第6話、侯爵家、請求書がおかしいです
第6話 侯爵家、請求書がおかしいです
ローゼンベルク侯爵家へ嫁いで、二か月と少しが過ぎた頃、ヴァレンティナには以前にはなかった妙な習慣ができていた。
時間が空くと、帳簿や請求書を見るのである。
別に数字そのものが好きなわけではないし、細かな数字の列を眺めているだけで幸せになれるような趣味もない。
ただ、この屋敷では帳簿を開くと、かなりの確率で何かがおかしい。
一本十二リルのワインが毎日のように食卓へ出されていたり、人数が減った後も食材を昔と同じ量だけ仕入れていたり、使用人を減らしておきながら仕事だけはほとんど減らしていなかったりする。
そのため最近のヴァレンティナにとって帳簿とは、数字を確認する書類というより、屋敷のどこに問題が埋まっているのかを探すための地図に近くなっていた。
「今日は何が出るかな」
午前の光が差し込む小さな執務室で、ヴァレンティナは今月分の請求書を机いっぱいに広げながら楽しそうに言った。
向かいでは、執事長のセドリックが数冊の記録帳を整理している。
「宝探しではございませんよ」
「似たようなものでしょう?」
「少なくとも、これまで宝が出てきたことは一度もございません」
「問題はいっぱい出てきたじゃない」
「それを宝と呼んでよろしいのでしたら、当家はかなり豊かですね」
「嫌な豊かさね」
セドリックまで、この二か月ですっかりローゼンベルク家の扱いを覚えてしまったらしい。
ヴァレンティナは苦笑しながら、請求書を一枚ずつ確認していった。
肉、魚、小麦粉、薪、石鹸、蝋燭、油、布。
食材については先月から発注量を調整しているため、以前より数字が小さくなっている。
それ自体はいい。
ところが日用品の欄まで進んだところで、ヴァレンティナの指が止まった。
数秒その数字を見つめたあと、一枚前へ戻り、さらに別の請求書と見比べる。
「……セドリック」
「はい」
「この石鹸、一個いくら?」
「そちらに記載されている通りかと存じますが」
「だから確認してるの」
セドリックが請求書を覗き込んだ。
「二十八セルですね」
「高くない?」
「……そうでしょうか」
「高いわよ」
ヴァレンティナの実家であるベルモンド家でも、石鹸は大量に使っていた。
商人や職人が頻繁に出入りする家だったため、洗濯や掃除に使うものはまとめて仕入れていたが、ごく普通の石鹸なら一個十五セル前後、高くても十八セルほどだったはずである。
香料や油脂にこだわった化粧用なら二十八セルでも不思議ではない。
しかし請求書を見る限り、これは使用人の洗濯や屋敷の掃除にも使われている日用品だった。
「どこの商会?」
「ハリソン商会でございます」
「聞いたことあるわ」
「王都でも古い商会の一つですね。日用品から布地、燃料まで幅広く扱っております」
「いつから取引してるの?」
「少々お待ちください」
セドリックは棚から古い取引記録を取り出し、慣れた手つきで頁をめくっていった。
やがて目的の箇所を見つけると、少しだけ眉を上げる。
「……四十三年前からですね」
「長っ」
「先代侯爵が当主になられる以前からのお付き合いです」
「また歴史が出てきた」
「歴史そのものに罪はございませんよ」
「この家では、だいたい歴史が請求書を高くするのよ」
「それは否定しづらいですね」
ヴァレンティナは石鹸の請求書を脇へ置き、今度は蝋燭を確認した。
やはり高い。
薪も王都の相場と比べれば高く、使用人用として仕入れている布まで、実家で見た価格より明らかに上だった。
偶然にしては項目が多すぎる。
「つまり、ハリソン商会から買っているものが全体的に高いのね」
「そのようです」
「四十三年も取引してるからって、足元見られてない?」
「可能性がないとは申しませんが、ハリソン商会はそれなりに信用のある商会です」
「だったら、なおさら理由を聞きましょう」
ヴァレンティナは椅子から立ち上がった。
「よし」
「どちらへ?」
「ハリソン商会」
「奥様が直接ですか?」
「そうよ。聞けば早いでしょう?」
「少々お待ちください」
セドリックも立ち上がった。
「何よ」
「先方へ殴り込みに行くようなお顔をされています」
「行かないわよ!」
「では、私も同行いたします」
「信用ないわね」
「奥様が商人を前にして、請求書を机へ置きながら『高すぎる』と真正面からおっしゃる未来が見えましたので」
「言うわよ」
「ですから同行するのです」
◇
午後になると、ヴァレンティナとセドリックは馬車で王都中心部へ向かった。
ハリソン商会は、大通りから一本入った商業地区に四階建ての建物を構えていた。
派手な看板こそ出していないものの、石造りの外壁はよく手入れされ、正面には荷馬車が何台も停まっている。裏手の倉庫へ荷物を運び込む人足の動きにも無駄がなく、四十年以上も侯爵家との取引を続けられる程度には堅実な商会なのだろうと、ヴァレンティナにもすぐ分かった。
二人が名乗ると、ほとんど待たされることなく二階の応接室へ案内された。
ほどなくして現れたのは、五十代ほどの恰幅のいい男だった。
よく手入れされた口髭をたくわえ、上等だが華美ではない濃茶色の上着を着ている。商人らしい柔らかな笑顔を浮かべているものの、ヴァレンティナには、その目が入室した瞬間から客の表情や服装をよく観察していることが分かった。
「これはこれは、ローゼンベルク侯爵夫人。お目にかかれて光栄でございます」
男は胸へ手を当て、丁寧に一礼した。
「支配人を務めております、トーマス・ハリソンでございます」
「ヴァレンティナ・ローゼンベルクよ。突然ごめんなさいね」
「とんでもございません。先日の王宮でのお召し物が大変な評判だったと伺っております」
「あれ六リルよ」
「奥様」
すぐ横からセドリックの低い声が飛んできた。
「何よ」
「今はドレスのお話ではございません」
「あ、そうだった」
トーマスは一瞬きょとんとしたあと、商人らしい愛想のいい笑いを浮かべた。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
ヴァレンティナは持ってきた請求書を机へ置いた。
「石鹸なんだけど」
「はい?」
「高くない?」
隣でセドリックが静かに目を閉じた。
どうやら未来予知が当たったらしい。
トーマスは笑顔を崩さなかったものの、視線を請求書へ落とした。
「……石鹸でございますか」
「一個二十八セルでしょう?」
「左様でございます」
「普通なら十五から十八セルくらいじゃない?」
「一般的な商品であれば、その程度でございますね」
「じゃあ、なんで二十八なの?」
問い詰められると思っていなかったのか、トーマスは少しだけ目を見開いた。
「ローゼンベルク家へ納品しております石鹸は、一般の商品ではございませんので」
「え?」
「侯爵家専用の配合で製造しております」
ヴァレンティナは瞬きをした。
「石鹸を?」
「はい」
「専用に?」
「使用する油脂の割合だけでなく、香りについても指定をいただいております」
「誰がそんな指定したの?」
「四十三年前のご契約ですので、少々お待ちください」
トーマスが使用人へ指示すると、ほどなくして古い契約書が運ばれてきた。
紙の色はすっかり黄ばんでおり、端には長い年月を感じさせる傷みがある。
それでも保管状態はよく、当時の契約内容を読むには十分だった。
「こちらですね。当時のローゼンベルク侯爵夫人からご指定をいただいております」
「…………」
ヴァレンティナは契約書を見た。
それからセドリックを見る。
「奥様」
「何?」
「以前、エレノアへ『先々代』という単語を禁止なさった弊害が出ましたね」
「誰がこんなところで回収しろって言ったのよ」
事情を知らないトーマスだけが困惑している。
ヴァレンティナは咳払いをして、別の項目を指した。
「じゃあ、この蝋燭は?」
「蜜蝋を多く使用した特注品でございます。通常のものより煙が少なく、燃焼時の匂いも抑えられております」
「薪は?」
「煙の少ない樹種を選び、暖炉へ収まりやすいよう長さを揃えて納品しております」
「この布は?」
「使用人の制服用ですね。ローゼンベルク家から色をご指定いただき、毎回同じ色になるよう染めております」
聞けば聞くほど、理由が出てくる。
ヴァレンティナはしばらく契約書と請求書を見比べたあと、力が抜けたように椅子の背へ身体を預けた。
「……騙されてたわけじゃないのね」
トーマスの表情が一瞬で変わった。
「もちろんでございます!」
「ごめんなさい、疑ってるって意味じゃないの」
実際には、少し疑っていた。
「つまり、昔ものすごくお金があった頃に特注品を頼んで、その契約が四十三年間ずっと同じ内容で続いてたってこと?」
「左様でございます」
「その間、誰も見直さなかったの?」
「ローゼンベルク家から変更のお申し出はございませんでしたので、当商会といたしましては契約通りの商品を納品してまいりました」
「ハリソン商会の方から、『普通のでよろしいのでは』って言ってくれてもよかったんじゃない?」
「奥様」
セドリックが穏やかな声で口を挟んだ。
「何?」
「注文された商品を、注文された仕様で納品するのが商会です」
「……まあ、そうね」
ヴァレンティナにも、それはすぐ理解できた。
ベルモンド家だって商売をしている。
客が最高級の品を注文しているのに、懐事情を勝手に推測して「最近お金がなさそうなので、今月から安い品へ変えておきました」などと言えば、親切どころか侮辱になりかねない。
ましてローゼンベルク家は、建国以前から続く名門侯爵家である。
商会側から生活水準を下げるよう勧めるのは、簡単な話ではなかっただろう。
「じゃあ、結局うちが買い方を間違えてただけじゃない」
「端的に申し上げれば」
セドリックが柔らかく微笑んだ。
「はい」
「笑わないでよ」
「笑っておりません」
「口元が笑ってる!」
◇
原因が分かれば、次は変えればいい。
ヴァレンティナはそう考え、改めて請求書を手元へ引き寄せた。
「それなら、普通の商品に変えましょう」
トーマスがわずかに姿勢を正した。
「すべて、でございますか?」
「石鹸は普通のでいいでしょう。洗濯や掃除に侯爵家専用の香りなんて必要ないし、薪だって長さまで全部同じじゃなくていいわ」
「暖炉によっては、適した長さがございます」
「じゃあ入る長さなら――」
「奥様」
今度はセドリックが止めた。
「何?」
「一度にすべて変更するのは、あまり得策ではないかと存じます」
「どうして?」
セドリックはすぐには答えず、机に置かれた古い契約書へ目を落とした。
「ハリソン商会にも、ローゼンベルク家向けの商品を長年作っている職人がおります。急にすべての特注品を打ち切れば、その者たちにも影響が出るでしょう」
ヴァレンティナは口を閉じた。
「それに、四十三年という取引実績そのものにも価値がございます。急な注文へ対応していただいたこともございますし、支払いについて融通を利かせていただいたことも一度や二度ではありません」
そこでトーマスが静かに頷いた。
「先代侯爵がお亡くなりになった年には、当家へのお支払いを半年ほどお待ちしたこともございます」
ヴァレンティナは顔を上げた。
「そうなの?」
「はい。当時は領地からの収入も一時的に落ち込んでおりましたので、長いお付き合いでもございますし、こちらから支払い時期の変更をご提案いたしました」
そんな話は知らなかった。
ヴァレンティナは手元の帳簿を思い出した。
帳簿には、何をいくらで買ったのかは書いてある。
けれど、支払いを待ってもらったときに交わされた会話までは残っていない。
急な注文へ対応してもらった夜のことも、取引先が困ったときに助けてくれた事情も、数字だけを眺めていては見えてこない。
「……じゃあ、どうする?」
ヴァレンティナは素直にセドリックを見た。
「私にお尋ねになりますか?」
「あなたが止めたんでしょう。代案まで出しなさいよ」
「なるほど。責任重大ですね」
セドリックは少し考えてから、トーマスへ向き直った。
「ハリソン様。特注品をすべて廃止するのではなく、一部を残したうえで、日常的に大量消費するもののみ一般品へ切り替えることは可能でしょうか」
「と申しますと?」
「たとえば、来客用の化粧石鹸には従来品を残し、洗濯や掃除には一般品を使います」
「なるほど」
「蝋燭についても、食堂や応接室、客間などでは従来の蜜蝋を多く使った品を残し、使用人区域や倉庫などは一般品へ切り替える」
ヴァレンティナの表情が明るくなった。
「それいい!」
「薪も同様です。煙や香りを気にする応接室などでは従来品を使い、それ以外の暖炉には規格を緩めたものを納品していただく」
「それなら、必要なところだけ今までの品質を残せるわね」
トーマスも頭の中で数量を計算しているらしく、しばらく考えてから頷いた。
「その内容でしたら、こちらとしても対応可能でございます。一般品と特注品の数量を確認したうえで、改めてお見積もりをお出しいたしましょう」
「どれくらい安くなる?」
「奥様」
「何よ」
「今から、それを詰めるところです」
セドリックは微笑んだ。
「ここからは私にお任せいただけますか?」
ヴァレンティナは少しだけ不満そうに彼を見たものの、商会との長年の付き合いまで把握しているのはセドリックの方である。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「でも、高かったら途中で口出すからね」
「承知しております」
◇
そこから先の交渉を眺めながら、ヴァレンティナはセドリックという男について、自分が少し認識を改める必要があることに気づいた。
普段の彼は穏やかで、声を荒らげることもほとんどない。
エレノアとヴァレンティナが言い合いを始めれば一歩離れたところから静かに眺め、アルベルトから指示を受ければ淡々と処理し、必要があればさりげなく助言を入れる。
しかし交渉の席へ座ったセドリックは、その穏やかさを一切崩さないまま、相手の提示した条件を少しずつ削っていった。
「この数量でしたら、一般品への切り替え分を含め、十五パーセント程度のお値引きが可能かと」
「二十二でお願いいたします」
トーマスの笑顔が一瞬だけ固まった。
「それはさすがに難しいですね」
「四十三年間のお付き合いです」
「それを考慮して十五と申し上げております」
「今後も長くお付き合いを続けたいと思っておりますので」
セドリックは相変わらず微笑んでいる。
声の調子も変わらない。
なのに、なぜか引く気配がまるでない。
「……十八ではいかがでしょう」
「二十一で」
「二十」
「二十一」
「セドリック様」
「はい」
「今、私どもが二十と申し上げました」
「承知しております」
「でしたら」
「配送費をそちらでご負担いただけるのであれば、二十で結構です」
トーマスが数秒黙った。
「……四十三年間のお付き合いでございますからね」
「ありがとうございます」
「その言葉を先ほどから武器に使っておられませんか?」
「まさか。大切にしているだけでございます」
トーマスが額へ手を当てた。
ヴァレンティナは横から黙って二人を見ていた。
怖い。
セドリックは一度も声を荒らしていない。
脅してもいないし、無理難題を突きつけてもいない。
相手の事情も認め、取引を続ける意思も何度も示している。
それなのに話が進むたび、少しずつ条件がローゼンベルク家に有利になっている。
最終的には、日常的に使う石鹸や蝋燭、薪などを一般品へ切り替え、来客用や重要な場所で使う特注品については従来通り継続することで合意した。
全体の購入費は平均して約二割削減され、ハリソン商会との四十三年の取引関係もそのまま残る。
「今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
セドリックが何事もなかったように微笑んだ。
「こちらこそ……よろしくお願いいたします」
答えたトーマスの顔には、最初に部屋へ入ってきたときにはなかった疲労が少しだけ浮かんでいた。
◇
帰りの馬車が王都の石畳を進むなか、ヴァレンティナは向かいに座るセドリックをしばらく無言で見ていた。
「何でしょう?」
先に気づいたセドリックが尋ねる。
「あなた」
「はい」
「意外と腹黒いわね」
「失礼ですね」
「褒めてるのよ」
「なお悪い気がいたします」
「商人に向いてるわよ。うちのお父様と一度交渉させてみたい」
「それは遠慮いたします」
「なんで?」
「ベルモンド男爵は、奥様のお父上でしょう?」
「そうよ」
「奥様がこの程度で済んでいるということは、お父上はもっと恐ろしい方なのでは?」
ヴァレンティナは少し考えた。
「……たぶん」
「でしたら、なおさら遠慮いたします」
「賢明ね」
セドリックが苦笑する。
ヴァレンティナも笑ったが、やがて窓の外へ視線を移した。
行き交う馬車や商店の看板が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
「でも、私、ちょっと間違えてたかも」
「何をです?」
「帳簿を見れば、全部分かると思ってた」
セドリックが静かに彼女を見る。
「高いものを見つけて、それを安いものへ変えればいいと思ってたのよ。もちろん、それでいいものもあるけど」
「間違いではございません」
「でも、今日みたいなこともあるでしょう?」
四十三年という時間は、請求書の数字だけでは表せない。
困ったときに支払いを待ってもらったことも、急な注文に応えてもらったことも、長い取引のなかで積み上がった信用も、帳簿の一行だけを見ていては分からない。
「高いものには、高い理由があることもあるのね」
「ございますね」
「その理由が今も必要なのかは、別だけど」
「ええ。それを確かめることが大切なのでしょう」
ヴァレンティナは少し考えてから頷いた。
「商売って、数字だけじゃないものね」
「奥様のご実家こそ、それをご存じなのでは?」
「お父様ならね。私は家の帳簿くらいしか見てなかったもの」
「では、奥様もこれから覚えればよろしいでしょう」
「簡単に言うわね」
「今日、一つ覚えられたではありませんか」
ヴァレンティナは一瞬黙ったあと、少しだけ口元を緩めた。
「……あなた、たまにいいこと言うわね」
「たまに、は余計です」
◇
その日の夕食では、ヴァレンティナが新しい契約内容をアルベルトへ報告した。
「ということで、日常的に使うものは普通の商品へ変えて、来客用や表に出るものだけ特注品を残すことにしたの」
アルベルトは食後のワインを飲みながら、セドリックがまとめた書類へ目を通している。
「年間では、どの程度になる?」
「まだ正確な数量を調整してるけど、少なくとも三百リル以上は減りそう」
「三百か」
「どう?」
「大きいな」
「でしょう?」
ヴァレンティナが得意そうに笑う。
アルベルトはさらに数行を読み進めたところで、少し意外そうに顔を上げた。
「ハリソン商会との契約そのものは残したのか」
「残したわよ」
「意外だな」
「何よ」
「君なら、もっと安い業者が見つかれば全部そちらへ変えると言うかと思った」
「私も最初はそうしようと思ったわよ」
「ほう」
「でも、セドリックに止められたの。昔、支払いを待ってもらったこともあるんですって?」
アルベルトの視線がセドリックへ移る。
「そうだ。父が亡くなった頃は特に世話になった」
「だったら先に教えてよ」
「君がハリソン商会の請求書を調べるとは思わなかった」
「最近の私を見てれば分かるでしょう!」
「それもそうだな」
あっさり認められ、ヴァレンティナは逆に言葉に詰まった。
「それで、特注品は来客用だけ残すことにしたの」
「それなら問題ない。表に出る部分まで急に質を落とせば、余計な憶測を呼ぶこともあるからな」
「でしょう?」
アルベルトは書類を机へ置くと、向かいに座るヴァレンティナを見た。
「……君も随分、この家のことが分かってきたな」
ヴァレンティナが止まった。
「何よ、急に」
「別に深い意味はない」
「褒めてる?」
「そのつもりだ」
「じゃあ、もう一回言って」
「断る」
「なんでよ!」
「一度で聞け」
「ケチ!」
「そういう問題なのか?」
壁際に控えていたセドリックは、静かに視線を逸らした。
◇
翌朝、ハリソン商会から最初の一般品が届けられた。
ヴァレンティナは荷解きされた箱から石鹸を一つ取り出し、手のひらで転がしてみた。
色は薄い乳白色で、これまで使っていたもののような飾り模様もなく、鼻へ近づけても微かな石鹸そのものの香りしかしない。
「これが普通の?」
「はい」
隣に立つエレノアが答えた。
ヴァレンティナは匂いを確かめてから頷いた。
「普通ね」
「普通でございます」
「洗濯するなら、これで十分じゃない」
「私は以前のものの方が好みでした」
「高いものね」
「価格ではなく、香りの問題でございます」
「じゃあ給料から差額を出す?」
「普通ので結構です」
「早っ」
ヴァレンティナが笑うと、エレノアは何事もなかったような顔で若いメイドたちへ箱を運ぶよう指示した。
特別な品ではない。
最高級でもなく、ローゼンベルク侯爵家のためだけに作られたものですらない。
けれど、洗濯や掃除に必要なのは、侯爵家の紋章でも四十三年の伝統でもなく、きちんと汚れを落とせる石鹸である。
一方で、客室に置くものまで同じにする必要もない。
必要なところには必要な品質を残し、必要のないところだけを変える。
全部を高級品にする必要もなければ、全部を安いものへ変える必要もないのだ。
以前のヴァレンティナなら、高い請求書を見つけた瞬間に「もっと安いものへ」と考えていたかもしれない。
今は、その金額の向こう側に何があるのかを一度確かめるくらいの慎重さは身についた。
もっとも、ローゼンベルク侯爵家が彼女にゆっくり成長を喜ばせてくれるほど親切な家であるはずもなかった。
「奥様」
エレノアが新しい封筒を差し出した。
「何?」
「本日、もう一件請求書が届いております」
「どこから?」
「庭園管理業者でございます」
ヴァレンティナは何気なく受け取り、封を開けた。
そこには、普段の簡単な手入れは専属庭師一人が行い、樹木の剪定や庭全体の整備など、人手と技術が必要な大掛かりな作業だけを外部業者へ任せた費用が記されていた。
内容を一通り読んだヴァレンティナは、最後に書かれた合計金額を見て、しばらく黙った。
「…………」
「奥様?」
「エレノア」
「はい」
「うちの庭に、王様でも埋まってる?」
「埋まっておりません」
「じゃあ、なんでこんなに高いのよ!」
「これでも以前よりかなり削減しております。日常の手入れは専属庭師一人で行い、大掛かりな作業のみ業者へ依頼しておりますので」
「だったら、その大掛かりな手入れも私がするわ!」
「侯爵夫人ともあろうお方がなさる仕事ではございません」
「木を切るくらいでしょう!?」
「脚立から落ちた侯爵夫人を医者へ運ぶ費用まで計上することになりますが」
「落ちないわよ!」
「皆様そうおっしゃいます」
「経験者みたいに言わないで!」
エレノアは請求書を受け取り直すと、何事もなかったように封筒へ戻した。
ローゼンベルク侯爵家では、ワイン代が減り、食材の無駄が減り、使用人の働き方が少し変わり、今度は四十三年間放置されていた日用品の契約まで見直された。
それでも屋敷には、まだ確認していない請求書がいくらでも残っている。
どうやらこの家を立て直すには、金だけではなく、昔から続いているもののうち何を残し、何を変えるのかを一つずつ見極めていかなければならないらしい。
そして肝心の屋根については、いまだ修理に至っていない。
ローゼンベルク侯爵家の雨漏りが完全に止まるまでの道のりは、相変わらず長かった。




