第7話 侯爵家、お客様を呼ぶお金がありません
第7話 侯爵家、お客様を呼ぶお金がありません
ローゼンベルク侯爵家の朝食は、以前よりずいぶん効率が良くなった。
豪華になったわけではない。むしろ逆だ。
ジャムは瓶の底まで使い切り、パンは人数分を見て必要な量だけ焼く。余ったものは翌日のスープや別の料理に回す。普段使いの茶葉も少し安価なものに替え、高級品は来客用として棚の奥へしまった。
最初こそ不満げだった使用人たちも、味や質が極端に落ちたわけではないと分かると、次第に何も言わなくなった。
銀のティーポットから紅茶を注ぎながら、ヴァレンティナは満足げに食卓を眺めた。
こういう小さな節約でも、積み重ねれば馬鹿にならない。
この調子なら、屋根の修理代が貯まる日もそう遠くない。
そう思っていた朝だった。
「来週、殿下がお越しになる」
向かいで新聞を畳んだアルベルトが、天気の話でもするような調子で言った。
ヴァレンティナの手が止まる。
「……誰が?」
「エドワード殿下だ」
「どこに?」
「ここへ」
「なんで?」
アルベルトが怪訝そうに眉を寄せた。
「以前から話していただろう」
「聞いてたけど!」
確かに聞いていた。
庭園を、せめて客人から見える範囲だけでも整えておかなければならない。その理由もエドワード殿下の訪問だった。
ただヴァレンティナは、心のどこかでまだ先の話だと思っていたのだ。
「本当に来るの!?」
「王族との約束を何だと思っている」
「社交辞令かと」
「王族の訪問を社交辞令で済ませるな」
アルベルトは呆れたように紅茶を一口飲んだ。
「殿下のほか、側近が四名。同行する貴族が三名、その夫人が二名」
ヴァレンティナは指を折った。
「……十人?」
「こちらを含めれば、晩餐は十五人ほどになる」
その瞬間、彼女の頭の中で十五人分の料理と酒と給仕、それから大量の硬貨が羽を生やして飛んでいった。
「帰ってもらえない?」
「王族だぞ」
「知ってるわよ!」
「なら聞くな」
ヴァレンティナは両手で頭を抱えた。
「どうしてこの家、お金がないのに王族が来るのよ!」
「金がなくても侯爵家だからだ」
「侯爵家って不便ね!」
「今さらだな」
アルベルトは涼しい顔でパンをちぎった。
ヴァレンティナには、その落ち着きが少し腹立たしかった。
◇
「百八十六リル」
昼過ぎ。
ヴァレンティナは食堂の長いテーブルに広げられた一枚の見積書を凝視していた。
来週の晩餐会に必要な予算。
百八十六リル。
「……一晩で?」
「はい」
傍らに立つメイド長エレノアは平然としている。
「一晩で百八十六リル?」
「二度お聞きになられても変わりません」
「屋根が遠ざかる!」
ヴァレンティナは見積書を掴んだ。
食材、酒、花、リネン、食器の手入れ、使用人への臨時手当、馬車を受け入れるための準備。
項目を追うたび、眉間の皺が深くなっていく。
「料理を減らしましょう」
「奥様」
「花は庭に咲いてるのでいいわ。タダだもの」
「奥様」
「ワインは四リルので――」
「駄目だ」
低い声が割って入った。
振り返ると、いつの間にか食堂へ入ってきたアルベルトが扉の前に立っていた。
「なんでよ」
「殿下に四リルのワインを出すつもりか?」
「おいしいのよ?」
「そういう問題ではない」
「またそれ!」
ヴァレンティナは勢いよく立ち上がった。
「おいしくて安いなら、それでいいでしょう!」
「友人との夕食ならな」
「何が違うのよ」
「相手は王族だ」
「王族だって舌は一枚でしょう?」
アルベルトは数秒黙り、眉間を押さえた。
「君は時々、恐ろしいことを言うな」
「何よ」
「まず座れ。説明する」
ヴァレンティナは納得していない顔のまま椅子へ戻った。
アルベルトも向かいに腰を下ろし、見積書を手元へ引き寄せる。
「晩餐は、単に食事を出す場ではない。料理、酒、食器、席順。そのすべてが、相手をどう扱っているかという意思表示になる」
「高いものを出せばいいってこと?」
「逆だ」
アルベルトは首を振った。
「殿下に最高級のワインを出して、その隣の伯爵に明らかな格下を出せば、どう見える?」
「……伯爵を軽く扱ってる?」
「そう受け取られる可能性がある。では全員に最高級品を出したら?」
「破産する」
「それもある」
「あるんじゃない」
「だが、場に不釣り合いなものを並べれば、今度は主人が無理に見栄を張っているように見える」
ヴァレンティナは嫌そうに顔をしかめた。
「面倒くさいわね」
「社交とはそういうものだ」
「嫌いになりそう」
「俺も好きだとは言っていない」
意外な答えに、ヴァレンティナは顔を上げた。
「好きじゃないの?」
「必要だから覚えた」
アルベルトは当然のように貴族社会を泳いでいるのだと思っていた。
生まれながらの侯爵。格式も作法も、呼吸をするように身についている人間。
けれど、そうではないらしい。
「ワインは?」
「何?」
「ワインは好きでしょう?」
「それは好きだ」
「そこは好きなのね」
「悪いか」
「別に」
少しだけ可笑しくなって、ヴァレンティナは見積書へ視線を戻した。
「じゃあ、どこまでが本当に必要なの?」
アルベルトも紙を覗き込み、一つずつ項目を確認していく。
やがて指先が止まった。
「……花はここまで要らないな」
「ほら!」
「だがワインは削るな」
「そこ!?」
「削るな」
妙に強かった。
◇
その日の午後、食堂には四人が集まった。
ヴァレンティナ、アルベルト、エレノア。そして料理長のマルセル。
テーブル中央には問題の見積書が置かれている。
「百八十六リルを、百二十まで落としたい」
ヴァレンティナが宣言した。
「無理です」
エレノアが即答した。
「早い!」
「では百七十で」
「交渉になってない!」
その横で、マルセルが見積書を手に取った。
恰幅のいい料理長はしばらく献立を眺め、それから顎を撫でる。
「料理なら、多少は落とせますよ」
ヴァレンティナの顔が明るくなった。
「本当!?」
「ただし、品数は減らしません」
「なんで?」
「侯爵家の正式な晩餐でしょう。削るなら食材の選び方です」
マルセルが献立の一か所を指した。
「ここ。季節外れの果物を使う予定になっています。輸送費が高い」
「やめましょう」
「代わりに今が旬の梨を使います」
「採用!」
「それから魚ですが、当初は海から運ばせる予定でした」
「それも高そう」
「高いです」
「じゃあ川魚」
あまりに即答したので、マルセルが苦笑した。
「近郊でいい鱒が手に入ります。香草を合わせれば、正式な晩餐でも十分出せますよ」
「それ!」
「ただし肉は落としません」
ヴァレンティナが顔をしかめる。
「なんでみんな『ここだけは削るな』って場所があるのよ」
「料理人ですから」
マルセルは真顔だった。
隣でアルベルトが小さく笑った。
「何がおかしいのよ」
「いや。君と似た者が増えたと思ってな」
「どこがよ!」
◇
話し合いは二時間に及んだ。
花は庭園のものを積極的に使い、正面玄関と食堂だけ生花を追加する。
食材は旬のものを中心に組み直す。ただし料理の品数は維持。
銀食器は新調せず、倉庫に眠っていたものまで引っ張り出して徹底的に磨く。
リネンも買い替えない。既存のものから状態のいい品を選び、染みのあるものだけを外した。
追加の使用人も最低限にする。
そして最後まで揉めたのが、酒だった。
「ワインは?」
「俺が決める」
アルベルトが答えた。
「予算は?」
「二十八リル」
「高い!」
「最初の見積もりは四十二だ」
ヴァレンティナは口を閉じた。
「……頑張ったの?」
「かなりな」
「じゃあ許す」
「俺はいつから許可される立場になったんだ」
「家計については私の方が偉いの」
「初めて聞いたぞ」
最終予算は百三十一リル。
最初の見積もりから五十五リルを削ったことになる。
それでもヴァレンティナは数字を睨んでいた。
「あと十一……」
「諦めろ」
「百二十にしたかった」
「十分だ」
「でも――」
「ヴァレンティナ」
アルベルトが見積書を指先で軽く叩いた。
「必要なところまで削れば、それは節約じゃない。失敗だ」
ヴァレンティナは反論しかけて、やめた。
以前なら「高いものを使う必要なんてない」と言い張っていただろう。
けれど、ハリソン商会との一件を経て、少しだけ分かってきた。
数字に表れる価値だけが、価値ではない。
信用や格式という目に見えないものも、商売と同じように、一度失えば取り戻すのに金がかかる。
「……分かった」
「珍しいな」
「何が?」
「素直だ」
「やっぱり百二十にする?」
「百三十一でいこう」
◇
晩餐会当日。
日が落ちるころ、ローゼンベルク侯爵邸は久しぶりに、かつての威厳を取り戻していた。
磨き上げられた銀器が蝋燭の光を反射し、真っ白なリネンの上に細い影を落としている。庭から摘んだ花は豪華ではないが、季節に合った瑞々しさがあった。
古びた壁も、今夜ばかりは欠点には見えない。
長い年月を重ねた屋敷だけが持つ重厚さが、柔らかな灯りの中に浮かび上がっていた。
「……綺麗」
ヴァレンティナは食堂の入口で足を止めた。
「そうでしょう」
隣に立つエレノアの声には、わずかな誇らしさがあった。
「昔は、いつもこんな感じだったの?」
「大きな晩餐の際には」
エレノアは、この屋敷がもっとも華やかだった時代を知っている。
ヴァレンティナは整然と並ぶ食器を見つめてから尋ねた。
「戻したい?」
エレノアは少し考えた。
「全てを昔と同じにする必要はないのでしょう」
「珍しいこと言うじゃない」
「奥様の影響かもしれません」
「嫌そうね」
「複雑です」
「そこは素直に認めなさいよ」
玄関の方から馬車の到着を知らせる声が響いた。
エレノアの表情が一瞬でメイド長のものへ戻る。
「参りましょう、奥様」
「ええ」
ヴァレンティナも背筋を伸ばした。
◇
晩餐が始まってしばらくして、ヴァレンティナは奇妙なことに気づいた。
アルベルトが、いつもと違う。
いや。
おそらく、これもアルベルトなのだ。
客によって話題を変え、誰か一人が話しすぎれば自然に別の者へ会話を振る。沈黙が生まれそうになれば、何事もなかったように新しい話題を差し込む。
そのどれもが露骨ではない。
ヴァレンティナが気づかなければ、ただ楽しく会話が続いているようにしか見えなかっただろう。
ワインが替わった。
給仕がグラスへ淡い色の白ワインを注ぐ。
「これは北部のものです」
アルベルトが殿下へ説明した。
「今年は例年より少し酸が強いですが、鱒にはよく合います」
エドワード殿下が一口含み、軽く目を細めた。
「確かに。アルベルト、お前は昔からこういうことだけは詳しいな」
「こういうことだけ、は余計です」
テーブルに笑いが広がった。
ヴァレンティナも笑いながら、アルベルトを見た。
なるほど。
この人は、ただ高いワインが好きなのではない。
誰に、いつ、何を出すのか。
料理との組み合わせだけでなく、その場にいる人間の立場まで考えて選んでいる。
ヴァレンティナが持っていない知識だった。
そして同時に。
自分が知らないだけで、アルベルトにもこの家を支えるために身につけてきたものがあるのだと、初めて実感した。
◇
「この鱒はいいな」
エドワード殿下が言った。
「どこのものだ?」
ヴァレンティナの心臓が跳ねた。
近郊です。
安いです。
輸送費もほとんどかかっていません。
全部本当だ。
そして、おそらく全部言ってはいけない。
「領内に近い川のものです」
アルベルトが何でもないように答えた。
「この季節が一番いい」
「なるほど」
殿下はもう一口食べ、満足そうに頷いた。
「こういうものの方がいい。海魚は王宮でも食べ飽きた」
ヴァレンティナはテーブルの下で小さく拳を握った。
勝った。
安い鱒が勝った。
向かいのアルベルトがこちらを見る。
そして口元だけで、
言うな。
と伝えてきた。
分かってるわよ。
ヴァレンティナも目だけで返した。
◇
晩餐は無事に終わった。
料理はほとんど残らず、ワインも好評だった。庭の花が安物だと気にする者もいない。
最後の馬車が門を出るのを見届けると、ヴァレンティナは玄関広間の長椅子へ身体を投げ出した。
「疲れた……」
「侯爵夫人がそんな格好をするな」
アルベルトは手袋を外しながら呆れたように言った。
「もう誰もいないでしょう」
「使用人がいる」
「みんな私がこういう人間なの知ってるわよ」
「それもどうなんだ」
ヴァレンティナは身体を起こした。
晩餐の間ずっと気を張っていたせいか、身体は重い。それでも不思議と気分は悪くなかった。
「でも」
「何だ?」
「あなたがいなかったら、たぶん私、殿下に四リルのワインを出してたわ」
「……想像したくないな」
「おいしいのに」
「まだ言うか」
ヴァレンティナは笑った。
「じゃあ、私がいなかったら?」
アルベルトが少し考える。
「百八十六リル使っていた」
「そうじゃなくて!」
「違うのか?」
「もっとこう、あるでしょう!」
アルベルトは黙った。
やがて天井を見上げる。
「……俺は雨男だから、晴れ女の君がいなければ屋根から雨が降っていた」
「それよ!」
「それでいいのか?」
「いいの!」
二人の笑い声が、久しぶりに客を迎えた玄関広間に響いた。
少し離れた廊下では、執事長セドリックがその様子を眺めていた。
「何を見ているのです」
エレノアが尋ねる。
「いえ」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「随分、侯爵家らしくなったと思いまして」
「今日は王族をお迎えしたのですから当然でしょう」
「そういう意味ではありませんよ」
「では、どういう意味です」
「さて。明日の仕事もございます。参りましょう」
「セドリック。誤魔化さないでください」
二人の声が廊下の奥へ遠ざかっていった。
ヴァレンティナはそれを見送ってから、ふと天井を見上げた。
「……アルベルト」
「何だ」
「雨、降ってないわね」
「ああ」
「今日が雨だったらどうしてたの?」
アルベルトが黙る。
「殿下の頭に雨漏りしてた?」
「…………」
「ねえ」
「ヴァレンティナ」
「何?」
「屋根を直そう」
「だから最初から言ってるでしょうが!」
ローゼンベルク侯爵家。
晩餐会、無事終了。
百八十六リルの予定を百三十一リルに抑え、侯爵家としての面目も守った。
そして。
屋根は、まだ壊れている。
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