第32話 侯爵家、メイド長の恋を知りません
第32話 侯爵家、メイド長の恋を知りません
ローゼンベルク侯爵家のメイド長、エレノアには、十七年間守り続けている習慣があった。
毎朝五時半に起床し、身支度を整え、六時には使用人たちの勤務表を確認する。厨房へ顔を出して食材の納入状況を確かめ、客室の清掃予定を確認したあと、奥様がお目覚めになる前に、その日の衣装と身の回りの品を用意する。急な来客や天候の変化にも対応できるよう、常に予定には余裕を持たせていた。
使用人の仕事は、何も起こらないことが最も望ましい。
主人が必要なものを口にする前に用意し、不便を感じる前に問題を取り除く。それが、彼女の考える理想の奉公だった。
十七歳でこの屋敷へ来たばかりの頃は、失敗も多かった。食器の置き方を間違え、客人の外套を預かる順序を取り違え、先輩の使用人から何度も注意された。それでも仕事を覚えることが楽しく、ひとつできることが増えるたびに、自分にもこの屋敷で役に立てる場所があるのだと嬉しくなった。
あれから十七年が過ぎた。
今では、エレノアが廊下を歩くだけで、若いメイドたちは自然と背筋を伸ばす。彼女が声を荒らげることは滅多になかったが、わずかな表情の変化だけで、仕事の不備を指摘される前に気づく者も多かった。
その朝も、彼女はいつもどおり、使用人たちの仕事を確認していた。
「リナ、客室の花瓶は水を替えておいてください。クラウディア様は花の香りが強すぎるものをお好みになりませんから、薔薇は少なめにしましょう」
「はい、エレノア様」
「それから、東側の廊下は午後に磨いてください。午前中はウォルシュ様がいらっしゃいますので、通行の妨げにならないように」
リナが頷き、手帳へ予定を書き込む。
エレノアはその様子を確認すると、次の仕事へ移った。
クラウディアが再び侯爵家を訪れてから、二日が過ぎていた。
厳格な彼女が滞在している間は、普段以上に細かな配慮が必要だったが、エレノアにとっては慣れたことだった。クラウディアは不備を見逃さない一方、仕事が正確であれば、それをきちんと評価してくれる。理由もなく使用人を叱責することもなかった。
むしろ、彼女が滞在している間に気をつけなければならないのは、奥様の方かもしれなかった。
ヴァレンティナは、クラウディアとすっかり打ち解けていた。
結婚式の日には、姿勢を注意されて戸惑っていたというのに、今では叔母の厳しい指摘にも笑顔で応じ、時には冗談まで言い返している。昨日も庭園を散歩しながら、二人は随分と楽しそうに話していた。
エレノアは、その光景を思い出して微笑んだ。
奥様は、本当に不思議な方だ。
商人の家で育ったというだけあって、貴族の慣習にとらわれないところがある。初めて屋敷の帳簿を見たときには、支出の多さに驚き、すぐに改善策を考え始めた。使用人たちが長年当然だと思っていたことにも疑問を持ち、必要だと判断すれば、ためらわず変更を提案する。
最初は、その行動力に戸惑った。
けれど、今では分かっている。
奥様は、決して思いつきだけで行動する方ではない。
必要な数字を確かめ、関係者の意見を聞き、できるだけ多くの人が納得できる方法を探そうとする。時には少々強引なところもあるが、その根底には、この屋敷をよくしたいという真っ直ぐな思いがあった。
エレノアは、そんな奥様を尊敬していた。
だからこそ、昨夜の自分の考えが、ひどく恥ずかしかった。
子どもの予定は、当分ない。
ヴァレンティナが何気なく口にしたその言葉を、エレノアは何度も思い返していた。
子どもを持つ予定がないからといって、夫婦が親密でないとは限らない。そんなことは、三十四歳にもなれば十分理解している。
それなのに、ほんの少しだけ安心してしまった。
旦那様と奥様は、まだそれほど深い関係ではないのかもしれない。
そう考えた自分が、情けなかった。
エレノアは手元の勤務表へ視線を落とし、静かに息を整えた。
仕事に私情を持ち込んではならない。
それは、彼女が長年守ってきた、最も大切な規律のひとつだった。
◇
エレノアが初めてアルベルトに会ったのは、十七年前の春だった。
当時の彼女は十七歳で、紹介を受けてローゼンベルク侯爵家へ奉公に来たばかりだった。立派な石造りの屋敷を前に緊張し、玄関へ入る前に何度も衣服の皺を伸ばしたことを、今でも覚えている。
アルベルトは十二歳だった。
母親をすでに亡くし、父親である先代侯爵の厳しい教育を受けながら、次期当主として育てられていた。
初めて見た彼は、年齢の割に落ち着いた少年だった。
黒い髪をきちんと整え、背筋を伸ばして歩き、使用人たちにも必要以上に親しく接することはなかった。けれど、冷たいわけではなく、挨拶をすれば必ず返事をし、仕事を手伝ってもらえば礼を言う。
その礼儀正しさが、エレノアには印象的だった。
当時の彼女にとって、アルベルトはただの若君だった。
五歳年下の少年であり、いつかこの侯爵家を継ぐことになる大切な跡取り。彼が困らないように身の回りを整え、失礼のないように仕えることが、自分の役目だと思っていた。
その認識が変わるまでには、何年もの時間が必要だった。
アルベルトが王立学院へ進み、屋敷を留守にする日が増えても、エレノアの仕事は変わらなかった。休暇で戻ってくれば部屋を整え、衣服を用意し、学院での生活に必要なものを確認する。
少年は少しずつ背が伸び、声が低くなり、顔立ちにも大人びた印象が加わっていった。
けれど、エレノアは、その変化を特別なものとは考えていなかった。
主人の成長を見守ることも、使用人の仕事の一部だったからだ。
アルベルトが成人した後も、しばらくは同じだった。
彼は学院での学業を終え、侯爵家の仕事に関わるようになり、先代侯爵と意見を交わす機会も増えていった。時には父親と激しく対立することもあったが、使用人たちの前では感情を抑え、何事もなかったように振る舞っていた。
エレノアが彼を一人の男性として意識したのは、そんな頃のことだった。
きっかけは、驚くほど些細な出来事だった。
ある冬の夕方、エレノアは書庫の高い棚から帳簿を取り出そうとして、踏み台の上で足を滑らせた。
幸い、転倒する前に棚へ手をつくことができたが、積み重ねていた書類が床へ散らばってしまった。慌てて拾い集めていると、ちょうど書庫へ入ってきたアルベルトが、黙って膝をついた。
「坊ちゃん、そのようなことは私がいたします」
当時はまだ先代侯爵が存命で、アルベルトを坊ちゃんと呼ぶ使用人も多かった。
しかし、彼は気にした様子もなく、床の書類を拾い集めた。
「一人では時間がかかるだろう」
「ですが……」
「それより、怪我はないか?」
エレノアは、少し驚いた。
「……はい。大丈夫でございます」
「そうか。ならよかった」
アルベルトは書類を整え、彼女へ手渡した。
ただ、それだけだった。
主人が使用人を気遣うことなど、珍しくもない。
それなのに、その日のエレノアは、なぜか彼の声をいつまでも忘れられなかった。
いつから、あの方の声はこんなに低くなったのだろう。
いつから、自分よりもずっと大きな手をしていたのだろう。
そんなことを考えた自分に驚き、慌てて仕事へ戻った。
それが、始まりだった。
もちろん、その頃の彼女は、自分の感情に名前をつけようとはしなかった。
相手は侯爵家の跡取りであり、自分は使用人だった。
立場が違いすぎる。
何より、アルベルトには将来、家柄にふさわしい女性との結婚が待っているはずだった。
だから、何も望まないことにした。
彼が幸せであれば、それでよい。
その言葉を、何度も自分に言い聞かせた。
しかし、願わないことと、想像しないことは、同じではなかった。
◇
「エレノア、少しよろしいですか」
廊下で声をかけられ、エレノアは顔を上げた。
セドリックだった。
彼は数枚の書類を手にしており、いつもどおり落ち着いた表情を浮かべている。
「はい。何でしょうか」
「来週の勤務表について、確認したいことがありまして」
セドリックは書類を差し出した。
「ミレイユの休暇希望が、ほかの使用人と重なっています。裁縫の仕事もありますし、少し調整が必要かもしれません」
エレノアは、勤務表へ目を落とした。
ミレイユは昨年、侯爵家へ雇われた女性だった。
裁縫の腕がよく、衣装の修繕や仕立て直しにも詳しい。今ではメイド長補佐として働きながら、金曜日には使用人たちへ裁縫を教える時間も設けている。
仕事ぶりは申し分なかったが、最近、休暇の希望が少し増えていた。
「……そうですね。金曜日の講習に支障が出ないよう、ほかの日で調整しましょう」
「分かりました。私の方でも確認しておきます」
セドリックは頷いた。
エレノアは書類を返そうとして、ふと彼の手元に目を留めた。
「……セドリック、その指はどうなさったのですか?」
彼の右手の人差し指には、小さな布が巻かれていた。
「ああ、これですか。昨夜、書類を整理しているときに、少し切ってしまいまして」
「紙で、ですか?」
「ええ。たいした傷ではありません」
エレノアは、少しだけ眉を寄せた。
「小さな傷でも、きちんと手当てをなさってください。執事長が怪我をしていては、ほかの使用人たちにも示しがつきません」
セドリックは、思わず笑った。
「……あなたにそう言われると、反論できませんね」
「当然です」
エレノアも、少しだけ微笑んだ。
二人が一緒に働くようになって、十六年になる。
セドリックがこの屋敷へ来たとき、彼は二十二歳で、エレノアは十八歳だった。まだ若かった二人は、先輩の使用人たちに叱られながら仕事を覚え、時には失敗をかばい合い、忙しい日には夜遅くまで後片づけを手伝った。
今では、彼が執事長で、エレノアがメイド長だ。
屋敷の仕事について相談する相手として、彼ほど頼りになる人はいなかった。
「ところで、エレノア」
「はい」
「昨夜は、あまり眠れなかったのではありませんか?」
思いがけない質問に、エレノアは目を瞬かせた。
「……なぜ、そのようにお思いになるのですか?」
「少し、お疲れのように見えましたので」
セドリックは、穏やかに答えた。
「クラウディア様のご滞在中は、いつも以上に気を遣うでしょう。何か手伝えることがあれば、遠慮なく言ってください」
エレノアは、しばらく彼を見つめた。
セドリックは、昔からこういう人だった。
必要以上に踏み込むことはしないが、相手の小さな変化にはよく気づく。疲れている人がいれば、理由を問い詰めるより先に、仕事を分担しようとする。
その優しさに、何度助けられたか分からない。
「……ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
「そうですか」
セドリックは、それ以上尋ねなかった。
「それなら、よかった」
彼は軽く会釈をし、廊下を歩いていった。
エレノアは、その後ろ姿を見送りながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
あの人は、いつも自分を気遣ってくれる。
そのことを、彼女は十分理解していた。
けれど、彼の優しさを思い出しているときでさえ、心の奥には別の人の姿があった。
◇
午後、ヴァレンティナはクラウディアとともに、庭園の東側を散歩していた。
エレノアは少し離れたところを歩き、必要があれば声をかけられるようにしていた。
庭園では春の花が咲き始め、石造りの噴水の周囲には新しい花壇が整えられている。昨年までは修繕費を捻出できず、庭師たちも最低限の手入れしかできなかったが、今では少しずつ景観が改善されていた。
「この花壇も、今年になって植え直したんです」
ヴァレンティナが説明すると、クラウディアは満足そうに頷いた。
「いいことね。屋敷の外観は、訪れる人の印象を大きく左右するもの」
「ええ。だから、少しずつでも整えていこうと思っています」
「ただし、見栄のために無駄な出費をしてはいけないわよ」
「分かっています。そこはちゃんと計算していますから」
ヴァレンティナは、楽しそうに笑った。
クラウディアも、わずかに口元を緩めた。
そのとき、向こうからアルベルトが歩いてきた。
「叔母上。お待たせしました」
「あら、アルベルト。仕事は終わったの?」
「急ぎの案件は片づきました。少しなら時間を取れます」
アルベルトは、ヴァレンティナへ視線を向けた。
「庭園の様子はどうだ?」
「とても綺麗よ。ちょうど叔母様に、新しい花壇を見ていただいていたところなの」
「そうか」
彼は穏やかに頷き、妻の隣へ並んだ。
クラウディアは、二人を見比べて小さく笑った。
「……あなたたち、随分と息が合うようになったわね」
ヴァレンティナは、少し照れたように微笑んだ。
「そうでしょうか?」
「ええ。以前より、ずっと自然に話しているわ」
アルベルトは、特に否定しなかった。
その様子を、エレノアは少し離れた場所から見つめていた。
春の陽光の中で、二人は並んで歩いている。
ヴァレンティナが何かを話すと、アルベルトは静かに耳を傾け、時折微笑んでいた。
その姿は、誰が見ても仲のよい夫婦だった。
エレノアは、胸の奥がわずかに締めつけられるのを感じた。
奥様は、何も悪くない。
むしろ、旦那様を笑顔にしてくださる、素晴らしい方だった。
だからこそ、自分の感情が許せなかった。
もし、奥様がもっと冷たい方だったなら。
もし、旦那様を大切にしない方だったなら。
自分は、もう少し気楽に嫉妬できたのだろうか。
そんなことを考えた瞬間、エレノアは自分の浅ましさに気づき、慌てて視線を落とした。
奥様が悪い方であればよかったなどと、考えるべきではない。
それでは、旦那様の幸福を願っているとは言えないではないか。
エレノアは、静かに息を整えた。
そして、いつものメイド長の表情へ戻った。
◇
その夜、エレノアは自室の鏡台に向かい、髪をほどいていた。
昼間はきっちりと結い上げている髪を下ろすと、鏡の中には、メイド長ではなく、三十四歳の一人の女性が映っている。
エレノアは、鏡の中の自分をしばらく見つめた。
十七年前、この屋敷へ来たばかりの頃は、もっと幼い顔をしていた。
仕事を覚えることに必死で、毎日が慌ただしく、将来のことなど考える余裕もなかった。
それが、いつの間にか三十四歳になっていた。
結婚もせず、子どもも持たず、侯爵家の仕事だけを続けてきた。
もちろん、後悔しているわけではない。
この屋敷は、彼女にとって大切な場所だった。
使用人たちは家族のような存在であり、仕事にも誇りを持っている。
けれど、時折考えることがあった。
もし、自分が普通の女性として暮らしていたなら。
もし、誰かと結婚し、家庭を持っていたなら。
今頃、どんな生活をしていただろう。
そんな想像をするとき、いつも最後には、同じ人の顔が浮かんでしまう。
アルベルト。
彼が自分の夫だったなら。
朝、目を覚ましたとき、隣に彼が眠っていたなら。
仕事を終えて帰ってきた彼を、使用人としてではなく、妻として迎えることができたなら。
エレノアは、思わず目を閉じた。
そんなことは、あり得ない。
彼は侯爵家の当主であり、自分は使用人だった。
何より、彼にはすでに妻がいる。
それなのに、想像の中では、彼が自分の名前を呼んでいた。
いつものように「エレノア」と。
ただし、仕事を言いつけるためではなく、もっと親しい声で。
エレノアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
そして、慌てて首を振った。
何を考えているのだろう。
旦那様は、奥様を大切になさっている。
自分は、その幸福を守るために働いているはずではないか。
エレノアは、鏡台の引き出しを開けた。
そこには、小さな布袋がしまわれていた。
彼女は、それを取り出し、そっと中身を確かめた。
銀色の、小さなブローチだった。
楕円形の台座に青いガラス石が一粒だけ嵌め込まれた、決して高価とはいえない装身具。
けれど、エレノアにとっては、どんな宝石よりも大切なものだった。
十数年前、まだ王立学院に通っていたアルベルトが、小遣いを貯めて買ってくれたものだった。
あの頃の彼は、まだ少年の面影を残していた。
ある日、仕事で失敗して落ち込んでいたエレノアへ、小さな包みを差し出してくれた。
誕生日でも、特別な祝いの日でもなかった。
ただ、彼が何気なく贈ってくれた品だった。
そのときのことを、エレノアは今でも鮮明に覚えている。
少し照れくさそうな表情も、包みを渡すときの不器用な手つきも、礼を言うと、たいしたものではないと素っ気なく答えた声も。
あの日から、エレノアはそのブローチを何度も身につけてきた。
大切な日には必ず胸元へ留め、傷がつかないよう丁寧に磨き、留め金が緩めば自分で直した。
彼がそのことを覚えているかどうかは、分からなかった。
おそらく、もう忘れているだろう。
それでもよかった。
エレノアは、ブローチを手のひらに載せ、そっと指先で撫でた。
あの頃の自分は、まだ何も知らなかった。
いつか、この小さな贈り物を、これほど大切に思うようになることも。
その贈り主を、決して手の届かない相手として愛するようになることも。
エレノアは、静かに息を吐いた。
そして、ブローチを布袋へ戻した。
明日もまた、いつもどおりに働くのだ。
奥様には微笑み、旦那様には忠実に仕え、使用人たちの仕事を整える。
それが、自分の役目だった。
けれど、引き出しを閉める直前、彼女はもう一度だけブローチを取り出した。
そして、そっと胸元へ当ててみた。
鏡の中の自分は、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
その表情を見た瞬間、エレノアは、どうしようもなく悲しくなった。
十七年間、この屋敷で働いてきた。
その間に、旦那様は大人になり、侯爵となり、結婚した。
自分もまた、十七歳の少女から三十四歳の女性になった。
それなのに、心のどこかだけが、ずっと同じ場所に取り残されている。
エレノアは、ブローチを布袋へ戻し、今度こそ引き出しを閉めた。
窓の外では、夜の風が庭木を揺らしていた。
彼女は灯りを消し、寝台へ横になった。
明日も、忙しい一日になる。
そのことを考えながら目を閉じたが、なかなか眠りは訪れなかった。
暗闇の中で、彼女はふと、昼間の庭園を思い出した。
アルベルトとヴァレンティナが並んで歩いていた光景。
旦那様が奥様へ向けた、穏やかな微笑み。
エレノアは、寝返りを打った。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……お幸せに、旦那様」
それは、心からの願いだった。
同時に、彼女が最も言いたくない言葉でもあった。
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