは違う種類の愛で、リオンさんのこと、好きなのかもしれません。」
その瞬間、リオンの表情が一瞬だけ止まる。
「魔力が必要なくなったら、ミアさんを救い出せたら……やめようって思ってました。」
静かな決意を滲ませるヒナ。
「けど、本当にたくさん支えてもらってたから、
無かったことにしたり、後悔したり……したくないです。」
部屋に、しんとした沈黙が落ちる。
エリンが、柔らかく微笑んだ。
ヒナは一瞬きょとんとする。
まるで、何かが違うような、そんな違和感が残った。
エリンの微笑みは、優しくて、温かくて……けれど、どこか儚く見えた。
次の瞬間、エリンの身体がふらりと揺れ、そのままベッドに倒れ込んだ。
「ご主人様!?」
ヒナが、驚いてエリンの肩に手を添える。
慌てて支えようとするが、エリンの身体は力が抜けたように動かない。
「……大丈夫。この部屋に入った時からずっと、洗脳してただけだから。」
ヒナの横で、リオンがぼそりと呟く。
「やっぱりこの魔法は、後味が悪い……。」
どこか苦々しげな顔で、リオンは視線を逸らす。
その言葉に、ヒナの指先が小さく震えた。
──洗脳。
エリンは、最初からずっと洗脳されていた。
それを解かれた今、突然意識を手放したのだ。
「そんな……そんなの、ずるいです……っ!」
ヒナは、ぎゅっと唇を噛みしめた。
知らなかった。
気づけなかった。
「そんな魔法で……ご主人様の言葉を……ボクの気持ちを確かめようとするなんて……!」
言葉を震わせながら、ヒナは俯く。
リオンは少し驚いたような顔をしたが、すぐに薄く笑う。
淡々とした声だった。
「これはオレからヒナへのお仕置きだって言ったでしょ?」
「……っ!」
「お前がご主人様の事で泣くの、いい加減 見飽きたしね。自分の気持ちは自覚できた?」
リオンの言葉に、ヒナはハッと息を呑む。
「ま、でも──」
リオンは微笑みながら、エリンを見下ろす。
「予想以上に面白いものが見れたな。」
リオンの赤い瞳が、何かを見透かすように光を帯びる。
ヒナは、何も言えなかった。
ただ、指先を強く握りしめることしかできなかった──。




