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第4話 侯爵家、食材を捨てすぎです

第4話 侯爵家、食材を捨てすぎです


 ローゼンベルク侯爵家へ嫁いで三週間と少しが過ぎた朝、ヴァレンティナは食卓に置かれた苺のジャムを、まるで帳簿の不審な数字でも見つけたかのような目で睨んでいた。


 朝食の食卓には焼きたてのパンと卵料理、薄く切ったハムに果物が並び、その中央には銀の蓋がついた小さなガラス瓶が置かれている。


 問題なのは、中身ではない。


 苺のジャムそのものは美味しいし、値段も先日発見した十八リルの輸入茶葉ほど非常識ではなかった。


 ただ、その瓶に見覚えがなかった。


「……アルベルト」


 向かい側では、アルベルトが朝刊に目を通している。


「何だ」


「これ、いつ開けたの?」


「知らん」


「昨日も苺のジャム食べたわよね?」


「食べたと思うが」


「昨日の瓶と違う」


 そこでようやくアルベルトが新聞から顔を上げた。


「分かるのか?」


「分かるわよ。昨日の瓶はもう底が見えるくらいしか残ってなかったもの。これはほとんど新品じゃない」


 アルベルトはジャムの瓶を見た。


「新しいものを開けたんだろう」


「だから、昨日の瓶は?」


「さあ」


 本人にとってはどうでもいい話だったらしく、アルベルトは再び新聞へ視線を戻した。


 ヴァレンティナはジャムを見つめた。


 胸の奥に、嫌な予感が生まれる。


 この屋敷へ嫁いでからというもの、この感覚だけは妙によく当たるようになった。


 最初は雨漏りだった。


 次は年間三千リルを超えるワイン代。


 ドレスについては、むしろ自分が浪費を疑われる側だったので少し違うが、とにかく気になったものを放置して良かったことが一度もない。


「エレノア」


「はい」


 壁際に控えていたメイド長が、一歩前へ出た。


「昨日の苺ジャム、どうしたの?」


「厨房へ確認いたします」


「私も行く」


「奥様?」


 ヴァレンティナはナプキンを置いて立ち上がった。


「食料庫を見せて」


 その瞬間、エレノアの表情がわずかに固まった。


「……食料庫、でございますか」


「そう」


「奥様がお入りになるような場所ではございませんが」


「その台詞、そろそろ聞き飽きたわ」


「しかし、食料庫の管理は料理長と厨房係が行っておりますので、わざわざ奥様が――」


「見るだけよ」


 エレノアは何とも言えない顔をした。


「先日もそうおっしゃって、三年分の帳簿をお調べになったかと記憶しております」


「今日は本当に見るだけ!」


「……左様でございますか」


「何よ、その顔」


「何も」


 どうやらまったく信用されていないらしい。


 失礼な話である。


 ヴァレンティナ自身も、見るだけで終わる自信はあまりなかった。


 ◇


 ローゼンベルク侯爵邸の地下には、建物の規模にふさわしい複数の貯蔵室が造られていた。


 石造りの階段を下りていくと地上より空気がひんやりしており、厚い扉の向こうには用途ごとに区切られた部屋が続いている。


 ワインを保管する地下蔵。


 根菜類を置く冷暗所。


 小麦粉や砂糖、豆類などを湿気から守る乾燥した貯蔵室。


 さらにチーズや塩漬け肉、燻製品を保管するための比較的温度の低い部屋まであった。


 設備だけを見れば、さすが名門侯爵家である。


「へえ……かなり広いのね」


 ヴァレンティナは感心しながら辺りを見回した。


「先々――」


 後ろを歩いていたエレノアが、途中で言葉を止めた。


 ヴァレンティナは振り返る。


「何?」


「……以前より、この規模でございます」


「今、『先々代』って言おうとしたでしょう」


「申しておりません」


「絶対言いかけたわよね?」


「お気のせいでございます」


 最近のエレノアは、妙なところで学習が早かった。


 第2話でヴァレンティナから「先々代と言うの禁止」と言われたことを、律儀に覚えているらしい。


 もっとも、「以前より」と言い換えただけなので意味はほとんど同じである。


 やがて食料庫の扉が開かれた。


 中へ入ったヴァレンティナは、最初こそ感心した。


 壁沿いには頑丈な木製の棚が整然と並び、保存瓶、小麦粉、砂糖、乾燥豆、塩漬け肉、干した果物、香辛料などが種類ごとに分けて置かれている。


 床も清潔で、虫や鼠の気配もない。


 管理そのものが杜撰というわけではなさそうだった。


 だからこそ、少し調べただけで見つかった問題が余計に気になった。


「エレノア」


「はい」


「これ何?」


 ヴァレンティナは棚から一つの瓶を取り出した。


「杏のジャムでございます」


「それは見れば分かるわ」


 蓋を開けて中を確認すると、半分ほど残っている。


 問題は、その隣だった。


「これも開いてるじゃない」


「左様でございますね」


「なのに、こっちにもあるわよ」


 もう一つ取り出す。


 それも開封済みだった。


 さらに奥へ手を伸ばすと、三つ目まで出てくる。


「なんで杏ジャムが三瓶も開いてるのよ!」


 エレノアが珍しく返事に困った。


 ヴァレンティナは嫌な予感を確信へ変えながら、別の棚を調べ始めた。


「苺は?」


 少し探したところで、棚の奥から見覚えのある瓶が出てきた。


 昨日の朝食で使ったもので、底にはまだ四分の一ほど残っている。


「あるじゃない!」


「どうやら、新しいものを出す際に見落としたようでございます」


「なんで古いものが奥にあるのよ」


「新しく届いた品を、取り出しやすい手前へ置いておりますので」


「逆よ!」


 エレノアがわずかに眉を寄せる。


「……逆、でございますか?」


「古いものを手前に出して、先に使うの。新しく届いたものを前に置いたら、古いものがずっと後ろに残るでしょう?」


 ヴァレンティナは頭を抱えたくなった。


 もっと調べてみると、似たようなものが次々と出てくる。


 同じ種類のチーズが三つ開封され、少しずつ残っている。


 乾燥果物の袋も、同じものが二つ開いていた。


 野菜を入れた籠の奥には、しなび始めた人参が数本残っている。


 さらに別の籠を動かすと、柔らかくなった林檎まで見つかった。


「何これ」


「林檎でございます」


「林檎だったもの、になりかけてるでしょう!」


 完全に腐っているわけではない。


 今日か明日に加熱して使えば、まだ十分食べられる。


 けれど、このまま数日放置すれば捨てることになるだろう。


「毎週、在庫確認してないの?」


「厨房の者が確認しております」


「じゃあ、なんでこうなるの?」


 ヴァレンティナが問いかけたところで、背後から低い男の声がした。


「お言葉ですが、奥様」


 振り返ると、白い調理服を身につけた大柄な男性が立っていた。


 年齢は五十歳前後だろうか。肩幅が広く、長年厨房に立ってきた人間らしいがっしりとした手をしている。白髪の混じり始めた髪は短く整えられ、強面に見える顔つきに反して、ヴァレンティナを見る目は落ち着いていた。


「あなたは?」


「料理長を務めております、マルセル・ベネットでございます」


 マルセルは深く頭を下げた。


「この度は食料管理が行き届かず、申し訳ございません」


「怒ってるわけじゃないのよ」


 ヴァレンティナは首を振った。


「理由を知りたいだけ。毎週確認してるのに、どうして余ったものがこんなに出るの?」


「在庫そのものは毎週確認しております。ただ、注文する品と量がおおよそ決められておりますので」


 その言葉を聞いた瞬間、ヴァレンティナの表情が曇った。


「……決められてる?」


「はい。肉は何ポンド、卵は何個、小麦粉は何袋、野菜はどの程度と、通常週に発注する基準がございます」


「残っていても?」


「大きく余っていない限りは、基本的に同じ量を注文いたします」


「どうして?」


「そのように引き継いでおりますので」


 ヴァレンティナはエレノアを見た。


 エレノアも、今度ばかりは何も言わない。


「じゃあ、晩餐会が一度もない週でも同じくらい届くの?」


「基本的には」


「アルベルトが何日か留守でも?」


「はい」


「使用人の数が昔より減っていても?」


 マルセルがそこで少し黙った。


「……基本量そのものは、大きく変わっておりません」


 その答えで、ようやくヴァレンティナにも原因が見えてきた。


 マルセルが料理人として無能なわけではない。


 食料庫が汚れているわけでも、食材の扱いを知らないわけでもない。


 ただ、この家では昔から決められた量を決められた周期で注文することが「正しい仕事」になっているのだ。


 かつて使用人が今より多く、来客や晩餐会も頻繁だった時代なら、それで問題はなかったのだろう。


 けれど人が減り、客も減り、食べる量そのものが変わっているのに、発注量だけが昔のまま残っている。


「……またこれなのね」


「何がでございますか?」


 マルセルが尋ねる。


「昔は正しかったやり方を、今もそのまま続けてるのよ」


 ワインと同じだった。


 昔のローゼンベルク家なら払えた。


 昔のローゼンベルク家なら使い切れた。


 けれど、家の規模が縮小したあとも仕組みを変えていないから、余ったものが少しずつ捨てられていく。


「貧乏なのに食材を捨ててるんじゃなくて、昔の金持ちだった頃と同じ量を買ってるから余るのね」


 誰も否定しなかった。


 ◇


 一時間後、食料庫の前には小さな机が運び込まれていた。


 その上に紙を広げたヴァレンティナは、ペンを握って棚を見回した。


「まず、全部数えるわよ」


 マルセルが目を瞬いた。


「全部、でございますか?」


「全部」


「かなりの量がございますが」


「だから数えるのよ。何がどれだけあるか分からない状態で、何を注文するか決められないでしょう?」


 厨房から若いメイドが二人呼ばれ、しばらくすると話を聞きつけたセドリックまで姿を現した。


「何をなさっているのです?」


「在庫調査」


「……また何か始められましたか」


「『また』って何よ」


「いえ、何でもございません」


 セドリックは机の上の紙を覗き込んだ。


「こちらは?」


「一覧表よ」


 ヴァレンティナは紙へ線を引きながら、必要な項目を作っていった。


 品名と現在の数量に加え、購入日、開封済みか未開封か、そして次回の注文量まで記録できるようにする。


「新しく届いたものは棚の奥へ入れて、古いものを手前に出すの。使うときは手前から」


「なるほど」


 セドリックが頷く。


「開封した瓶や袋には、開けた日を書いた札をつけましょう。誰が見ても古い方が分かるようにするの」


 ヴァレンティナは小さな厚紙へ日付を書き、紐で瓶の首へ結びつけた。


 見た目は単純だが、これなら毎回蓋を開けて確かめる必要もない。


「それから、次の注文を出す前に必ずこの表を見る。残ってるものまで毎週同じ数だけ買わない」


 マルセルが一覧表を覗き込んだ。


「在庫分を差し引いて発注するということでございますね」


「そう」


「しかし、急に客人がお見えになった場合は、普段より多く食材が必要になります」


「そこは余裕を持たせるわよ。全部ぎりぎりにしろなんて言ってないもの」


 ヴァレンティナはマルセルを見る。


「料理長なら、何がどのくらい残っていれば急な来客にも対応できるか分かるでしょう?」


「もちろんでございます」


「だったら、最低限残しておく量はあなたが決めて」


 マルセルが少し驚いた顔をした。


「私が、でございますか?」


「料理するのは私じゃなくてあなたでしょう。肉が何ポンド必要かなんて、私より毎日厨房に立ってるあなたの方が分かるわよ」


「しかし、奥様が決められるものかと」


「私が決めたら、それこそ今までと同じじゃない」


 ヴァレンティナは一覧表を指で叩いた。


「私は無駄を減らしたいだけ。料理の質まで落としたいわけじゃないの。必要な量は料理長が決めて、余ってる分だけ次の注文を減らす。それでいいでしょう?」


 マルセルはしばらくヴァレンティナを見ていた。


 新しく嫁いできた侯爵夫人が厨房へ乗り込み、食材を数え始めたと聞けば、料理長としては仕事へ口を出されると思っても不思議ではない。


 けれどヴァレンティナが求めているのは、自分の言う通りに料理を作ることではなかった。


「承知いたしました」


 やがてマルセルは深く頷いた。


「最低在庫につきましては、私の方で品目ごとに決めさせていただきます」


「お願い」


 マルセルの表情が、それまでより少しだけ柔らかくなった。


 ◇


 在庫を調べ終えると、今度は早く使った方がいい食材が食卓の上へ集められた。


 柔らかくなり始めた林檎、前日のロースト肉、半端に残った人参や玉葱、少し乾いたパン、開封済みのチーズなど、どれも傷んではいないが、そのまま置いておけば近いうちに処分される可能性が高いものばかりだった。


「今日中に使いたいのは、これくらいね」


 ヴァレンティナが言うと、マルセルは腕を組んで食材を眺めた。


「林檎は砂糖と香辛料で煮れば、まだ十分使えます」


「そうよね」


「昨日の肉は細かくしてパイにいたしましょう。人参と玉葱はスープへ回せますし、チーズも一部はパイに使えます」


「パンは?」


「卵と牛乳を使って、パンプディングにできます」


 ヴァレンティナの顔が明るくなった。


「それ!」


 思わずマルセルを指差す。


「それ食べたい」


「承知いたしました」


 話がまとまりかけたところで、背後からエレノアの声がした。


「奥様」


「何?」


「まさかとは思いますが、奥様も厨房へ入られるおつもりではございませんね」


「そのつもりだけど」


「なりません」


「また!?」


「侯爵夫人が厨房で料理などなさる必要はございません」


「料理くらいするわよ」


「料理人がおります」


「今日は手伝うだけ」


「なりません」


「林檎の皮を剥くだけよ!」


「なりません」


「なんでよ!」


「なりません!」


 向かい合う二人を見ていたセドリックが、静かに呟いた。


「……随分と仲がよろしいですね」


 二人が同時に振り返る。


「「どこが!」」


 ぴたりと声が揃った。


 セドリックは一瞬黙ったあと、何事もなかったように視線を逸らした。


「失礼いたしました」


 ◇


 結局、その日の午後、ヴァレンティナは厨房にいた。


 勝ったのである。


 もっともエレノアからは、「火の近くへ不用意に近づかないこと」「料理人の邪魔をしないこと」「ドレスを汚さないこと」と、子供へ言い聞かせるような注意を受けた。


 ヴァレンティナは借りたエプロンをドレスの上へつけ、作業台の前で林檎の皮を剥いている。


 小さなナイフを動かすたび、赤い皮が途切れることなく細長く落ちていった。


「奥様、お上手ですね」


 隣で野菜を運んでいた若いメイドが、珍しそうに手元を見ている。


 小柄でまだ幼さの残る顔立ちをした娘で、名をリナというらしい。


「これくらい普通よ」


「奥様も、ご実家で料理をなさっていたのですか?」


「お母様がうるさかったの。料理人が病気になったくらいで食事ができなくなる女になるなって」


「……随分と現実的なお母様ですね」


「でしょう?」


 ベルモンド夫人は、娘に貴族の女性として必要な教育を一通り受けさせていた。


 礼儀作法や音楽、語学はもちろん、舞踏も社交も習わせた。


 けれど、それと同じくらい熱心に教え込んだのが、料理、裁縫、帳簿の読み方、保存食の作り方、そして使用人へ仕事を任せる方法だった。


 母の口癖は、いつも同じだった。


 金があるから何もしなくていいと思ったら終わりであり、商売で得た財産など商売に失敗すれば消えるのだから、自分の暮らしがどう成り立っているのかくらいは知っておけ。


 爵位を金で買ったと陰口を叩かれるベルモンド家だからこそ、そのあたりは妙に現実的だった。


「奥様」


 鍋を見ていたマルセルが、ヴァレンティナを呼んだ。


「味をご覧になりますか?」


「いいの?」


「もちろんでございます」


 差し出された小皿からスープを一口飲むと、野菜の甘みと肉の出汁がよく出ている。


「……美味しい」


「ありがとうございます」


「でも、もう少しだけ胡椒があってもいいかも」


 マルセルがわずかに笑った。


「私もそう思っておりました」


「でしょう?」


「では、少し足しましょう」


 ヴァレンティナはそこで初めて、マルセルが笑ったところを見た。


 どうやら厨房へ乗り込んできた侯爵夫人への警戒は、少しだけ解けたらしい。


 ◇


 その日の夕食で、アルベルトは肉のパイを一口食べたところで手を止めた。


 何か気になることでもあったのか、もう一口食べる。


「今日のパイは美味いな」


「でしょう?」


 向かい側に座るヴァレンティナが、なぜか自分が褒められたような顔をした。


「マルセル、何か変えたのか?」


 壁際に控えていたマルセルが一礼する。


「昨日のロースト肉を使っております」


 アルベルトの手が止まった。


「……昨日の?」


「はい」


 ヴァレンティナが楽しそうに話へ入る。


「人参も昨日まで食料庫に残ってたものよ」


「…………」


「スープも、今日中に使った方がいい野菜をまとめて入れてあるの」


「…………」


「デザートは少し硬くなったパンで作ったパンプディング」


 アルベルトはゆっくりフォークを置いた。


「待て」


「何?」


「今日の夕食は残り物なのか?」


「言い方!」


「違うのか?」


「まだ食べられる食材を、無駄なく使ったの!」


「同じでは?」


「全然違うわよ!」


 アルベルトは目の前のパイを見た。


 美味い。


 それだけに、昨日の料理の残りだと言われると複雑らしい。


「旦那様」


 マルセルが口を開いた。


「食材の状態には、すべて私が責任を持って問題がないことを確認しております」


「それは分かっている。お前が傷んだものを出すとは思っていない」


「ありがとうございます」


 マルセルは一礼してから続けた。


「今回、まだ十分使用できる食材まで処分していたことが分かりました。私も、決められた量を注文することばかり考え、現在の使用量に合わせて発注そのものを見直すことをしておりませんでした」


「そんなに余っていたのか?」


「少量ずつではございますが、毎週となれば相当な量になります」


 アルベルトはヴァレンティナを見る。


「……また君か」


「何よ、その言い方」


「別に悪い意味ではない」


「だったら褒めて」


「なぜそうなる」


「妻が頑張ったんだから、褒めるくらいしなさいよ」


 アルベルトはしばらく黙った。


 本当に言わなければならないのか、と考えている顔だった。


 やがて諦めたように口を開く。


「……よくやった」


「棒読み!」


「褒めろと言ったのは君だろう」


「もうちょっと気持ちを込めなさいよ!」


 マルセルは口元を押さえ、セドリックは完全に横を向いた。


 エレノアだけはいつものように無表情で控えている。


 ただし、ヴァレンティナが午後から厨房へ入り込んでいたことについて、夕食中に一度も文句を言わなかった。


 それが彼女なりの小さな譲歩であることには、まだヴァレンティナは気づいていなかった。


 ◇


 一週間後、書斎で帳簿を確認していたヴァレンティナのもとへ、セドリックが一枚の紙を持ってきた。


「奥様、先週と比較した食材購入費でございます」


「もう出たの?」


「マルセルが発注量を調整しておりますので、ある程度は」


 ヴァレンティナは紙を受け取り、数字を確認した。


「……二十一リル減ってる」


「はい」


「一週間で?」


「左様でございます」


 宴会や来客の有無によって変動するため、毎週必ず同じだけ減るわけではない。


 それでも、この程度の削減が続けば月に八十リル前後、年間ではおよそ千リル近い差になる可能性がある。


 しかも料理の品数や質を落としたわけではない。


 捨てていたものを使い、余計に買っていた分を減らしただけである。


「年間で千リル……」


 ヴァレンティナの目が輝いた。


「屋根!」


 セドリックが小さく息を吐いた。


「……やはり、そこへ行きますか」


「だって二千百八十リルでしょう?」


「よく覚えておられますね」


「寝室で桶三つ並べたのよ。忘れるわけないでしょう!」


 そこへ、ちょうどアルベルトが書斎の前を通りかかった。


「何の話だ?」


 ヴァレンティナは待ってましたとばかりに紙を差し出した。


「食費。今のやり方が続けば、年間で千リルくらい減らせそう」


 アルベルトが紙を受け取った。


「そんなに?」


「そう。しかも食事は減らしてないし、安い材料に全部変えたわけでもないわよ」


「捨てていた分か」


「それと、余ってるのに買ってた分」


 アルベルトは数字を追いながら、しばらく考えていた。


「……ワインと合わせれば」


 途中で言葉を止める。


 ヴァレンティナの口元が、ゆっくりと上がった。


「何?」


「いや」


「今、屋根まであといくらか考えたでしょう?」


「考えていない」


「嘘」


「考えていない」


「絶対考えた」


「しつこいぞ」


 アルベルトは紙をセドリックへ返し、そのまま廊下を歩き始めた。


 しかし数歩進んだところで足を止める。


「セドリック」


「はい」


「屋根の見積書、まだ残っているか?」


「もちろんでございます」


「あとで俺の書斎へ持ってきてくれ」


「かしこまりました」


 ヴァレンティナは満面の笑みを浮かべた。


「ほら!」


「うるさい」


 アルベルトは振り返らずに去っていった。


 セドリックがその背中を見送りながら、静かに笑う。


 ヴァレンティナはもう一度、食費の報告書へ目を落とした。


 雨漏りする屋根も、毎晩開けていた高級ワインも、食料庫の奥で忘れられていたジャムも、一つだけを見れば侯爵家を傾けるほどの問題ではない。


 けれど、日々の小さな無駄は一年になれば大きな金額になる。


 そして逆に言えば、小さな無駄を一つずつ直していけば、その金を本当に必要な場所へ回すことができる。


 節約とは、ただ使う金を減らすことではない。


 必要なものまで削るのではなく、捨てていた金を拾い直すことなのだ。


「よし」


 ヴァレンティナは次の帳簿を引き寄せた。


 それを見たセドリックが、どこか楽しそうに尋ねる。


「今度は何を見つけられますかね」


「何もないのが一番なんだけど」


「それは難しいかと」


「なんでよ」


「このお屋敷ですので」


 ヴァレンティナは反論しようとして、口を閉じた。


 雨漏り、高級ワイン、開封済みのジャムが三瓶。


 残念ながら、否定できる材料が何一つなかった。


 それでも、少なくとも一つずつ状況は変わり始めている。


 ローゼンベルク侯爵家の屋根が直る日は、昨日よりほんの少しだけ近づいていた。

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