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第9話 侯爵家、メイド長が倒れました

第9話 侯爵家、メイド長が倒れました


 朝六時。


 まだ夜の気配が残るローゼンベルク侯爵邸は、しんと静まり返っていた。


 厚いカーテンの隙間から差し込む光は青白く、部屋の家具もぼんやりと輪郭が見える程度だ。


 そんな薄暗い寝室で、ヴァレンティナはふいに目を覚ました。


 廊下から何か聞こえた気がしたのだ。


「……何?」


 眠い目をこすりながら隣を見る。


 夫であるアルベルトは、まだ眠っていた。普段なら彼の方が先に起きるので珍しい。


 というより。


 ヴァレンティナが朝六時に目を覚ましていることの方が、よほど珍しい。


 気のせいだろうか。


 そう思って、もう一度枕へ頭を沈めようとしたとき。


 ガタン。


 今度ははっきり聞こえた。


 金属のような硬いものが、床へ落ちた音だった。


 ヴァレンティナは寝台を抜け出し、寝間着の上から薄いガウンを羽織った。


「誰かいるの?」


 そっと扉を開ける。


 廊下には誰もいなかった。


 夜の間に消された燭台が壁際に並び、長い廊下の向こうだけが朝の光でうっすら明るくなっている。


 少し歩く。


 階段の前を通り過ぎる。


 すると、曲がり角の向こうからかすかな衣擦れの音がした。


「エレノア?」


 返事がない。


 嫌な予感がして、ヴァレンティナは足を速めた。


 角を曲がる。


「……エレノア!?」


 銀の燭台が床に転がっていた。


 そのすぐ横。


 壁にもたれるようにして、メイド長エレノアが座り込んでいる。


 いつも一筋の乱れもなくまとめられている濃い茶色の髪が、今日は少しだけ崩れていた。黒いメイド服の白い襟元から覗く顔は、普段より明らかに青白い。


 いつもなら鋭く見える切れ長の目も、今は焦点が定まっていなかった。


「ちょっと!」


 ヴァレンティナは慌てて駆け寄った。


「どうしたの!?」


「……奥様」


 エレノアがゆっくり顔を上げる。


「申し訳ございません」


「謝れって言ってない!」


「少し、眩暈が」


「少し!?」


「すぐ治ります」


「治る人は床に座らないの!」


「床には座っておりません」


「座ってるでしょうが!」


「壁にもたれております」


「そこじゃない!」


 こんなときまで訂正する元気があるなら大丈夫なのでは、と一瞬思った。


 だが。


 立ち上がろうとしたエレノアの身体が、またぐらりと傾いた。


「エレノア!」


 ヴァレンティナは慌ててその肩を支えた。


 細い。


 いつも背筋を伸ばして歩いているせいで気づかなかったが、支えてみると驚くほど軽かった。


「誰か! 来て!」


 今度は本気で大声を出した。


 ◇


「過労ですね」


 呼ばれてきた医師は、診察を終えるとあっさりそう言った。


 エレノアは使用人用の個室にある寝台へ寝かされていた。


 メイド長という立場もあって一人部屋ではあるが、侯爵家の主人たちが使う部屋とは違い、かなり簡素だ。


 小さな寝台。


 衣装箱。


 机と椅子。


 本棚。


 壁には飾りらしい飾りもほとんどない。


 本人の性格そのままのような部屋だった。


「しばらく休ませてください」


 医師が鞄を閉じる。


「何日?」


 ヴァレンティナが尋ねる。


「最低でも三日。できれば一週間」


「一週間!?」


 声を上げたのはヴァレンティナではない。


 患者本人だった。


「無理です」


 寝台の上でエレノアがきっぱりと言う。


「無理じゃない」


 ヴァレンティナも負けずに言い返した。


「仕事がございます」


「休むのが仕事!」


「意味が分かりません」


「私も言ってて分からないけど、とにかく寝て!」


 医師が苦笑している。


「それから、栄養状態もあまり良くありませんね」


 その言葉にヴァレンティナの動きが止まった。


「え?」


「最近、きちんと食べていますか?」


「当然です」


 エレノアが即答する。


 ヴァレンティナは目を細めた。


「朝食は?」


「いただいております」


「今日の?」


「……」


「エレノア?」


「少々忙しかったので」


「昨日は?」


「……」


「一昨日」


「奥様」


「食べてないじゃない!」


「昼食は」


「朝の話してるの! ……って、昼は食べたのね?」


「……」


「昼も!?」


 エレノアが露骨に目を逸らした。


 普段なら使用人の些細な失敗さえ見逃さない女が、自分の食事についてだけは随分と管理が甘いらしい。


 医師は静かに立ち上がった。


「では、あとはよろしくお願いします」


「先生!?」


「私より侯爵夫人の方が効きそうですので」


「逃げないで!」


 医師は本当に帰ってしまった。


 ◇


 扉が閉まると。


 ヴァレンティナは寝台の横で腕を組んだ。


「言ったわよね」


「何をでしょう」


「働きすぎるなって」


「働きすぎてはおりません」


「倒れたでしょう!」


「少し眩暈がしただけです」


「ベッドまで運ばれた人間の台詞ではありません」


 部屋の隅から声がした。


 執事長セドリックだった。


 いつもの黒い執事服を隙なく着こなし、長い焦茶色の髪も低い位置できちんと結んでいる。


 表情も普段とほとんど変わらない。


 ただ。


 ヴァレンティナには、彼がいつもより口数が少ないことが少し気になった。


「それ!」


 ヴァレンティナが振り返る。


「はい?」


「今のもう一回言って!」


「なぜでしょう」


「私が言おうと思ったの!」


「失礼いたしました」


 エレノアが疲れたようにため息をつく。


「セドリック。奥様をお連れしてください」


「嫌です」


「即答?」


「医師から安静にするよう言われたでしょう」


「仕事の引き継ぎがあります」


「私がします」


「あなたには執事の仕事が」


「奥様と分担します」


「私も!?」


「当然です」


「まあ、やるけど!」


 エレノアが掛布を押しのけ、起き上がろうとした。


「寝て!」


「寝ていてください」


 ヴァレンティナとセドリックの声が、ほとんど同時に飛んだ。


 エレノアが固まる。


「……二人とも」


「何?」


「何でしょう」


「うるさいです」


「寝なさい!」


 ◇


 その日の午前中には、早くも問題が発覚した。


「エレノアしか知らない?」


「はい」


 若いメイドが困り切った顔で頷いた。


 ヴァレンティナの前には、朝から何冊もの帳面と鍵の束が並べられている。


「冬用リネンの保管場所は?」


「メイド長しか存じません」


「じゃあ食器庫の予備の鍵は?」


「メイド長が」


「来客用の銀器の一覧」


「メイド長です」


「使用人の勤務表」


「メイド長が作成しております」


「洗濯物の外注先」


「メイド長です」


「客室の補修予定」


「それもメイド長が」


「……ちょっと待って」


 ヴァレンティナは額を押さえた。


 何を聞いても。


 エレノア。


 エレノア。


 エレノア。


 まるでこの侯爵家の裏側が、一人の女の頭の中に丸ごと収納されている。


「この家、エレノアがいないと何も分からないの?」


 若いメイドたちが互いに顔を見合わせた。


 誰も答えない。


「…………そうなの?」


「……はい」


 小さな声で返事が来た。


 ヴァレンティナはしばらく天井を見上げた。


 そして。


「なんでよ!」


 朝から二度目の大声が、使用人区画に響いた。


 ◇


「昔は違ったんですよ」


 昼前。


 ヴァレンティナとセドリックは、使用人用の事務室にいた。


 決して広くない部屋には、帳簿や勤務表を収めた棚が壁一面に並んでいる。机の上には、二人で洗い出したエレノアの仕事が、紙の山になって積み上がっていた。


 ヴァレンティナは一枚ずつ確認していく。


「メイド長の下に、副メイド長がおりました」


「今はいないわね」


「辞めました」


「いつ?」


「七年前です」


「補充は?」


「しておりません」


「なんで?」


「経費削減です」


「……」


 嫌な言葉が出てきた。


「リネン管理の担当もおりました」


「今は?」


「辞めました」


「補充?」


「しておりません」


「経費削減?」


「はい」


「食器係」


「同じです」


「客室担当」


「同じです」


 ヴァレンティナは一枚ずつ紙を机へ並べた。


 辞めた人間の役職。


 その横に。


 現在その仕事をしている人間。


 ほとんど同じ名前が並ぶ。


「つまり、人が辞めるたびにエレノアが仕事を引き取ったの?」


「そうなります」


「何年?」


「十年ほどでしょうか」


「十年!?」


「一度に増えたわけではありません。少しずつです」


「少しずつならいいって話じゃない!」


 セドリックは黙っていた。


 ヴァレンティナは、ふと顔を上げた。


「あなた、気づいてた?」


「はい」


「止めなかったの?」


「止めました」


 思っていなかった答えだった。


「何度も」


 セドリックの声はいつもと同じく静かだった。


 ただ、机の上の書類を見つめる目には、わずかな疲れが滲んでいる。


「聞きませんでした」


「……エレノアが?」


「はい」


「なんで」


「自分がやれば済むと思っているのでしょう」


「馬鹿じゃないの」


「本人にも申し上げました」


「何て?」


「馬鹿ではありませんか、と」


「言ったの!?」


「もう少し丁寧に」


「でしょうね」


 ヴァレンティナは改めて書類を見る。


 勤務表の作成。


 食器と銀器の管理。


 リネン。


 備品。


 客室。


 使用人の教育。


 採用。


 退職。


 補修。


 清掃。


 行事の準備。


 主人一家の衣類の管理。


 仕事の種類だけなら、ヴァレンティナが把握していた以上に多かった。


「……この人」


 ヴァレンティナは思わず呟く。


「ずっと一人でやってたの?」


「一人ではありません」


 セドリックが答えた。


「実際に働く者は皆おります。ただ」


 そこで一度、言葉を切る。


「それらを把握し、誰に何をさせるか決めていた中心は、ずっと彼女です」


 十年。


 ヴァレンティナには、その長さが少し想像できなかった。


 侯爵家が貧しくなるたび。


 人が減るたび。


 エレノアの仕事だけが、一つずつ増えていった。


 それでも彼女は。


 毎朝同じ顔で廊下に立っていたのだ。


 ◇


 午後。


 ヴァレンティナは再びエレノアの部屋を訪れた。


 軽くノックする。


「どうぞ」


 返事がある。


 扉を開けると、エレノアはきちんと寝台に入っていた。


 少なくとも一見したところでは。


「何してるの」


「何も」


「手に持ってるの何」


「帳面です」


「何もしてるじゃない!」


 掛布の陰に隠しかけた帳面を、ヴァレンティナは容赦なく取り上げた。


「あ」


「病人は寝る!」


「奥様」


「何よ」


「明日の洗濯ですが」


「セドリックが手配してる」


「客室の」


「私が見た」


「銀器は」


「リナに任せた」


「ですが」


「エレノア」


 ヴァレンティナは寝台脇の椅子へ腰掛けた。


 窓から差し込む午後の光の中で見ると、エレノアの顔にはまだ疲れが残っている。いつもきつく結ばれている髪も今日は下ろされ、肩の辺りまで流れていた。


 仕事中の彼女より、ずっと若く見える。


 同時に。


 ずっと疲れても見えた。


「あなたがいなくても、一日は回ったわよ」


 エレノアが黙る。


「多少ぐちゃぐちゃだけど」


「でしょうね」


「そこは否定しなさいよ」


「事実ですので」


「でも、回った」


「……はい」


「明日も回す」


「はい」


「明後日も回す。だから、あなたは寝てて」


 エレノアはしばらく何も言わなかった。


 やがて視線を天井へ向ける。


「昔は」


 ぽつりと口を開いた。


「使用人が、今の倍以上おりました」


 ヴァレンティナは黙って続きを待った。


「晩餐会も多く、客室もほとんど毎週使われていました。庭には庭師が六人。厨房にも六人。メイドも、今よりずっと多くおりました」


「そんなにいたのね」


「はい」


 今の屋敷からは想像しにくい。


 毎晩のように灯りがともり。


 磨かれた馬車が玄関前に並び。


 広い食堂には客が集まり。


 今では閉じられている客室にも、人が泊まっていた。


 そんな時代がこの家にも確かにあったのだ。


「楽しかった?」


 何となく聞いた。


 エレノアが少し驚いた顔をする。


「……どうでしょう」


「嫌だった?」


「いいえ」


 ほんのわずか。


 その表情が柔らかくなった。


「忙しかったですが」


「そっか」


「旦那様も、まだお若く」


 ヴァレンティナは気づいた。


 アルベルトの話をするときだけ。


 エレノアの声がほんの少し変わる。


「アルベルトのこと、昔から知ってるのよね」


「はい」


「何歳から?」


「旦那様が十二歳の頃から、この家で働いております」


「長い」


「そうですね」


 十七年以上。


 少女だった頃から、この家にいることになる。


「じゃあ」


 ヴァレンティナは簡素な部屋を見回した。


「この家が貧乏になっていくのも、全部見てた?」


「……はい」


 短い返事だった。


 それだけで十分だった。


 使用人が一人辞め。


 また一人辞め。


 晩餐会が減る。


 使わない客室が増える。


 庭師が減る。


 修繕が先送りされる。


 家具が古くなっても買い替えられない。


 それでもローゼンベルク侯爵家であることだけは、変わらない。


「辞めようと思わなかった?」


「ございません」


「一回も?」


「はい」


「なんで?」


 エレノアはすぐには答えなかった。


 窓の向こうへ視線を向ける。


 庭の古い木々が、午後の風に揺れている。


「私の家ですから」


 ヴァレンティナが瞬きをした。


「あなたの家?」


「もちろん、所有しているという意味ではございません」


「分かってる」


「ただ」


 エレノアは視線を落とした。


「長くおりますと、そういうものです」


「……そっか」


 ヴァレンティナは、それ以上聞かなかった。


 少しだけ。


 分かる気がしたからだ。


 自分はまだ、ここへ嫁いできて数か月しか経っていない。


 それなのに。


 雨が降れば屋根が気になる。


 食材が余れば腹が立つ。


 請求書が高ければ理由を知りたくなる。


 使用人が辞めると言えば困るし。


 こうして誰かが倒れれば。


 心配になる。


 最初は、雨漏りする、とんでもない家へ嫁いでしまったと思った。


 今も、それは少し思っている。


 けれど。


 いつの間にか。


 ヴァレンティナにとっても、この屋敷は放っておけない場所になっていた。


「エレノア」


「はい」


「あなたがいなかったら、この家」


 ヴァレンティナは少し考え。


 結局、一番自分らしい言葉を選んだ。


「とっくに潰れてたでしょうね」


 エレノアが顔を上げた。


「……」


「何?」


「いえ」


「褒めたのよ?」


「分かっております」


「じゃあ喜んで」


「命令されて喜ぶものではございません」


「面倒くさいわね!」


 そのとき。


 エレノアの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「あ!」


「何でしょう」


「今笑った!」


「笑っておりません」


「笑った!」


「奥様がお疲れなのでは?」


「絶対笑った!」


「奥様」


「何よ」


「病人の部屋ではお静かに」


「あなたが言う!?」


 ◇


 夜。


 屋敷が静かになった頃。


 セドリックは薬と水を載せた盆を持って、エレノアの部屋を訪れた。


「薬です」


「そこへ置いてください」


「飲むところまで確認します」


「子供ではありません」


「子供の方が素直でしょうね」


「失礼ですね」


「昔からです」


 エレノアは渋々身体を起こし、薬を飲んだ。


 セドリックは空になったコップを受け取る。


 昼間より顔色は良くなっていた。


 それを確認してから、ようやく少し肩の力を抜いた。


「ヴァレンティナ様と何を話していたのです?」


「なぜあなたに言う必要が?」


「随分長かったので」


「仕事の話です」


「病人が?」


「……」


 セドリックは小さく笑った。


「エレノア」


「何です」


「あなたは昔から、自分だけは倒れないと思っていますね」


「倒れていません」


「ベッドまで運ばれた人間の台詞ではありません」


 エレノアが睨む。


「奥様と同じことを言いますね」


「光栄です」


「褒めていません」


 十年以上同じ屋敷で働いてきた二人の間には、今さら取り繕う必要のない静けさがあった。


 セドリックは昔から、エレノアが無理をするたび止めてきた。


 聞き入れられたことは、ほとんどない。


「三日くらい休んでも、この家はなくなりませんよ」


「分かっています」


「本当に?」


「……分かっています」


「なら結構」


 セドリックは盆を持ち上げた。


「おやすみなさい」


 扉へ向かう。


「セドリック」


 背中から呼び止められた。


「はい?」


 振り返る。


 エレノアは少し迷うように視線を落とした。


「……ありがとう」


 セドリックの動きが、一瞬だけ止まった。


 だが。


 いつもの穏やかな表情は崩さなかった。


「どういたしまして」


 それだけ答え。


 扉を閉めた。


 薄暗い廊下を数歩歩いてから、セドリックは足を止める。


 閉じた扉を一度だけ振り返った。


 十八年前。


 この屋敷へ来たばかりの少女も、今と同じように人に頼ることが苦手だった。


「……十八年か」


 小さな呟きは。


 静かな廊下に消えた。


 ◇


 三日後。


「おはようございます」


 朝食室へ、いつもの黒いメイド服を着たエレノアが現れた。


 髪も隙なくまとめられている。


 顔色もかなり戻っていた。


 そして。


「帰って!」


 ヴァレンティナに一秒で追い返されかけた。


「もう熱もございません」


「一週間って言われたでしょう!」


「医師は『できれば』と」


「都合のいいところだけ覚えないで!」


「奥様」


「何!」


「朝食をお持ちしました」


「それ、他の人にやらせて!」


「では」


 エレノアはヴァレンティナの前へ皿を置いた。


「私は監督いたします」


「休めって!」


「座って監督します」


「そういう問題じゃ――」


「ヴァレンティナ」


 向かいで新聞を読んでいたアルベルトが顔を上げた。


「諦めろ」


「なんで私が!?」


「エレノアは昔からこうだ」


「知ってるなら直しなさいよ!」


「俺が十二の頃から言っている」


「二十年近く何してたのよ!」


「俺に聞くな」


 エレノアは何事もなかったかのように紅茶を注いでいる。


 ヴァレンティナは頭を抱えた。


「もう!」


 この女に「休め」と言い続けるだけでは駄目なのだ。


 本人の性格が変わらないなら。


 休める仕組みを作るしかない。


「じゃあ今日から、仕事を一人で抱え込むの禁止!」


「禁止?」


「副メイド長を決める!」


 エレノアの手が止まった。


「必要ございません」


「必要です!」


「人件費が」


「必要な金は使う!」


 ヴァレンティナは即答した。


「人件費を削って、あなたが倒れて、仕事が全部止まったら何の節約にもならないでしょう」


「ですが」


「前にも言ったわよね。安くすることと、必要なお金まで使わないことは違うの」


 この家へ来てから。


 ヴァレンティナは何度も同じ問題を見てきた。


 修繕費を惜しんで、屋根を放置する。


 使用人を補充せず、残った人間へ仕事を集める。


 その場では金を使わずに済む。


 けれど。


 後からもっと大きな代償を払うことになる。


「人が倒れるまで働かせるくらいなら、人を雇った方が安いの!」


「……」


「それに」


 ヴァレンティナはパンへジャムを塗りながら、少しだけ声を落とした。


「あなたには、まだ働いてもらわないと困るし」


 エレノアは何も言わなかった。


 ほんの少しだけ。


 目を伏せる。


「承知いたしました」


 ヴァレンティナの手が止まる。


「素直!」


「何です?」


「いや、珍しくて」


「撤回いたしましょうか」


「しなくていい!」


 新聞の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。


 ヴァレンティナがアルベルトを見る。


「何笑ってるのよ」


「いや」


「何?」


 アルベルトは新聞を少し下ろした。


「随分、仲良くなったと思ってな」


「なってません」


「なっておりません」


 ヴァレンティナとエレノアの声が。


 ぴたりと重なった。


 一瞬。


 朝食室が静かになる。


 アルベルトがとうとう新聞を下ろした。


 その横で、セドリックが何食わぬ顔で紅茶を置く。


「息はぴったりですね」


「セドリック」


「はい」


「あなた今日、庭の請求書全部確認して」


「八十七枚ございますが」


「お願い」


 セドリックは一瞬だけ黙った。


「……承知いたしました」


 ローゼンベルク侯爵家では。


 メイド長が三日ぶりに復帰した。


 代わりに副メイド長を置くことが決まり、使用人の仕事を一人の頭の中だけにしまわない仕組みを作ることになった。


 屋根や帳簿だけではない。


 人間だって、壊れてからでは遅い。


 そしてヴァレンティナには、働きすぎるメイド長を止めるという、少々厄介な仕事が一つ増えた。

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