第5話、侯爵家、メイドが辞めたいそうです
第5話 侯爵家、メイドが辞めたいそうです
ローゼンベルク侯爵家へ嫁いで、一か月が過ぎた。
たった一か月ではあるものの、ヴァレンティナはようやく、この大きく古い屋敷がどのような場所なのかを少しずつ理解し始めていた。
屋根は雨漏りする。
食卓に出されていたワインは驚くほど高く、食料庫では油断すると同じ種類のジャムが三瓶同時に開封される。
見た目だけなら歴史ある名門侯爵家そのものなのに、中へ入って一枚ずつ蓋を開けてみれば、何十年も見直されていない習慣があちらこちらから顔を出す。
そして夫のアルベルトは、ヴァレンティナが「節約」と言うたびに面倒そうな顔をするくせに、最近では自分から屋根の修繕費についてセドリックへ確認するようになった。
少なくとも、以前よりは前進している。
順調である。
たぶん。
「奥様」
その日の朝食を終え、自室へ戻ろうとしていたヴァレンティナは、廊下へ出たところでエレノアに呼び止められた。
「何?」
「少々、お時間をいただけますでしょうか」
「いいけど」
振り返ってみると、エレノアの表情がいつも以上に硬い。
もっとも、この女は普段からかなり硬い顔をしているので、付き合い始めて一か月程度では違いを見分けるのも簡単ではない。
それでも今日は、ヴァレンティナが何か新しいことを始めるのではないかと警戒しているときの顔とは少し違って見えた。
「どうしたの?」
「若いメイドが一人、暇をいただきたいと申し出ております」
「暇?」
「退職を希望しております」
ヴァレンティナは足を止めた。
「どうして?」
「家庭の事情とのことです」
「そうなの」
家庭の事情なら、仕方がない。
使用人にだって家族も生活もあるのだから、侯爵家に勤め始めた以上は一生ここで働けなどと言うつもりはなかった。
ただ、一つ気になる。
「誰?」
「リナでございます」
「リナ……」
名前を聞いたところで、ヴァレンティナの頭にすぐ一人の少女の顔が浮かんだ。
十八歳ほどの小柄なメイドで、先日、食料庫の整理をしたあとに厨房で林檎の皮を剥いていたとき、「奥様、お上手ですね」と珍しそうに話しかけてきた娘である。
働き始めてまだそれほど長くないと聞いていた。
「いつ辞めるの?」
「できれば今月中に、とのことです」
「分かった。本人と少し話してもいい?」
「……奥様が?」
エレノアの眉がわずかに動いた。
「駄目?」
「いいえ。ただ、退職の申し出は私がお預かりしておりますので、通常でしたら私の方で手続きをいたします」
「無理に引き止めるつもりはないわよ」
「でしたら――」
「でも、家庭の事情なら、何か困ってることがあるのかもしれないでしょう?」
エレノアはしばらくヴァレンティナを見ていたが、やがて小さく頭を下げた。
「呼んでまいります」
「お願い」
◇
十分ほどして、控えめなノックとともにリナが部屋へ入ってきた。
「失礼いたします」
普段は厨房や廊下で忙しく動き回っている姿しか見たことがなかったが、改めて向き合ってみると、実年齢よりも少し幼く見える。
小柄な身体に黒と白のメイド服をきちんと着込み、栗色の髪を後ろでまとめているものの、緊張しているのか肩に余計な力が入っていた。
「座って」
「いえ、そのようなことは」
「いいから」
「ですが、奥様の前で――」
「私、立ってる人と話してると首が疲れるの」
「……はい」
もちろん嘘である。
それでもリナは逆らうわけにもいかず、おそるおそる椅子の端へ腰を下ろした。
ヴァレンティナも向かいの椅子へ座り、エレノアは少し離れた場所に控える。
「辞めたいんですって?」
「……はい」
「理由を聞いてもいい?」
リナは膝の上で両手を握り、少し迷ってから俯いた。
「母が、身体を悪くしまして」
「病気?」
「病気というほどではないのですが、腰を痛めてしまって、以前のようには動けなくなっております」
「そう」
「下に弟が二人おりますので、家へ戻って母を手伝った方がいいのではないかと思いまして」
「実家はどこ?」
「王都の南地区です」
ヴァレンティナは少し意外に思った。
「それなら、それほど遠くないわよね?」
「はい」
「仕事を続けながら、ときどき帰るのは難しいの?」
その質問をした途端、リナが黙った。
何か言いにくい事情があるのだろうと察し、ヴァレンティナは急かさずに待つ。
やがて、リナが小さな声で答えた。
「……時間がございませんので」
「時間?」
「朝は五時から仕事がございますし、終わるのは夜の九時頃になりますので」
ヴァレンティナの表情が止まった。
「ちょっと待って」
「はい」
「朝五時?」
「はい」
「夜九時?」
「はい」
「それ、毎日?」
「基本的には」
ヴァレンティナはゆっくりエレノアを見た。
「エレノア」
「はい」
「この子、一日何時間働いてるの?」
「途中で食事と休憩の時間を取っておりますので、すべてが勤務時間というわけではございません」
「休憩は何時間?」
「日によって異なります」
「休日は?」
「原則として月に二日でございます」
ヴァレンティナは何も言わなかった。
リナが不安そうに二人の顔を見比べている。
「他のメイドも?」
「概ね同様でございます」
「あなたも?」
「私はメイド長ですので、もう少し――」
「もう少し何?」
「長く勤務しております」
ヴァレンティナは額へ手を当てた。
嫌な予感どころではない。
「なんで?」
「なんで、と申されましても」
「なんでそんなに働いてるのよ」
「屋敷を維持するためでございます」
「でも、この屋敷って昔より使用人が減ってるでしょう?」
「はい」
「仕事の量は?」
そこで初めて、エレノアが少し答えに詰まった。
「……大きくは変わっておりません」
「でしょうね!」
ヴァレンティナは勢いよく立ち上がった。
リナが驚いて背筋を伸ばす。
「使用人の名簿と勤務表を持ってきて」
「奥様」
「今すぐ」
「しかし、リナの件でしたら――」
「リナ一人の問題じゃないでしょう?」
ヴァレンティナは真っ直ぐエレノアを見た。
「これは食材みたいに、駄目になりかけてから気づけばいい話じゃないわ。人間はジャムみたいに新しい瓶を開ければ済むものじゃないでしょう?」
エレノアの唇がわずかに引き結ばれた。
反論はなかった。
「……かしこまりました」
◇
一時間後、ヴァレンティナの前には使用人名簿と数か月分の勤務表、それに屋敷内の仕事を書き出した記録が積まれていた。
メイド、従僕、厨房係、庭師、厩舎係。
かつてのローゼンベルク侯爵家には、現在よりはるかに多くの使用人がいたらしい。
しかし家計が苦しくなるにつれて、一人辞め、二人辞め、年齢を理由に退職する者が出ても、その穴を新しい人間で埋めなくなった。
人を雇わなければ、その分だけ人件費は減る。
帳簿の上では、確かに支出削減である。
問題は、人間だけ減らして仕事をほとんど減らしていなかったことだった。
「……ひどい」
ヴァレンティナは勤務表から顔を上げた。
「なんで仕事の量は昔のままなの?」
「侯爵家として、一定の水準を維持する必要がございますので」
エレノアが答える。
「また格式!」
「格式だけの問題ではございません。大きな屋敷を放置すれば傷みますし、突然のお客様にも対応できなくなります」
「それは分かるわよ。でも、必要な仕事と、昔からやってるから続けてる仕事を分けましょう」
ヴァレンティナは一覧へ目を落とした。
毎朝、ほとんど使われていない客室まで掃除する。
銀食器は一定の周期ですべて磨く。
広い廊下を毎日同じように清掃し、来客が何か月もない部屋まで常に使える状態へ整えている。
「この北側の客室、最後に誰か泊まったのいつ?」
「昨年の冬でございます」
「それを毎日掃除してるの?」
「埃が積もりますので」
「毎日じゃなくてもいいでしょう。家具に布をかけて、使わない時期は回数を減らせばいいわ」
「ですが――」
「この銀食器は?」
「週に一度、磨いております」
「最後に使ったのは?」
「……春の晩餐会でございます」
ヴァレンティナは窓の外を見た。
庭木はすでに秋の色に変わり始めている。
「今、秋よね?」
「はい」
「半年近く使ってない銀食器を、毎週全部磨いてるの?」
「銀は放置すれば曇りますので」
「使う予定が決まったら、その前に磨けばいいでしょう!」
「それでは急な来客へ対応できません」
「王様が突然やってきて、『銀食器を全部見せてくれ』って言うの?」
「そのようなことはございませんが」
「だったら頻度を減らす!」
エレノアの眉間に深い皺が刻まれた。
「奥様」
「何?」
「屋敷の管理には、一定の水準が必要でございます。仕事を減らしすぎれば、今度はローゼンベルク家そのものの品位に関わります」
「分かってるわ」
「でしたら――」
「でも、その水準を守るために働いてる人が潰れたら、もっと意味がないでしょう?」
エレノアが黙った。
ヴァレンティナは勤務表を指で叩いた。
「人を減らしたなら仕事も減らすの。どうしても減らせない仕事なら、人を増やすしかないでしょう?」
「それでは人件費が増えます」
「増えるわよ」
あまりにも当然のように答えたため、今度はエレノアが目を瞬いた。
「……よろしいのですか?」
「何が?」
「奥様は、このところ家の支出を減らそうとなさっていたのではありませんか」
「無駄な支出を減らしてるの」
ヴァレンティナは即座に訂正した。
「必要なところには使うわよ」
「ですが、新しく人を雇えば、年間ではかなりの金額になります」
「食材だけで年間千リル近く浮く見込みでしょう?」
「はい」
「ワインだって、普段用を変えれば二千リル以上減る予定じゃない」
「まだ旦那様がお選びになった銘柄が正式に定着したわけではございません」
「細かいわね」
「重要でございます」
「とにかく!」
ヴァレンティナは新しい紙を引き寄せた。
「まず勤務を組み直して、必要のない仕事を減らす。それでも回らないなら人を雇うわ。人件費だけ見て、今いる人間が辞めたり倒れたりしたら、結局もっと困るでしょう?」
エレノアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……承知いたしました」
◇
その日の夕食後、ヴァレンティナはアルベルトの書斎へ乗り込んだ。
「というわけで、メイドを増やしたいの」
「待て」
「何?」
「話が早すぎる」
机で書類を読んでいたアルベルトが、眉間を押さえながら顔を上げる。
「何がどうなって、そこへ行き着いたんだ」
「最初から説明する?」
「頼む」
ヴァレンティナは遠慮なく向かいの椅子へ座り、朝から調べた内容を順番に説明した。
リナの母親が腰を痛めたこと。
朝五時から夜九時まで働く日が珍しくないこと。
使用人の人数が減り続けているのに、仕事の量はほとんど変わっていないこと。
誰も使っていない客室を毎日掃除し、半年使っていない銀食器を毎週磨いていること。
最初は腕を組んで聞いていたアルベルトも、勤務時間の話に入った頃には表情を変えていた。
「……そんな勤務になっていたのか」
「知らなかったの?」
「使用人の勤務については、基本的にエレノアへ任せていた」
部屋の端に控えていたエレノアが頭を下げた。
「申し訳ございません」
「いや」
アルベルトはすぐに首を振った。
「お前だけを責める話ではない。人を補充しなかったのは俺だ」
「旦那様」
「家計を削る必要があったから、誰かが辞めても新しく雇わないことが増えた。人件費だけを見れば、それで支出は減る」
アルベルトは椅子の背へ身体を預け、少し苦い表情を浮かべた。
「だが、その仕事がどこへ行くのかまでは考えていなかった」
「残った人に乗ってたのよ」
「ああ」
言い訳をせず、素直に認めた。
ヴァレンティナは少し意外に思った。
「反対しないの?」
「何に?」
「人を雇うこと」
「必要なら雇う」
「……へえ」
「何だ、その顔は」
「『ローゼンベルク家では昔からこの人数でやっている』とか言うと思った」
「俺を何だと思っている」
「高いワインを飲みながら、雨漏りを桶で受ける人」
「まだ言うのか」
「一生言うわよ」
「やめろ」
アルベルトが深いため息をついた。
「それで、何人必要なんだ?」
「まだ分からない」
「さっき増やしたいと言っただろう」
「先に仕事を整理するのよ。無駄な仕事まで残したまま人を増やしたら、その分まで人件費を払うことになるでしょう?」
「……なるほど」
ヴァレンティナは持ってきた紙を机へ広げた。
「使っていない客室は掃除の回数を減らす。銀食器も全部を毎週磨かない。来客予定が決まったら、その前に必要なものをまとめて確認する。それから庭も――」
「庭は少し待て」
「なんで?」
「来月、王族が来る可能性がある」
ヴァレンティナの顔が止まった。
「……何ですって?」
「まだ正式には決まっていないが」
「先に言いなさいよ!」
「まだ決まっていないと言っただろう」
「そういう情報が一番大事でしょうが! 危うく庭師に『しばらく最低限でいいわ』って言うところだったじゃない!」
「それは困る」
「だから先に言いなさいって言ってるの!」
「……すまん」
ヴァレンティナは一瞬黙った。
「今、謝った?」
「謝った」
「珍しい」
「君は俺を何だと思っているんだ」
「高いワインを――」
「もういい」
◇
それから三日かけて、エレノアとセドリック、厨房や屋敷内の各担当者にも確認しながら仕事の割り振りを組み直した。
何でも減らせばいいわけではない。
毎日確認しなければならない場所もあれば、頻度を落としても問題のない仕事もある。
来客があれば急に必要になる作業もあるため、その部分は残さなければならない。
特にエレノアは、「本来であれば毎日」「以前から週に一度」と何度も抵抗したが、そのたびにヴァレンティナが実際の使用頻度を尋ね、セドリックが横から淡々と数字を補足した。
最終的に、早番と遅番を分ける交代制が導入された。
休日も月二日から、まずは月四日程度まで増やす。
十分に余裕のある勤務とはまだ言えないが、少なくとも一人の人間が夜明け前から夜まで働き続ける状況は避けられるようになった。
「リナ」
「はい」
ヴァレンティナは完成した勤務表を本人へ渡した。
「これ、見て」
リナは紙を受け取り、そこに書かれた自分の名前を探した。
「……これは?」
「新しい勤務表よ」
早番の日は早朝から働く代わりに、夕方には仕事を終えられる。
遅番の日は朝の仕事を他の者へ任せ、少し遅い時間から入る。
そして以前より休日も増えていた。
「これなら、夕方から家へ帰れる日があるでしょう?」
「……はい」
「お母様の様子を見に行ける?」
リナの指が、勤務表の端を強く握った。
「はい」
ヴァレンティナはその様子を見ながら、声を少し柔らかくした。
「それでも辞めたいなら止めないわよ」
「…………」
「家族の方が大事なこともあるもの。仕事を続けるために家族を放っておけなんて言うつもりはないわ」
リナは俯いた。
しばらく返事がなかった。
やがて顔を上げたとき、その目には少しだけ涙が浮かんでいた。
「もう少し……」
「うん」
「もう少し、こちらで働かせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
ヴァレンティナは笑った。
「でも、無理はしないでね。お母様の具合が悪くなったら、ちゃんと言うのよ」
「はい!」
リナが深く頭を下げる。
少し離れた場所では、エレノアが何も言わず、その様子を見ていた。
◇
その日の夜、屋敷の大半が静まり始めた頃になっても、使用人用の執務室にはまだ灯りがついていた。
机ではエレノアが一人、新しく作り直された勤務表を確認している。
誰が早番で、誰が遅番なのか。
休みの日に欠員が出ないか。
急な来客があった場合に、どの組み合わせなら対応できるか。
仕事の割り振りを減らしたところで、最終的に確認する人間が必要なのだとでも言うように、細かな文字を一つずつ追っていた。
「まだいたの?」
突然声をかけられ、エレノアが顔を上げる。
扉のところに、寝間着へ着替える前のヴァレンティナが立っていた。
「奥様」
「もう遅いわよ」
「明日の配置を確認しておりました」
「新しい勤務表、分かりにくい?」
「いいえ。問題ございません」
「じゃあ明日でいいでしょう?」
「しかし、初日ですので確認しておいた方が――」
「あなたも対象だからね」
エレノアの眉がわずかに動いた。
「……何がでございますか」
「勤務時間」
「私はメイド長です」
「人間でもあるでしょう」
「…………」
「今日、何時から働いてるの?」
「本日は四時半からでございます」
「今は?」
「十時を少し過ぎたところかと」
ヴァレンティナの顔が引きつった。
「帰りなさい」
「奥様」
「今すぐ」
「まだ確認することがございます」
「私が命令するわ。今日の仕事は終わり」
「ですが――」
「メイド長が倒れたら、この屋敷で一番困るの誰だと思ってるの?」
エレノアは答えようとして、一瞬黙った。
「……屋敷全体でございます」
「じゃあ、もっと駄目じゃない」
ヴァレンティナは机まで歩み寄り、エレノアの手元から勤務表を取り上げた。
「これは明日でも読めるでしょう?」
「奥様」
「明日!」
エレノアは見るからに不満そうだった。
けれど相手は、どれほど成金の娘だと思っていようが、この家の侯爵夫人である。
命令だと言われれば、使用人であるエレノアが逆らえる範囲にも限度があった。
「……かしこまりました」
しぶしぶ立ち上がり、机の上を整えてから頭を下げる。
そのまま扉へ向かったエレノアは、廊下へ出る直前に足を止めた。
「奥様」
「何?」
「リナの件ですが」
「うん」
「ありがとうございました」
ヴァレンティナは目を瞬いた。
「……エレノアが私にお礼言った」
「失礼いたします」
「ちょっと待って、もう一回言って!」
「失礼いたします」
「そっちじゃない!」
エレノアは振り返らずに扉を閉めた。
残されたヴァレンティナは、しばらく閉じた扉を見つめていた。
「……少しくらい笑えばいいのに」
◇
廊下へ出たエレノアは、誰もいないことを確認するように少し歩いてから、小さく息を吐いた。
今日一日だけでも、勤務表を何度書き直したか分からない。
仕事の頻度を減らせと言われるたびに、これまで守ってきたものを崩されているような気がした。
ローゼンベルク家にはローゼンベルク家のやり方があり、自分はそれを守るために働いてきた。
新しく嫁いできたばかりの女主人に、簡単に変えられていいものではない。
そう思っている。
今も、その考えがなくなったわけではなかった。
「まったく……」
派手で、騒がしくて、遠慮がない。
侯爵家のしきたりへ平気で疑問を投げつけ、必要がないと思えば何十年続いたやり方でも変えようとする。
そのくせ、使用人の娘が家族のために辞めると聞けば、自分で勤務表を引っ張り出してくる。
「困った方だわ」
「誰がです?」
すぐ後ろから声がして、エレノアの肩がわずかに揺れた。
振り返ると、いつもの落ち着いた表情をしたセドリックが立っている。
「いつからそこに?」
「今来たところです」
「嘘をつきなさい」
「では、五分ほど前から」
「正直に言い直すな」
セドリックがわずかに笑った。
「帰るのですか?」
「奥様の命令です」
「それはよかった」
「何がです?」
「あなたは働きすぎです」
「あなたに言われたくありません」
「私は明日、昼からの勤務ですよ」
エレノアが足を止めた。
「……新しい勤務表で?」
「ええ。奥様に、執事長が率先して守らなければ誰も守らないと言われました」
「そうですか」
「ですから私は素直に従います」
「嫌味ですか?」
「まさか」
二人は並んで薄暗い廊下を歩き始めた。
壁の燭台には最低限の蝋燭しか灯されておらず、磨かれた床へ二人の影が長く伸びている。
しばらく歩いたところで、セドリックが何気ない調子で尋ねた。
「奥様への印象は、少し変わりましたか?」
「いいえ」
返事は速かった。
「派手ですし、騒がしいですし、侯爵家のしきたりを片っ端から変えようとなさいます」
「随分な評価ですね」
「事実です」
「では、リナの件についても余計なことをなさったと?」
エレノアは答えなかった。
数歩分の沈黙が続く。
「……あの子が辞めずに済んだことは、良かったと思っています」
「なるほど」
「それとこれとは別です」
「私は何も申しておりませんが」
「顔が言っています」
「これは元からこの顔です」
エレノアは横目で彼を睨んだ。
セドリックはそれ以上何も聞かなかった。
長く一緒に働いてきた相手に対して、無理に言葉を引き出す必要がないことくらいは知っている。
やがて使用人区画へ続く廊下の分かれ道に差しかかる。
「では、おやすみなさい」
「ええ」
エレノアは数歩進んでから、ふと思い出したように振り返った。
「セドリック」
「何でしょう」
「あなたも、本当に昼から来なさい」
セドリックが少し目を細めた。
「承知しました」
「早く来ても仕事は渡しませんからね」
「それは困りますね」
「困ってください」
今度こそ、エレノアは自室へ向かって歩いていった。
◇
こうしてローゼンベルク侯爵家では、その日から使用人たちの働き方が少し変わった。
早番と遅番が分けられ、休日が増え、使われていない部屋の掃除や銀食器の手入れも、実際の必要性に合わせて頻度を見直すことになった。
それでも人手が足りないことに変わりはなく、いずれは新しい使用人を雇う必要があるだろう。
人件費は、おそらく少し増える。
それでいいとヴァレンティナは考えていた。
食費を減らし、ワイン代を見直したのは、数字を小さくすること自体が目的ではない。
使う必要のないところから金を取り戻し、本当に必要なところへ回すためである。
安く済ませることと、必要な金まで使わないことは違う。
その考えは、ベルモンド家で育った頃からヴァレンティナの中では当たり前のものだった。
ただし、このときの彼女にはまだ一つだけ分かっていないことがあった。
新しい勤務表を作り、使用人たちへ休むよう命じたところで、それだけですべての問題が解決するわけではない。
特に、自分だけは休まなくても平気だと思っている人間には。
ローゼンベルク侯爵家には、屋根や帳簿だけでなく、人間にも長年の無理が積み重なっていた。




